5 突然の結婚
翌日も王宮のエミリオのもとでロレンツォはいつもと同じように一日を過ごした。
夜、ロレンツォが帰宅すると部屋がきれいになっていた。
「まさかフランチェスカ様が掃除されたのですか?」
ロレンツォが驚いて尋ねると、フランチェスカは微笑んだ。
「もちろん、そうよ」
さらに自分の下着などが洗濯され、きちんと畳まれてソファの上に置かれているのを発見し、ロレンツォはしばし固まった。
「フランチェスカ様、洗濯は金を払えばやってくれる主婦が近所におりますので……」
「私がいるのに他の人に頼む必要などないわ」
フランチェスカにきっぱり言われると、ロレンツォには反論できなかった。
フランチェスカの購入してきた惣菜やパンが並ぶ食卓の真ん中には、可愛らしい花が数輪飾られていた。
「この花瓶はお友達に貰ったのよ」
「友達ですか?」
「昼間、会いに行ってきたの」
今のような状況になっても付き合いを続けてくれる友達がいるのは、フランチェスカにとって喜ばしいことだろう。だが、そのように簡単に物を貰ったりして大丈夫なのかと、ロレンツォは少し心配になった。
それから2日後の午前中、ロレンツォは以前からの予定どおりに騎士団の訓練に参加した。
そこでロレンツォは、ミーナが前日に門前で「わたしはエミリオの婚約者よ。中に入れなさい」と騒いでいたと耳にした。
ロレンツォは、エミリオがこのことを知っているのか、どう思っているのかと気になった。
昼食を済ませてから王太子殿下の執務室に行くと、エミリオは不機嫌なのが丸わかりの顔をしていた。
やはりエミリオもミーナに会えぬので不満なのかとロレンツォは考えた。だが、エミリオはわざわざ執務机を回り込んでロレンツォのそばまで来ると、騎士服の胸元を掴んでロレンツォを引き寄せ、言った。
「どういうつもりだ、ロレンツォ」
「何のことでしょうか?」
「フランチェスカのことに決まっているだろう。おまえはわたしの言葉を軽んじているのか?」
「そんなことはございません」
「ではなぜ今だにフランチェスカと結婚していないのだ」
ロレンツォは言葉に詰まった。こんなに早く知られてしまうとは思っていなかった。
「あの場でわたしが何と言ったか、おまえは覚えていないのか? おまえが結婚するならフランチェスカを修道院に入れずにおいてやると言ったのだぞ」
エミリオはロレンツォの体を押しやるようにして騎士服を放した。
「もちろん、覚えております。しかし、殿下とフランチェスカ様の婚約の解消はまだ国王陛下に認められておりません。陛下がお帰りになるまでは……」
「陛下は当然お認めになる。他の男と一緒に暮らしていた女を王太子妃になどできるはずがないからな」
ロレンツォは息を呑んだ。
「おまえがあの夜フランチェスカを自分の家に連れ帰ったことは都中に知れ渡っているし、おまえたちは夫婦になったのだと誰もが思っている。正式に婚姻を結んだかどうかなど関係ない。いや、まだ結婚していないとわかれば、フランチェスカはふしだらな女と指差されることになるのではないか?」
「私とフランチェスカ様はそのような関係ではありません」
ロレンツォが急いで否定すると、エミリオは残念そうな顔をした。
「どうやってそれを陛下や皆に証明するのだ?」
「それは……」
「いいから、今すぐフランチェスカと教会に行って婚姻証明書をもらって来い。明日持って来てわたしに見せなければ、フランチェスカを修道院に送るからな」
エミリオは机の向こうに戻っていった。ロレンツォはしばらく唇を噛んで立ちつくしていたが、やがてエミリオに礼をすると執務室を出た。
エミリオの言葉は正しかった。騎士団の訓練中にもロレンツォはフランチェスカとのことを訊かれたり、揶揄われたりした。
夫婦のようにロレンツォの部屋で一緒に暮らしているのも事実だ。別の部屋で寝ているなど、誰にも信じてはもらえないだろう。
本当にフランチェスカのためを思うなら、ロレンツォはあの夜、無理矢理にでも彼女を侯爵家に帰すべきだった。
むしろ一時的に修道院に入って、後で還俗するほうが良かったのだ。そうしていれば、ロレンツォとのありもしない関係を疑われずに済んだのだから。
だが、今さら気づいても遅かった。
昼過ぎに部屋に帰ったロレンツォを見て、フランチェスカは驚いた顔をした。
「どうしたの、ロレンツォ? 具合でも悪いの?」
ロレンツォは首を振ってそれを否定してから、ゆっくりと口を開いた。
「私たちが結婚していないことが殿下に知られてしまいました。明日、婚姻証明書を見せなければあなたを修道院に送るそうです」
ロレンツォは自分を見つめているフランチェスカと目を合わせることができなかった。
「陛下がお帰りになるまで隠しておければどうにかなると思っていたのですが、私の考えが甘かったです。申し訳ありません」
ロレンツォはフランチェスカに向かって深く頭を下げた。
「ロレンツォ」
フランチェスカに優しく名を呼ばれロレンツォがようやく顔を上げると、彼女の表情は穏やかなものだった。
「あなたが私に謝る必要なんてまったくないのよ。私は初めからそのつもりだったのだから」
そんなはずはなかった。フランチェスカはエミリオを待っていたのだから。
ロレンツォは涙が出そうになるのをどうにか堪えた。フランチェスカが無理して微笑んでいるのに、ロレンツォが彼女の前で泣くことなどできなかった。
「私は喜んでロレンツォの妻になるわ。だけど、もしあなたにそのつもりがないのなら、私は今から修道院に行っても構わないのよ」
「それは駄目です」
考えるより先に、ロレンツォは声をあげていた。フランチェスカが伺うようにロレンツォを見つめた。
「それならば、私の夫になってくれる?」
ロレンツォは「はい」と答えようとしてうまく声が出せず、代わりにコクリと頷いた。その拍子に溢れてしまった涙を、フランチェスカがそっと指で拭ってくれた。
「ありがとう、ロレンツォ」
フランチェスカは笑ったが、寂しそうに見えた。
寝室に入ったフランチェスカは、白いドレスを着てロレンツォの前に現れた。
「ウェディングドレスではないけれど、これでいいかしら?」
「はい。とても綺麗です」
ロレンツォが素直にそう言うと、フランチェスカはにっこりと笑った。
王宮から帰ってきたままの格好で教会に行くつもりだったロレンツォは、急にフランチェスカに対してそれを申し訳なく感じた。
「すみません。私もすぐに着替えます」
「それならば、騎士服がいいわ。あれがあなたの正装でしょう。ここには置いてないの?」
「予備があります」
「では決まりね」
フランチェスカが喜んでくれるなら王宮までもう一往復するくらいロレンツォはまったく構わなかったが、幸い予備の騎士服はクローゼットを開ければすぐに見つかった。
ロレンツォがそれを纏って居間に戻ると、フランチェスカにその姿をジックリ見つめられた。
「やっぱりロレンツォは騎士服姿が一番素敵ね」
「ありがとうございます」
ロレンツォは照れながら答えた。
ロレンツォとフランチェスカは並んで近所の教会までの道を歩いた。途中、花屋を見つけて小さなブーケを作ってもらった。
教会の神父は突然やって来たふたりを優しく迎え入れてくれた。
参列者も結婚指輪もなく、神父の前で誓いを立てるだけの簡素な式だった。
神父に口づけを促され、ロレンツォはフランチェスカと向き合った。ロレンツォには躊躇いがあったが、フランチェスカはいつものように微笑んでロレンツォをまっすぐ見上げていた。
ロレンツォはフランチェスカの両肩に手をかけ、一瞬だけ唇を重ねた。離れてから、再びフランチェスカが微笑むのを目にして、ロレンツォも微笑んだ。
部屋に帰って部屋着に着替えてしまえば、昨日までと何も変わっていないようにロレンツォは感じた。しかし、やはり部屋着姿に戻って寝室から出て来たフランチェスカは、ロレンツォを見上げて言った。
「ロレンツォ、今度こそフランチェスカと呼んでちょうだいね」
咄嗟に断る理由が思いつかず、ロレンツォは頷いてしまった。
「はい、わかりました、フランチェスカ様。あ、いや」
フランチェスカに睨まれて自分の間違いに気づき、ロレンツォは改めて妻の名前を口にした。
「……フランチェスカ」
フランチェスカの顔に満面の笑みが浮かぶのを見つめながら、ロレンツォはこの人を幸せにしたいと心から思った。
その夜、ふたりは初めて同じベッドで眠りについた。