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王太子殿下の婚約破棄の理由   作者: 三里志野
ロレンツォの物語
6/34

6 夫婦のはじまり

 翌日、王宮に上がったロレンツォはエミリオの執務室に入るとまっすぐに机の前に行った。


「殿下がお望みのものをお持ちしました」


 ロレンツォはむっつりとしながらエミリオに婚姻証明書を突き出した。


「あまり乱暴に扱うな。大事なものだろうに」


 エミリオが諭すように言うのに、ロレンツォはさらに顔を顰めた。

 婚姻証明書を確認するようにじっくりと眺めてから、エミリオはフッと口角を上げた。


「立派な額を贈ってやるから、部屋の目立つところに飾っておけよ」


「結構です」


 そう答えると、ロレンツォは自分の持ち場に退がった。



 家に帰るとフランチェスカが笑顔で迎えてくれることに、ロレンツォはまだ慣れなかった。

 その上、夫婦になって最初の出迎えでフランチェスカは「お帰りなさい」と言いながらロレンツォの右手を両手でしっかりと握ってきた。動揺して「ただいま」も言えずにいるロレンツォを、フランチェスカはそのまま食卓まで引いていった。


 フランチェスカに促されてロレンツォが食卓に着くと、その前にチキンのトマト煮が置かれた。


「今日はいつもと違う店で買ってみたの。あなたの口に合うといいのだけれど」


 ロレンツォはフォークを手にすると、チキンを口にした。フランチェスカが緊張の面持ちでロレンツォを見つめていた。


「どう?」


「塩辛いです」


「そう」


 フランチェスカががっくりと肩を落とした。ロレンツォはその姿に既視感を覚えた。

 フランチェスカは掃除や洗濯ができるのだし、菓子作りが得意なのだ。料理だってできて不思議ではない。


「もしかして、フランチェスカ様……、フランチェスカが作られたのですか?」


「どうしてわかったの?」


 フランチェスカが目を見開いた。


「最初のクッキーの時と同じ反応だったので」


 ロレンツォが申し訳なさを滲ませながら言うと、フランチェスカはキッとロレンツォを見た。


「今回は謝ったりしないでね。私はロレンツォの素直な感想を聞きたかったのだから」


「はい。ですが、どこで料理をされたのですか?」


「友達の家でキッチンを借りたの」


「この前、花瓶をくださったという方ですか?」


「ええ。本当はここで作って、できたてを食べてほしかったのだけど」


 フランチェスカが上目遣いにロレンツォを見つめた。


「あの、もしフランチェスカさ……、フランチェスカがそうしたいならキッチン用具を買い揃えてくださって構いませんが」


 ロレンツォは自分の妻になったフランチェスカが住みよいように部屋を整えてあげたかった。


「いいの?」


「はい。今度、必要な金額を教えてください」


「ありがとう。次はもっと美味しいものを作るわね」


「楽しみにしております」


 フランチェスカが下げようとしたチキンのトマト煮をロレンツォが残さず食べたので、フランチェスカは嬉しそうに笑った。



 ロレンツォが毛布を手にソファに腰を下ろすと、フランチェスカは何か言いたそうにロレンツォの顔を見た。ロレンツォは気づかぬふりをして言った。


「お休みなさいませ」


「お休みなさい」


 少し寂しそうに言って、フランチェスカは寝室へと入っていった。それを見送ってから、ロレンツォは毛布にくるまってソファの上で横になった。



 ロレンツォはフランチェスカの夫になった以上はその責務をきちんと果たすつもりだったし、おそらくフランチェスカも同じだった。


 昨夜、ふたりでソファに並んで座るうちにふと視線が絡み合い、どちらからともなく2度目の口づけを交わした。手を繋いで寝室に入り、ベッドの上で3度目をした後はすぐに数えられなくなった。

 互いに相手の服を脱がせて体に触れ合った。しかし、そこまでだった。できなかったのはロレンツォのほうだ。


 ロレンツォは自分の何倍もの覚悟をしていたに違いないフランチェスカに対して申し訳なく、情けない気持ちでいっぱいだった。だが、フランチェスカは慰めるようにロレンツォを優しく抱きしめてくれた。

 しばらくしてからロレンツォはベッドを出ようとしたが、フランチェスカの縋るような声に止められた。


「ロレンツォ、今日くらい朝まで一緒にいて」


 ロレンツォが何も言えぬままベッドの中に戻ると、フランチェスカは逃すまいというようにロレンツォの体に身を寄せてきた。だが、ベッドが狭いのでそうせざるをえなかっただけかもしれない。



 前夜はあんな体たらくだったくせに、フランチェスカの肌を思い出しているうちにロレンツォの体はすっかり反応してしまっていた。といって、今からフランチェスカのいる寝室に行くことなどロレンツォにできるはずがなかった。



 次の日は、ロレンツォの休暇日だった。しかし、ロレンツォは仕事の振りをしていつもの時間に家を出た。

 朝晩フランチェスカと一緒に過ごすのさえ気持ちが落ち着かないのに、それが一日中となったらロレンツォの心身は保ちそうになかった。


 ロレンツォは公園を歩いたりして時間を潰してから、庶民の中でも比較的裕福な者たちが買い物をする店の集まる辺りに向かった。


 目的の店はすぐに見つかったが、ロレンツォはそこの扉を開けるまでにその前を何往復かした。

 ようやく入った生まれて初めての宝飾品店で、愛想の良い女性店員に迎えられた。ロレンツォは思いきってその店員に告げた。


「結婚指輪を買いたいのですが」


「ご予算はいくらでしょうか? それから、奥様の指輪のサイズを教えていただけますか?」


 店員の「奥様」という言葉に少しドキリとし、それから呆然とした。


「サイズ、ですか」


 ロレンツォはフランチェスカの白く細い指を思い浮かべたが、サイズはもちろんわからなかった。


「すみません、また来ます」


「お待ちしております」


 店の外に出てからロレンツォは嘆息した。サイズのことなどロレンツォはまったく思いつかなかった。思いついていたとしても、フランチェスカにそれを聞くことはできなかっただろうが。


 本来なら、フランチェスカを誘って一緒に宝飾品店に来るべきだった。しかし、「指輪などいらない」と言われそうでロレンツォは怖かった。

 だけどロレンツォが買ってしまえばフランチェスカも受け取るしかないし、受け取ってしまえばフランチェスカは左手の薬指に嵌めるしかない。ロレンツォの妻である証を。


 ロレンツォは小さく首を振った。自分の考えがあまりに子供じみた愚かなことに思えた。たかが指輪でフランチェスカの想いは変えられないのに。

 指輪を買う件はとりあえず保留にした。



 ロレンツォは宝飾品店の近くにあったカフェに入った。

 ブラックコーヒーを飲みながら窓の外をぼんやり眺めていると、通りの向こう側を歩くふたり連れの女性が目に入った。


 そのうちのひとりがフランチェスカに似ていた。しかしアパートメントからこの辺りまではだいぶ距離があるのだから、彼女がいるはずがない。フランチェスカのことばかり考えているせいでそう見えるのだろうとロレンツォは思ったが、見れば見るほどそれはフランチェスカ本人だった。

 隣の女性にもロレンツォは見覚えがあった。着ている服からして庶民のようだ。

 しばらく考えて、ロレンツォはようやく気づいた。ヴィオッティ家でフランチェスカ付のメイドだったアルマだ。いつものお仕着せ姿でないのでなかなかわからなかったのだ。


 ロレンツォは急いでコーヒーを飲み干すと、カフェを出た。気づかれぬよう、フランチェスカの後を追う。



 フランチェスカとアルマが一緒にいることにはそれほどの驚きはなかった。

 あの夜会の日、ふたりの間には特別な別れという雰囲気がまったく感じられなかった。フランチェスカの行き先は決まっていたのだから、アルマが会いに来るのは簡単なことだっただろう。


 ロレンツォには気になっていたこともあった。突然やって来たにも関わらず、フランチェスカの身の回りの物がそれなりに揃っていることだ。

 あの日着ていた夜会ドレスを除いても、外出着や部屋着、寝巻などは数枚ずつはあるようだし、靴も一足ではなさそうだ。化粧品なども寝室に置かれている。

 夜会のあとにどこかに行く予定があってあのトランクに詰め込んでいたのかとも思ったが、それらも後でアルマか誰かが運んだのかもしれない。


 ロレンツォの部屋の家事をしているのはアルマなのかもしれないとロレンツォは考えた。そのほうがずっと自然だが、フランチェスカはアルマにさせていることを恥じているのかもしれない。だからフランチェスカはアルマのことをロレンツォに黙っていたのだ。

 ただ、ヴィオッティ家のメイドであるアルマが勝手にそんなことをできるわけがない。ならば、ヴィオッティ家の誰かに命じられてのことなのだろうか。



 フランチェスカとアルマは何軒かの店を覗いて買い物をした後で、細い通りへと折れた。やがてふたりはその通り沿いにある門の中へと入っていった。

 充分な時間を置いてから、ロレンツォはそこに近づいた。門の中にあったのは小さな屋敷だった。そこそこ裕福な庶民、あるいはそれなりの地位を得た騎士が家族で住むのにちょうどよいくらいのものだ。

 もしかしたら、フランチェスカが言っていた友達の家なのだろうか。ロレンツォはてっきり貴族だと思い込んでいたが、庶民だったのかもしれない。


 ロレンツォはそこで立ち止まることはせずに通り過ぎた。

 偶然見かけたフランチェスカの後を咄嗟につけてしまったことを後悔していた。自分の妻になったからといって、フランチェスカを見張るようなことはすべきではない。

 ロレンツォはこんなみっともない行動をフランチェスカに知られたくはなかった。



 夕方、ロレンツォは公衆浴場に寄った。風呂に入らずに帰ればフランチェスカに怪しまれるかもしれない。

 フランチェスカのほうも最初の日以外はロレンツォのいない間に湯を使っていた。それにもアルマの手を借りているのだろうか。


 部屋に戻って出迎えてくれたフランチェスカの笑顔を見ると、ロレンツォは改めて申し訳ない気持ちになった。

 その日の夕食はフランチェスカが店で購入してきたものだったが、食後にフランチェスカは紅茶とクッキーをロレンツォの前に出した。


「お友達のお家で焼いたの。たくさん作ったからたくさん食べてね。それから、この茶器は貰ったの」


 フランチェスカはニコニコしながら屈託なく言ったが、ロレンツォにはどうしても引っかかるものがあった。


「フランチェスカ様、欲しい物や必要な物があるなら私に仰ってください。確かに私の稼ぎではあなたの望む物を全て差し上げられるかはわかりませんが、できる限りのことはいたします。ですから、そのようにご友人から恵んでもらうようなことはやめてください」


 侯爵令嬢だったフランチェスカに惨めな思いはさせたくない。そして、ロレンツォにだってフランチェスカの夫としての矜持があった。

 フランチェスカは驚いた顔になった。


「ごめんなさい。私はそんなつもりではなかったの。でも、あなたが嫌ならもうやめるわ」


 フランチェスカの哀しそうな声を聞き、途端にロレンツォは自己嫌悪に陥った。


「こちらこそ申し訳ございませんでした。フランチェスカ様のような方がこんな場所で暮らさなければならず、しかも夫が私なのですからご不満を感じるのは当然のことです」


「私は不満など何もないわ。ただ妻としてあなたに色々してあげたいだけなの」


「……ありがとうございます」


 そう口にしたものの、あまり心が込もらなかったことはロレンツォ自身も感じていた。やはり、自分などがフランチェスカの夫になるべきではなかったのだと、ロレンツォは落ち込んだ。


 ふたりでクッキーを食べ、冷めてしまった紅茶を飲んだが、会話が弾むことはなかった。

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