7 父の来訪
あの夜会から7日目の昼過ぎ、ロレンツォがエミリオの執務室にいると外が騒がしくなり、部屋の扉がノックされた。
現れた侍従は早口で告げた。
「宰相閣下がお越しになります」
途端にロレンツォの心身が震えた。宰相、すなわちフランチェスカの父だ。
ロレンツォが心の準備をする間もなく、宰相が執務室に入ってきた。扉の傍に立っていたロレンツォの姿に気づくと宰相は足を止めて値踏みするようにロレンツォを眺め、それからエミリオの前まで歩いて行った。
「帰るのは夕方の予定ではなかったか?」
エミリオは特に表情を変えるでもなく言った。
「なぜ陛下が私に一足先に帰るよう命じられたか、殿下はおわかりのはずです」
ロレンツォから宰相の顔は見えないが、声には怒りが滲んでいた。
「フランチェスカを我が王家に押しつけられず残念だったな。だが替わりの婿を用意してやったのだからよいではないか」
エミリオはふてぶてしくそう口にしながら、宰相とロレンツォの顔を順に見た。ロレンツォは恐る恐る宰相の背中に視線を向けるが、宰相が振り返ることはなかった。
「フランチェスカのことは今は置いておきます。それよりも優先すべき問題は、殿下がミーナ・カッローニ男爵令嬢と婚約すると仰ったことです」
「何が問題なのだ。庶子だということか?」
「それだけなら容認することもできました。しかし、あの令嬢は貴族として身につけているべきマナーも教養もまったく知らぬようではありませんか。殿下とフランチェスカは近いうちには婚姻を結ぶ予定でした。ですが、あの令嬢を婚約者にすれば妃教育どころか貴族としての基礎教育から始めねばなりません。結婚などいつのことになるか、わかったものではありません」
「それは困るな。わたしはすぐにでも結婚したいのだ。ミーナへの教育を急いでもらおう」
エミリオが軽い調子で言うのを無視するように、宰相は続けた。
「それに、あの令嬢に関する噂は殿下もご存知のはずです。そのうえで婚約などいったい何をお考えなのですか」
「わたしはただ愛する女を妻にしたいだけだ」
宰相は溜息を吐いた。
「陛下がお帰りになるまでに考え直してください」
宰相が執務室を出て行くのを、ロレンツォは拍子抜けしながら見送った。
娘が爵位を持たぬ騎士と結婚してしまったことはどうでもいいのだろうか。宰相はフランチェスカに対してあまりに淡白なのではないか。
夕方になって、予定どおりに国王陛下が帰還した。
出迎えたエミリオはそのまま陛下の私室に呼ばれた。扉の外で待っていたロレンツォには室内で交わされた会話は聞こえなかった。
やがて部屋から出たきたエミリオは自身の執務室へと戻る道すがら、口を開いた。
「明日からミーナの妃教育を始めることになった」
「明日? では、陛下はあの方を新しい婚約者とすることをお認めになったのですか?」
「いや、まだだ。とりあえず妃教育を受けさせて、ミーナがどれほどできるか見極めようということらしいな」
ロレンツォにはエミリオの口調がどこか他人事のように聞こえた。
夜、仕事を終えたロレンツォが騎士団詰所を出ると、そこに宰相が立っていた。待ち伏せされるとは予想していなかったロレンツォが顔を強張らせながら宰相に向かって頭を下げると、宰相は静かに口を開いた。
「家に帰るのか?」
「はい」
「では送ろう」
もちろん、ロレンツォに逃げ出すことなどできなかった。
ヴィオッティ侯爵家の馬車の中で宰相とふたりになることは、フランチェスカとふたりになるのとはまったく異なる緊張感があった。ロレンツォは宰相の視線を感じながらも顔を上げることができず、膝の上に置いた自分の手を見つめていた。
「ロレンツォ・ディアーコ、だったな」
宰相に尋ねられて、ロレンツォは思わず背筋を伸ばした。やはり目は合わせられない。
「はい」
「歳は?」
「18です」
「2つ下か」
宰相は嘆息すると、再び口を閉ざした。ロレンツォに関する年齢以外の情報はすでに得たのかもしれない。
宰相は家に来て何をするつもりなのかとロレンツォは考えた。
まさか、娘の新居を見学するわけではないだろう。フランチェスカと話をするだけだろうか。それとも、フランチェスカをこの馬車に乗せて連れ帰ってしまうのだろうか。
娘が騎士の妻でいることと、離婚歴があることと、宰相にとってはどちらのほうがましなのか。
フランチェスカが部屋を出て行くことを想像し、ロレンツォは手を強く握りしめた。
昨晩ロレンツォが気まずくしてしまった空気は、今朝、仕事に出てくるまで続いていた。こんなことになるならフランチェスカにもっとしっかり謝って許しを請うておけば良かったとロレンツォは後悔した。
ロレンツォは宰相を案内してアパートメントの2階にある部屋に帰った。
「ロレンツォ、お帰りなさ、い」
ロレンツォを迎えたフランチェスカの笑みが、その後ろにいる父に気づいて消えた。
だが、フランチェスカは気を取り直したように改めて微笑んで言った。
「まあ、お父様。そう言えば今日お帰りでしたわね。お疲れでしょうにわざわざこちらまでいらっしゃるなんて、いったいどうなさいましたの?」
娘の言葉を聞く宰相の顔は引き攣って見えた。
「おまえこそ、こんなところで何をしているんだ」
フランチェスカはロレンツォに近寄ると、その両腕をロレンツォの腕にしっかりと絡めながら言った。
「私はエミリオ殿下の命でロレンツォと結婚しました。ですから、ここにいるのですわ」
「歳下の騎士を騙してままごと遊びに付き合わせるような真似をして恥ずかしくないのか?」
「ままごと遊びなどではありません。私は本気です」
「おまえの本気など、さらに迷惑だ」
「お父様は私を早く片付けたかったのではございませんか? お望みどおりになったのですから喜んでくださいませ」
「我が家の恥を世間に晒すことを喜べるか。大人しく修道院に入れば良かったものを」
フランチェスカも宰相も声は穏やかだったが、ふたりの間の空気はピリピリとしていた。
宰相は娘に対してずいぶん厳しいようにロレンツォは感じていた。フランチェスカはエミリオに言われて仕方なくここにいるのに。
もしかしたら、父娘の仲はあまり良くなかったのかもしれない。だが、フランチェスカほどの令嬢なら宰相にとって自慢の娘であるはずだ。何か訳があるのだろうか。
ふたりの言い合いに割り込めずオロオロしていたロレンツォに、宰相が目を向けた。
「おまえはどうなんだ? 突然こんな娘を押しつけられて、困っているのだろう。おまえはまだ若いのだし、将来有望な騎士だと聞いた。1度くらいの離婚歴など大して問題にはなるまい」
「私はロレンツォと離婚するつもりはありません」
フランチェスカが叫んだ。
昨晩あんなことがあったのにフランチェスカがそう言ってくれたことが嬉しくて、ロレンツォは泣きそうになった。
「おまえには聞いてない」
宰相の声も大きくなった。ロレンツォはまっすぐに宰相の目を見て言った。
「私は、フランチェスカ様にここにいていただきたいと思っております。私などがフランチェスカ様のおそばにいるのは相応しくないと承知しておりますが、我が命を賭けてお守りいたします」
「ロレンツォ」
ロレンツォの腕を抱くフランチェスカの腕の力が増した。
宰相は睨むようにロレンツォを見つめていたが、ロレンツォも目を逸らさなかった。しばらくして宰相は溜息を吐いた。
「わかった。おまえたちの好きにすればいい。だが、この部屋は夫婦で住むには狭いのではないか? もっと広いところを探せ。金なら出そう」
フランチェスカのために宰相の申し出を受けるべきではとロレンツォは思ったが、フランチェスカはきっぱりと答えた。
「お父様の援助など要りません。どうぞお帰りください」
「ああ、そうする。邪魔したな」
宰相は外に出て行った。ロレンツォは少し迷ってからフランチェスカに言った。
「宰相閣下をお見送りしてきます」
フランチェスカが心配そうな顔をしながらも腕の力を緩めてくれたので、ロレンツォは急いで宰相を追った。
ロレンツォがアパートメントを出ると、馬車に乗ろうとしていた宰相がロレンツォに気づいて振り向いた。
「何だ?」
「ありがとうございました」
ロレンツォは宰相に深く頭を下げた。再び顔を上げると、宰相はわずかに眉を寄せてロレンツォを見ていた。
「フランチェスカはああ言ったが、援助が必要ならいつでも言ってくればいい。ただし、さっきの言葉には責任を持ってもらうからな。途中でフランチェスカを投げ出すようなことは許さん」
「もちろんです」
ロレンツォは力を込めて答えた。やはり宰相は娘を愛しているのだと、ロレンツォは安堵した。
ロレンツォが部屋に戻ると、フランチェスカが駆け寄ってきた。
「ロレンツォ」
そのままフランチェスカに抱きつかれて、ロレンツォの心臓が跳ねた。
「ありがとう、ロレンツォ」
「い、いえ」
ロレンツォはフランチェスカの背に腕を回して良いものか悩み、手を空に彷徨わせた。
「昨日、あなたを怒らせてしまったから、私といるのが嫌になったのではないかと不安だったの」
フランチェスカの言葉を聞き、ようやくロレンツォは彼女を包み込むように抱きしめた。
「あれは私が悪かったのです。私がこんな器の小さな男だとわかって、フランチェスカ様はお父上と一緒に出て行ってしまうだろうと思っていました」
「私がここを出て行くはずないわ。でも、あなたに不満がないと言ったのは嘘よ」
「何でも言ってください」
ロレンツォが慌てて言うと、フランチェスカが顔を上げた。
「また呼び方がフランチェスカ様、に戻っているわ」
ロレンツォは目を瞬いた。
「すみません、フランチェスカ様……、いや、フ」
ロレンツォが言い直そうとすると、フランチェスカがロレンツォの唇を塞ぐように指で触れた。ロレンツォの心臓が再び跳ねた。
「今はまだロレンツォが呼びやすいほうでいいわ。毎回、2度繰り返すのは大変でしょう。だけど、いつかはフランチェスカと呼んでね」
ロレンツォが頷くと、フランチェスカはロレンツォの唇に触れていた指をそっと滑らせて頬に移した。
「それから、もう一つ」
「はい」
「夜は私と一緒にベッドで寝て」
「そ、れは……」
「何もしなくていいの。ただ、ひとりで寝るのは寂しいから……」
「……わかりました」
フランチェスカは微笑むと、指で触れていないほうの頬にそっと口づけた。