第四十一幕 小雪の願い
全を抱え、足音を殺し廊下を進む。
一刻も早く、全を連れて太田屋を出たい気持ちはあった。だがまだ、騒ぎを大きくしすぎるのは不味いと涼一は思う。
ここから一番近いのは裏口だが、それでもまだ距離はある。他の店子や下男達に行く手を阻まれてしまえば、どうしようもない。
せめて裏口までの強行突破が可能な距離になるまでは、他の者には、全を外に連れ出そうとしている事を知られてはいけない。それが涼一が今取れる、最善の方法だった。
「……俺の都合のいい幻覚じゃあ、ないんだな」
不意に、全が呟いた。その瞳には弱々しくも、確かな光が戻っている。
「全様、気が付かれたのですか!?」
「もういい。涼一」
声を潜め尋ねた涼一に、全は言った。そしてその細い腕で、力無く涼一の胸を押す。
「全様?」
「助けに来てくれた事には礼を言う。けど……駄目なんだ。……俺は、この太田屋を離れられない……」
「何を……」
予想外の言葉に、涼一は反論を紡ごうとする。しかし今まさに口から出ようとしたその直前に、言の葉は喉奥へと逆流してしまう。
涼一を見る全の眼差しは、それほどまでに真っ直ぐで、凜と澄み渡っていた。
「俺がいなくなれば、この店の遊女達はどうなる」
全が細い、けれどはっきりとした声を吐き出す。
「兄貴は、アイツは、遊女をいくらでも取り替えの利く商品としか思っちゃいない。アイツ一人に店を任せれば、この店の遊女達は地獄に落ちる」
切実な訴えだった。本当は誰よりも遊女達に心を砕く、全らしい訴えだった。
「例え幽閉されていても、ここにいさえすれば、まだアイツらを何とかしてやれるかもしれない。だが俺がここを逃げ出したら、アイツらを守れる奴はもう誰もいなくなるんだ」
涼一の着物の襟元を掴む、全の手が震えた。眉間に寄せられた皺は深く、涙の滲む黒目は小さく歪んでいる。
「アイツらを置いて、俺だけ救われる訳にはいかねえ。そんな事をするぐらいなら俺は……」
「いいや、アンタは救われるべきさ」
突然、声が響いた。涼一が声のした方を振り返ると、そこにはいつの間にか小雪が立っていた。
「小雪……?」
「アンタは救われるべきだ、全。アタシ達の分まで」
重ねて、小雪はそう言った。強い口調に、全の瞳が大きく揺れる。
「アタシ達は年季が明けるか身請けされりゃあ、いずれ吉原を離れられる。だがアンタは、今を逃しちまったら、きっともう二度と吉原を出られる機会はない」
「で……でも! 俺ァ……!」
「幸せになっておくれよ、どうか」
小雪が笑う。穏やかな、それでいて、どこか儚げな笑みを口元に浮かべる。
「吉原の女でも、幸せになれる……そんな夢を、アタシ達に見せておくれよ、全……」
「……」
全と小雪、二人の視線が交錯する。暫しの沈黙。先にそれを破ったのは、全の方だった。
「……それは、手前らの総意か」
「ああ」
「……解った。なら俺は……今から、初めて自分の為に生きる」
そう言って、全は涼一を振り返る。その瞳には、今、強い意思の光があった。
「お前の手で連れて行ってくれ、涼一。俺の知らない、外の世界へ」
「……畏まりました、全様」
愛しき主人の命に、涼一は、心からの笑みで応えた。




