9 妻の立つキッチン
ふたりの部屋のキッチンには、少しずつ鍋や道具類が揃っていった。フランチェスカはそれらを使って朝夕、料理をするようになった。
味付けが濃かったり薄かったり、焦がしたり生煮えだったりと失敗を繰り返しながらも、フランチェスカは毎日キッチンに立った。
フランチェスカはだいたい朝はロレンツォが寝ているうちに、夜はロレンツォが帰る時間に合わせて食事を用意してくれた。だが、ロレンツォは料理をしているフランチェスカの姿を見たかったので、待たされるくらいで良かった。
ある日の夕食後、いつものようにソファに落ち着いてからロレンツォは言った。
「この部屋でできたての温かい料理を食べられるなんて、少し前までは思っていませんでした」
「だけど、オーブンがないからお菓子を焼くのは無理ね。またお友達のところで作らせてもらってもいいかしら?」
フランチェスカに上目遣いで尋ねられ、ロレンツォは答えた。
「私は構いませんが、そのご友人のほうは大丈夫なのですか?」
「ええ、いつでもどうぞって言われているわ」
「ずいぶんご親切な方ですね。私も1度お礼をしたほうがいいでしょうか?」
「それは必要ないと思うけど」
「ああ、そうですよね」
フランチェスカの夫だからと言って自分などが出しゃばるのは余計なことだったと、ロレンツォは自嘲気味に思った。
ふいにフランチェスカが横から手を伸ばしてきて、ロレンツォの頭を撫でた。
「お礼が必要な相手ではないって意味だから、勘違いしないでね」
「はい」
子供扱いされているのかと思ったが、フランチェスカの手が心地良かったのでロレンツォはされるがままにしておいた。フランチェスカの手はしばらく離れなかった。
エミリオの執務室にいるロレンツォの周囲は、表面的には穏やかに時が過ぎていった。
唯一、ミーナの現れる時間だけは執務室の空気が濁るような感覚があるが、アパートメントの部屋で待っているフランチェスカの姿を思い浮かべればロレンツォの心は波立たなかった。
ある日、ロレンツォは王宮で官吏として働く長兄のエドモンドに久しぶりに出会した。
4年前にロレンツォの父は亡くなっており、この長兄が現在のディアーコ子爵だ。
「ロレンツォ、おまえはいつになったら母上に嫁の顔を見せるつもりだ?」
ロレンツォは口を開いてなぜ知っているのかと訊こうとしたが、知らぬはずがないのだと気づいてやめた。
「ブルーノも会ってみたいと言ってたぞ」
ブルーノはロレンツォの次兄。ロッソ子爵家に婿養子に入っており、やはり王宮で官吏をしている。
「まだ色々と落ち着かないので、もう少ししたら連絡します」
本当はロレンツォの休暇日ならいつでも行けるのだが、母や兄たちにフランチェスカを妻として紹介してしまっていいのかと、ロレンツォは迷っていた。
「結婚したのはひと月も前だろう。早くしろよ」
「母上はどう仰っているのですか?」
「だから、おまえはいつ来るのかと」
「ではなくて、私の結婚についてです。賛成とか反対とか」
「そもそも、おまえの結婚はエミリオ殿下に命じられたものだから、そういうことを云々言えないだろう」
「ならば、彼女のことは?」
本来なら「妻」と言うべきなのだろうが、ロレンツォは躊躇ってしまった。
「将来の王太子妃として申し分ないと言われていた令嬢がうちの三男の嫁だなんて可哀想に、とは言ってたかな」
「彼女が私と結婚させられた理由に関しては?」
「男爵令嬢に嫌がらせをしたってやつか。あれは誰も信じてないだろ。そもそも男爵令嬢のほうの評判が悪すぎる」
「やはりそうなのですね」
フランチェスカが世間で罪人扱いされていないらしいとわかり、ロレンツォは安堵した。
「ああ、おまえはエミリオ殿下にお仕えしているから逆に知らないのか。はっきり言って、あの令嬢のせいでエミリオ殿下の評判まで地に堕ちているぞ」
周囲を確認し声を潜めての兄の言葉に、ロレンツォは目を見開いた。
「え?」
「貴族令嬢らしい振る舞いもできないくせに我が物顔で王宮内を歩き回って、お妃教育もやる気がない。あんな令嬢を将来の王妃様になどできないから、エミリオ殿下を廃嫡してミルコ殿下を王太子にすべきと」
ミルコはエミリオの弟で現在17歳。兄に負けず優秀だが、物静かで慎重な性格と言われていた。ちなみに、ミルコの婚約者はふたつ歳下の公爵令嬢だ。
「そんなことまで?」
「ああ。だから、おまえも気をつけろよ。今のところは元婚約者を救ったってことで好感度が高いみたいだが」
「はあ」
「とにかく、近いうちにふたりで家に顔を出せよ」
そう言うと、兄は去って行った。
その夜、ソファで寄り添って座ったフランチェスカに、ロレンツォは思いきって告げた。
「実は私の母があなたに会いたがっているそうなのですが……」
「私もお会いしたいわ」
フランチェスカが即答したので、ロレンツォは少し驚いて彼女の顔を見つめた。
「本当は、いつ会わせてくれるのかと思っていたの。私は色々あってロレンツォと結婚したから、ご家族に紹介したくないのかなって」
自分が悩んでいるうちにフランチェスカを傷つけていたことに気づいて、ロレンツォは慌てた。
「そんなことはありません。次の休暇にふたりで行くと実家に連絡しておきます。それでよろしいですか?」
「ええ」
そんなわけで次の休暇の日、ロレンツォはフランチェスカを連れてディアーコ家を訪れた。
ふたりを応接室に迎えた母は、丁寧に挨拶をしたフランチェスカをにこやかに見つめた。
「話に聞いていた以上にきれいな方ね」
「どうもありがとうございます」
フランチェスカも母に向かい柔らかな微笑みを浮かべていた。
「フランチェスカ様にはお気の毒なことでしたけど、ロレンツォがあなたのようなお相手と結婚できるなんてね」
「私こそロレンツォと結婚できて本当に良かったと思っております。お義母様、どうぞフランチェスカとお呼びくださいませ」
「ええ、フランチェスカ。それならいいけど、あんな狭い部屋にふたりで住むなんて、不便ではないの?」
「いえ、今の私たちが住むにはあの部屋でちょうど良いですわ。あまり広いとお掃除も大変でしょうし」
「まさかフランチェスカがお掃除をしているの? まあ、何てこと」
「ロレンツォの妻としては当然のことです」
「もしかして食事の用意なんかもしているの?」
「はい。ですが、まだまだ失敗ばかりで。お菓子作りは得意なのですが」
「あら、そうなの。ロレンツォは甘い物が苦手だから残念ね」
「……ええ、そうなんです」
ロレンツォは内心ヒヤリとしたが、その後もフランチェスカはロレンツォの母と和やかに会話を交わしていた。
母に見送られて実家を後にすると、フランチェスカの顔から笑みが消えた。アパートメントに帰るために乗合馬車に乗ってからもフランチェスカは黙ったままだった。
理由に心当たりがあるだけに、ロレンツォは恐る恐る口を開いた。
「あの、フランチェスカ様」
途端にフランチェスカがロレンツォを睨んだ。
「どうして言ってくれなかったの? あなたがお菓子が嫌いだとわかっていたら、あんなに作らなかったのに」
「嫌いなわけではありません。苦手なだけですから、食べられます」
「無理に食べてもらうつもりはないわ。もう作らないから安心して」
「いえ、これからも作ってください。あなたが作ってくださる物は私にとって特別なので、もう食べられないのは嫌です」
フランチェスカは疑わしそうにロレンツォを見た。
「本当に?」
「本当です。それに私はあなたが料理をする姿を見るのが好きなので、いつかもっと広いキッチンのある立派な家に住めるようになったらあなたがお菓子を作るところも見たいと思っています。だから、作るのをやめないでください」
咄嗟にいつになるかわからない将来のことを口にしてしまいロレンツォは焦ったが、フランチェスカの表情はすっかり穏やかになった。
「わかったわ。でも、今後は苦手なものは苦手ってちゃんと言ってね。約束よ」
「はい」
ロレンツォが頷くとフランチェスカの顔にようやく笑みが浮かんだ。ロレンツォがホッとしていると、フランチェスカがロレンツォの手をしっかりと握った。