8 妃教育と騎士の妻
翌朝、ロレンツォが執務室に入ると、エミリオがニヤッと笑って言った。
「昨日おまえが宰相に拉致されたと聞いたが、無事だったか」
「……はい」
「その様子だと無理矢理引き離されたりもしなかったのだろう。良かったではないか」
確かに、結果としてはフランチェスカとの距離が縮まったようでロレンツォにとっては良かったのだが、エミリオにそれを言われたくはなかった。
久しぶりにミーナがエミリオの執務室に現れた。ロレンツォがミーナに会うのはあの夜会以来だった。
ミーナはロレンツォに気づくと、蔑むような目を向けてきた。
「ねえ、エミリオ、どういうことなの? 毎日休みなく朝から晩まで妃教育を受けなければならないなんて、あなたに会う時間がないじゃない」
ロレンツォが見ているというのに、エミリオに近すぎる距離でミーナは甘えるように言った。
「少しでも早くわたしたちが結婚するためには必要なことだ。フランチェスカは妃教育をほぼ終えていて、しかも完璧な王太子妃になるなどと王宮中が思い込んでいた。早くそれが間違いだったのだとミーナが皆に知らしめてやってくれ」
エミリオはそれはそれは甘い笑顔と声でミーナに言った。それなのに、ロレンツォはなぜか寒気を感じた。
「わかったわ。わたし、エミリオのために頑張るから」
「ああ、期待している」
ミーナは執務室を出て行く前に、役目として扉を開けてやったロレンツォをきつく睨んだ。
ロレンツォが部屋に帰るとフランチェスカは笑顔で迎え、玄関から食卓までのわずかな距離を歩くだけなのにロレンツォの腕に彼女の腕を絡めてきた。
ロレンツォはそれだけでソワソワしてしまう心をどうにか抑え、できるだけゆっくりと歩いた。
夕食の後に紅茶を飲みながら先日のクッキーの残りを食べ、それからロレンツォはソファに移った。
食卓を片付けた後でフランチェスカもやって来て、ロレンツォの体に寄りかかるようにして腰を落ち着けた。ロレンツォがフランチェスカの肩に腕を回そうかと悩んでいるうちに、フランチェスカがロレンツォの腕に再び自分の腕を絡めた。
主に話をするのはフランチェスカで、ロレンツォはそれに耳を傾け相槌をうった。
ミーナのことをフランチェスカに話すべきか迷うが、結局ロレンツォは告げなかった。フランチェスカの心と、今ふたりの間にある柔らかな空気を乱したくなかった。
やがてふたりで寝室に向かった。情けないことではあるが、フランチェスカに「何もしなくていい」と言われたことでロレンツォの気持ちはずいぶん楽になっていた。
狭いベッドの中にふたりで入ればロレンツォの体は自然と熱くなるのだが、フランチェスカと事に及ぼうという気にはならなかった。
ただ何度かの口づけと「お休みなさい」の言葉を交わすことで、ロレンツォは満たされた。
ミーナは毎日執務室に顔を出したが、妃教育の時間に遅れれば課題が増やされるらしく、いつもエミリオに一言二言愚痴をこぼすとすぐに出て行った。
ミーナは日々顔色も機嫌も悪くなっていったが、エミリオは甘い笑顔でミーナを執務室から送り出すだけだった。
妃教育を受けていた頃のフランチェスカは常に微笑み、優雅に振る舞っていた。
エミリオはずっと見てきたフランチェスカを基準にして、誰でもそのくらいはできるものだと考えているのだろうか。だとしたら、それはミーナには厳しすぎるのではないか。
別にミーナが耐えられず妃教育から脱落するのは構わない。ロレンツォが不安なのは、その時にエミリオが再びフランチェスカを妃として望むのではないかということだった。
エミリオの様子を見ていると、フランチェスカを捨ててミーナを選んだことを後悔していて、ミーナが妃教育を投げ出すのを待っているのではないかとロレンツォは疑ってしまう。
エミリオ自身が言っていたとおり、すでにロレンツォの妻になっているフランチェスカが王太子妃になることはありえない。
それをさらに確実にするためには今すぐフランチェスカと事に及んでしまったほうがいいのかもしれないとロレンツォは考えた。卑怯な気もするが、そもそもロレンツォとフランチェスカを強引に夫婦にしたのはエミリオなのだから、ロレンツォが非難される道理はないはずだ。
だが結局のところ、こんなことを考えてしまうのはロレンツォにまだフランチェスカの夫としての自信がないからなのだろう。
今、フランチェスカはロレンツォの隣で妻として笑ってくれているが、エミリオへの想いがすべて消えてしまったとは思えなかった。フランチェスカがエミリオのもとに帰ることを望むなら、ロレンツォにそれを止めることなどできないのだ。
フランチェスカと結婚してから2度目の休暇を、ロレンツォは前夜のうちにフランチェスカに伝えた。
「では、明日は1日一緒にいられるのね」
フランチェスカは顔を輝かせてロレンツォの顔を見上げた。
「お友達と約束などはしておられないのですか?」
「ないわ。たとえあったとしてもロレンツォを優先するから大丈夫よ」
「いえ、お友達は大切にしてください」
「今はお友達より明日のことでしょう」
フランチェスカがそこまで喜んでくれるとは想像していなかったので、ロレンツォは戸惑いつつもやはり嬉しくなった。
翌朝は普段よりゆっくりと起床した。朝食をいつものリゾット店で済ませてから部屋に戻ると、休む間もなくフランチェスカは籠を手にした。
「ロレンツォ、お天気が良いから急いでお洗濯だけしてくるわ。少し待っててね」
ロレンツォは部屋を早足で出て行くフランチェスカを呆気にとられながら見送り、それから我に帰ると居間の窓から外を見下ろした。そこからアパートメントのそばにある洗濯場が見えるのだ。
たいして時間を置かずにフランチェスカが洗濯場に現れ、先客たちと挨拶を交わしてから洗濯を始める様子が見えた。ロレンツォはフランチェスカが洗濯場を立ち去るまで、ずっと窓から彼女の姿を見つめ続けた。
「ただいま」
フランチェスカは部屋に戻ると、今度は窓辺に手際よく洗濯してきた物を干した。ロレンツォがそれも眺めていると、フランチェスカが気づいて不思議そうな顔をした。
「ロレンツォ、どうかしたの?」
「本当にフランチェスカ様が洗濯をされていたのですね」
「当たり前でしょう」
「掃除もですよね」
「私はあなたの許しを得ずにここに人を入れたりしないわ」
「申し訳ありません」
ロレンツォはフランチェスカを疑っていたことを心底申し訳なく思った。
フランチェスカは困ったように微笑むと、ロレンツォの頬を包み込むように両手を添えた。
「別に怒っていないから、そんな顔をしないで。貴族の娘に家事なんかできないと思うのが普通よ」
「すみません」
「もう」
フランチェスカがわずかに眉を寄せたのでロレンツォはますます落ち込んだ。が、ふいにフランチェスカは背伸びをすると、ロレンツォの唇に彼女の唇を重ねてきた。
それが決して短い時間ではなかったので、ロレンツォは静かに目を閉じた。フランチェスカの唇が離れてからロレンツォが再び目を開けると、フランチェスカが首を傾げながら笑顔でロレンツォを見上げていた。
「さあ、支度をして出かけましょう」
「はい」
頷いたロレンツォの気分はすっかり上向いていて、自分は何て単純なのかと可笑しくなった。
ロレンツォとフランチェスカはまず近所の雑貨屋でバスケットを購入した。さらにサンドウィッチやアップルパイなども買うとそのバスケットに入れて、少し歩いたところにある公園に向かう。前回の休暇の時はロレンツォがひとりで時間を潰した場所だ。
途中、フランチェスカの手がロレンツォの手に触れてきて、そのままふたりは手を繋いだ。
公園に着くとしばらくはブラブラと散策した。それから噴水近くのベンチに並んで腰掛け、買ってきた物を食べることにした。
天気は良いが気温はそれほど高くなく、快適だった。
こんな時なのだから明るい話題を選ぶべきだろうに、ロレンツォは朝の件をまた持ち出してしまった。
「なぜフランチェスカ様は家事ができるのですか?」
部屋を訪れた父との折り合いが悪そうに見えたし、夜会のときに侯爵家に帰りたがらなかった。実はフランチェスカは実家で冷遇されていて、家事をさせられていたのだろうかとロレンツォは想像してしまった。
しかし、フランチェスカは楽しそうな顔のまま答えた。
「こういう場合に備えて教わっておいたの」
「こういう場合?」
「ひとり暮らしの騎士様に嫁ぐことになった場合」
ロレンツォが目を瞬いてフランチェスカを見つめると、フランチェスカは悪戯っぽく笑ってみせた。冗談か、とロレンツォは嘆息した。
「ちょっと興味があって、アルマたちに一通り習ったのよ」
「王宮でお妃教育を受けながらですよね。よく色々なことを同時に身につけられましたね」
ロレンツォは感心してそう言ったが、お妃教育のことを口にしてしまったことをすぐに悔いた。
だが、フランチェスカの様子は変わらなかった。
「私、やる時はやるのよ。何にせよ、今こうして役に立っているのだから良かったわ。お料理はまだいまいちだけど」
「フランチェスカ様ならきっとすぐに料理もお得意になります」
ロレンツォが本心から言うと、フランチェスカはにっこりと笑った。
「もちろんよ」