4 仮初めの生活
翌朝、何やらガタガタいう音でロレンツォは目を覚ました。音のするほうを見れば、キッチンの扉や引き出しを開け閉めしている女性の後ろ姿が見えた。
それがフランチェスカであることに気づいてロレンツォは昨夜の出来事を思い出し、慌てて起き上がった。
「フランチェスカ様、何をなさっているのですか?」
ロレンツォが声をかけると、フランチェスカは振り向いた。
「おはよう、ロレンツォ。起こしてしまってごめんなさい。朝食を作ろうと思ったのだけど、道具や食材が見つからなくて」
「それなら、この部屋には何もありません。食事はすべて外で済ませていますから」
ロレンツォはそう答えたが、あったとして侯爵令嬢のフランチェスカに朝食など作れるのかと考えた。
フランチェスカは残念そうな顔をした。
「あら、そうだったの」
話しているうちにロレンツォは空腹を覚えた。昨夜はあの騒動のせいで夕食を摂り損ねていた。フランチェスカも同じだろう。
フランチェスカがこの部屋にいるとなると、食事も問題になるのだとロレンツォは気づいた。ロレンツォが一緒にいる時はいいが、不在ならフランチェスカひとりで外食してもらうことになる。彼女にそんな経験があるとは思えなかった。
時間を確認すると、まだ余裕があった。
「身支度をして、朝食を食べに出ましょう」
「ええ」
フランチェスカは頷くと、寝室に入っていった。
ロレンツォも顔を洗ってから、壁際にハンガーを使ってきれいに掛けられていた騎士服を手に取り、そして首を傾げた。
昨日脱いだ騎士服は、ソファの背もたれに適当に引っかけただけではなかったか。そもそもハンガーはすべて寝室にあったはずで、つまり、いつの間にかフランチェスカがきちんと掛けておいてくれたということになる。何となくこそばゆい。
少ししてから再び現れたフランチェスカは、王宮に来ていた時に比べるとだいぶ落ち着いた雰囲気のドレスを着ていた。もちろん、それでもフランチェスカのような美しい令嬢がこの下町と呼ばれる辺りを歩いていれば目立つだろうが。
フランチェスカはロレンツォの前に立つと、フフと笑いながらロレンツォの頭に手を伸ばしてきた。
「騎士様、髪に寝癖がついたままですよ」
「あ、すみません」
ロレンツォの頬が熱くなったのはフランチェスカに寝癖を指摘されたせいなのか、それとも彼女に髪を触られたせいなのか。多分、両方なのだろう。
ふたりは連れだって外に出た。まだ早い時間なのですれ違う人は少ないが、やはりフランチェスカに気がつくと驚きの表情になった。
「ここは昼にはサンドウィッチを売ります。そちらはピザ屋。店内で食べることも、持ち帰ることもできます。それから……」
ロレンツォはゆっくりと歩きながら、通り沿いにあるまだ開店前の、食事を買える店々をフランチェスカに教えていった。
やがてロレンツォは一軒の店の前で止まった。その店はすでに営業していて、客のいる気配もあった。
「ここはリゾットの店なのですが、このとおり早くから開いているので私はよく利用しています。ここでよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
ふたりが店内に入るとやはり店員や他の客たちからの視線を感じたが、ロレンツォはそれらを無視して空いていた席にフランチェスカを座らせ、自分も向かいに腰を下ろした。
「どれにいたしますか?」
ロレンツォが壁に貼られたメニューを示しながらフランチェスカに尋ねるが、彼女は首を傾げた。
「よくわからないから、あなたと同じものでいいわ」
ロレンツォはトマトリゾットを2つ注文した。たいして待たされずに、ふたりの前にリゾットが置かれた。
フランチェスカがスプーンでリゾットをすくって口に運ぶのを、ロレンツォはそっと見守った。
「いかがですか?」
「美味しいわ」
フランチェスカの答えを聞いて安堵し、ようやくロレンツォも食事をはじめた。
朝食が済むと、ロレンツォは来たのとは別の道を選び、再びフランチェスカに道沿いにある店を指差しながらアパートメントまで戻った。
部屋の前で、ロレンツォは部屋の鍵と幾らかのお金をフランチェスカに渡した。
「家に誰か訪ねて来ても、応対なさる必要はありません。知り合いなら私が昼にいないことはわかっているはずですから。外に出られる時には充分に気をつけてください」
「わかったわ」
これからロレンツォはもちろん仕事に行かねばならないが、フランチェスカをひとり残していくことは不安だった。
さらに、王宮でエミリオに会うことを考えると気が重かった。昨日の今日でいったいどんな顔をすればいいのだろうか。あのミーナが勝ち誇った顔をしているのではないかと思うとますます暗澹とした。
フランチェスカはそんなロレンツォの気持ちに気づいたようだった。
「今日はお仕事に行きづらいわよね。私のせいでごめんなさい」
「いえ、そんなことは……」
ロレンツォは慌てた。フランチェスカを責める気持ちなど、ロレンツォにはまったくなかった。だが、続く言葉が出てこなかった。
しばらく俯いていたフランチェスカがふいに顔を上げると、真剣な面持ちでロレンツォを見つめてきた。
「エミリオは、いえ、エミリオ殿下は決して悪い方ではないわ。だから、ロレンツォは今までどおりあの方にお仕えして」
今なおエミリオのことを想うフランチェスカの言葉に、ロレンツォは切ない気持ちで頷いた。
フランチェスカに背中を押されるようにして王宮に出仕したロレンツォだったが、執務室で顔を合わせたエミリオの態度は昨日までとまったく同じだった。
あまりにも変わらないので、自分は夢を見ていたのか、家にフランチェスカがいると思ったのは妄想かとロレンツォが悩みかけた時、エミリオが突然ニヤニヤして言った。
「で、結婚生活はどうだ? わたしに謝りたくなったか?」
「別に、どうとも」
ロレンツォが言葉を濁すと、エミリオはつまらなそうな顔になった。
「まあいい。フランチェスカのことはおまえに任せた」
そう言って手元の書類に目を落としたエミリオを見つめながら、ロレンツォは複雑な気持ちだった。
フランチェスカはロレンツォの部屋でエミリオを想っているのだ。それをエミリオにわかってほしい。
だが、自分を見つめるフランチェスカの瞳や、髪に触れた彼女の指を思い出すと、別の感情が湧いてきそうになって、ロレンツォは慌ててフランチェスカの幻想を頭の中から追い出した。
ミーナは普段なら訪れる時間になっても姿を見せなかった。エミリオにそれを気にする様子はなく、ロレンツォは気になるものの自分から彼女の話題をエミリオに振りたくはなかった。
結局、ミーナは夕方になってロレンツォがエミリオのそばを離れるまで執務室に来なかった。
もしやミーナはエミリオの私室で待っているのではないだろうかと疑いながらロレンツォが騎士団詰所の更衣室に行くと、そこにいた同僚たちに囲まれた。
「ロレンツォ、おまえ昨夜大変だったみたいだな」
「でも、王太子殿下の婚約者だった令嬢と結婚したんだろ?」
「もしかして、その令嬢が家で待ってたりするのか? なんて羨ましい状況だ」
「聞いたか? 殿下の新しい婚約者、王宮を出入り禁止になったらしいぞ」
「王妃様と王弟殿下が、国王陛下がご帰還されて正式に認められるまでは、って仰っているらしいな」
「陛下はあの令嬢を認められると思うか?」
「将来の王妃様として考えれば、なしだな」
周囲で交わされる話を聞きながら、ロレンツォはミーナの顔を見ずに済んだ理由は納得したものの、ではなぜエミリオがあれほど穏やかだったのかがわからず首を傾げた。
普段なら帰る前に王宮の食堂に寄るのだが、この日のロレンツォは速攻で風呂を済ませると帰宅の途についた。他の者たちの生温かい目など気にしてはいられなかった。
フランチェスカは果たしてロレンツォを待っているのだろうか。ひとりではやはり昼食を摂ることができなかったのではないだろうか。あるいは、侯爵家からの迎えが来てもう出て行ってしまっただろうか。部屋に着くまでそんなことばかり考えていた。
ロレンツォはアパートメントの部屋の前まで来ていつものポケットに手を入れるも鍵が見つからずに焦り、あちこち探しているうちに今朝フランチェスカに預けたことを思い出して脱力した。
とりあえず落ち着くために深呼吸をしてから、ロレンツォは部屋の扉をノックした。部屋の中で人の近づいてくる気配はあったが、応答する声は聞こえてこなかった。
どうやらフランチェスカはロレンツォが言い置いていったことを忘れなかったようだ。だが、そろそろロレンツォが帰る時間なので迷っているのかもしれない。
「私です」
ロレンツォがそう言った途端、鍵が外される音がして扉が開き、フランチェスカが顔を出した。
「お帰りなさい、ロレンツォ」
満面の笑みで迎えられ、ロレンツォは胸が高鳴るのをどうにか抑えながら答えた。
「ただいま帰りました。お腹が空いているでしょう。このまま夕食に出かけますか?」
「ごめんなさい。用意してしまったの」
フランチェスカがすまなそうに言った。ロレンツォが部屋の中を見ると、小さな食卓の上に確かに食べ物らしき包みが置かれていた。
「今朝教えてもらったお惣菜屋さんとパン屋さんで買ったのよ」
「そうですか。ちゃんと買い物できたなら良かったです」
「そのくらいできるわ」
フランチェスカが拗ねたように言うのでロレンツォが謝ると、すぐに彼女は笑ってくれた。
ロレンツォが食卓に着くと、フランチェスカもその向かいに座った。ロレンツォはこの部屋に今朝までは存在しなかったはずの皿やスプーン、フォーク、コップが並んでいるのに気がついた。
「食器も買われたのですか?」
「ええ。何もないのはさすがに不便かと思って」
「今朝渡したお金で足りましたか?」
「大丈夫よ。さあ、食べましょう」
ロレンツォは目の前で食事をするフランチェスカを見ながら、すぐにこの部屋を出て行くのだから、あまり物を増やさないでほしいと思っていた。
だが、その理由はフランチェスカがいなくなればまた必要なくなるのだから勿体ないということではなく、残された物を見た時に彼女を思い出してしまいそうだからだった。