第四十二幕 逃亡
人気のない裏口から、外に出る。人払いは、小雪がやってくれた。
冬の夕暮れは早く、陽は既に落ちかけている。逃げるのにこれほど好都合な時間はないと、涼一は思った。
「全様、冷えますから、私にしっかり捕まっていて下さい」
「ああ」
腕の中の全が小さく頷くのを確かめ、涼一は静かに歩き始めた。か細い力がぎゅっと己の胸元を握るのが、たまらなく愛おしかった。
人目を避けるように道の端や路地裏を選んで、涼一は進む。やましい事は何も無く、むしろ全を助ける為の行動であるのだが、逃亡というこの行為にどこか背徳感を抱いてしまうのは、人として仕方の無い事なのかもしれなかった。
幸い今日は人通りも少なく、涼一達を見咎める者は誰もいなかった。その事に勇気づけられながら、涼一は更に歩を進める。
目指すは城下と吉原の境目、二つを隔てる川にかかる橋。そこさえ越えれば、晴れて吉原を出る事が出来る。
「吉原を出られたら、何がしたいですか?」
不意に涼一が、そう口を開いた。自らが抱える不安を、振り切るかのように。
「……まだ、上手い考えが纏まらねえな」
そんな涼一に、全は苦笑し答えた。全の目もまた不安げに揺れていたが、涼一の視界にそれが映る事はなかった。
「何しろ吉原を出て暮らす事なんて、一度も考えた事がなかったんだ。すぐに考えろっつわれたって、無理さ」
「確かに、そうかもしれませんね」
「そういうお前は、あるのかよ? やりたい事」
「……そうですね……」
少し考え込むように、涼一の言葉が止まる。ややあって、何かを思い付いたように再び涼一は口を開いた。
「……海の見える所に、暮らしとう御座います」
「海?」
「はい。一度、行ってみたかったのです」
全の見上げる視線と涼一の見下ろす視線が、薄闇の中で混じり合う。二人はしばらく互いを見つめ、やがて、全く同じ瞬間に吹き出した。
「いいな、海」
「はい」
「毎日釣りたての魚、食えるかな?」
「運がよろしければ」
「違いない」
穏やかな会話に、二人の表情に宿っていた不安がほどけていく。これからの事を、前向きに考える。今二人に出来る一番の事は、それであった。
やがて、橋が目前に見えてくる。そこを越えれば、新しい人生が待っているはずだったが。
「……涼一」
突然、全の声が固くなった。涼一の足もまた、それを聞くまでもなく止まる。
二人の行く手、目指す橋の欄干に、寄りかかる影があった。影は二人の姿を認めると、優雅な動作で身を起こし、向き直る。
「……旦様」
「フフ、待っていたよ? ――全」
その人物は――旦は、感情の読み取れない声でそう言った。