アルマの物語(中)
フランチェスカが不在の間、侯爵家の屋敷で仕事をしながらアルマは安堵していた。
父の決めた王太子との婚約を嫌がるフランチェスカは馬鹿だと思っていたが、王太子という立場にありながら婚約者のメイドと恋愛ごっこをしたがるエミリオも正気とは思えなかった。おかしな騒ぎに巻き込まれる前にエミリオから離れることができて良かった。
あの綺麗な顔に浮かぶ笑みをもう見られないのは少しだけ残念な気もしたが、本来ならアルマが一生目にするはずのなかったものだ。別世界の住人のことなどさっさと忘れるつもりだった。
「アルマ、何を考えているの?」
いつの間にかフランチェスカが帰宅して目の前に来ていた。アルマは慌てて首を振った。
「いえ、何も」
「まったく、エミリオってば今日もアルマを連れて来いって煩かったわ」
まるで自分の頭の中を見たかのようにフランチェスカがエミリオを話題にするので、アルマは努めて冷静に言った。
「きっとすぐに私のことなど、忘れてしまわれますわ。お嬢様という素晴らしい婚約者がいらっしゃるのですから」
「わたしは名前だけの婚約者よ。エミリオなんかと結婚してたまるものですか」
「なぜ王太子殿下では駄目なのですか?」
アルマの問いに、フランチェスカは首を傾げた。
「さあ、なぜかしら? とにかくエミリオは違うのよね」
アルマも首を傾げるしかなかった。
「はあ。私は良い方だと思いますが」
美形の王太子など貴族令嬢にとって最高の結婚相手だろうと思って、アルマはそう言った。
だが、それを聞いたフランチェスカはアルマの顔を凝視した。
「わたし、もしかして余計なことした?」
アルマにはその言葉の意味がわからなかった。
「あいつに片想いなんかされてアルマは迷惑だろうと思ってたけど、アルマもエミリオが好きなの?」
アルマは目を見開いた。この人はとんでもない勘違いをしている。
「私などが王太子殿下にそのようなこと、あるはずがないではありませんか」
「身分なんて関係ないわ。アルマの相手がエミリオだなんて許せないけど、アルマがどうしてもエミリオが良いと言うならわたしは……」
フランチェスカの顔が歪み、涙目になった。
「いえ、違いますから。本当に」
「大丈夫、わたしはアルマの味方よ。明日からはまた一緒に王宮に行きましょう」
涙ぐむフランチェスカにしっかりと手を握られて、もはやアルマは呆気にとられるしかなかった。
数日振りに会ったエミリオは、アルマの姿を見て本当に嬉しそうに笑った。その笑顔に思わずアルマの胸が高鳴った。いや、あの笑顔でドキドキしない娘などフランチェスカくらいに違いないとアルマは思った。
「アルマ、また会えて良かった。わたしはアルマが好きだ。愛している。わたしの妃になってほしい」
エミリオがアルマの手に自分の手を重ねてきた。エミリオの顔には迷いがなかった。すでにフランチェスカに何か聞いてしまったのだろう。
「私では王太子殿下には相応しくありません。どうかお許しくださいませ」
「いや、わたしの妃はおまえしかいない」
それからしばらく、アルマとエミリオの間で攻防が続いた。フランチェスカもエミリオの後押しをした。
アルマがエミリオを拒むのは身分が理由だとエミリオやフランチェスカは思ったようだが、アルマは自分が侯爵に認知されて貴族令嬢として育っていたとしても、エミリオの言葉に頷いていたとは思えなかった。
アルマは自分を愛していると言ったエミリオの手を取るつもりはなかった。そんな気持ちはきっと一時のものだ。
長らくエミリオの知る令嬢は変わり者のフランチェスカだけだった。だからアルマに会って少し心が動いてしまったに過ぎない。
エミリオが妃を迎えるのはまだ先で、その前には社交界デビューがある。そこでたくさんの令嬢に出会えば、エミリオはすぐに心変わりするはずだ。アルマが本当に王太子妃になるなどあるわけない。
だが、正直にそんなことを話しても今のエミリオは納得しないだろう。どうせなら異母姉のように「あんたとなんか結婚しない」と言ってしまえばいいのかもしれないが、庶民のアルマが王太子にそれを言う勇気はなかった。
アルマは断り続けることが段々と面倒になってきた。もう受け入れてしまおう。どうせすぐに飽きられて終わると思っていれば、その時が来ても自分は心を乱したりしないだろうと考えた。
エミリオに偽りの気持ちを告白するのはひどく緊張した。
「私もあなたが好きです」
か細い声でそれだけ口にしたアルマを、エミリオはきつく抱きしめた。その腕の中が思いのほか心地良かったので、アルマは困惑した。
エミリオは恋人になってもせっせと控室にやって来た。逢瀬の時間は短かったが、エミリオからの愛の言葉も贈り物も口づけもアルマはすべてそこで受け取った。
1年程たった時、母が病で死んだ。
母がアルマに遺した言葉は「旦那様にご迷惑をかけないように」というものだった。
屋敷の使用人たちが開いてくれた弔いの場に、侯爵がわずかの間ではあるが顔を出したのは意外だった。だが、やはりアルマに声をかけることはなかった。
アルマはこれで自分はひとりなのだと思ったが、エミリオやフランチェスカがそばにいてくれたおかげであまり落ち込まずに済んだ。
それから少しして、エミリオとフランチェスカは国王主催の夜会で社交界デビューを果たした。
「アルマをエスコートして、アルマとダンスをしたかった」
翌日の控室でエミリオがぼやいた。
「でも、お似合いのふたりだと噂になっていたわよ」
「冗談でもアルマにそれを言われたくない」
エミリオは怒ったようにそう言うと、アルマを引き寄せて口づけた。
それからもエミリオの心を揺さぶる令嬢は現れなかったようだ。
もしかしたらこの関係は終わらず、自分は本当にエミリオの妃になるのだろうかとアルマは考えた。
だが、今でもエミリオの正式な婚約者はフランチェスカだ。やはりフランチェスカが正妃になり、アルマはせいぜい側妃だろう。だが、フランチェスカならアルマにおこぼれをくれるに違いない。
ところが、異母姉は突然恋に落ちた。
相手は頼りなさそうな歳下の騎士だった。なぜエミリオではなくその男なのか、アルマにはまったくわからなかった。
エミリオが面白がってその騎士ロレンツォを彼の護衛にしたので、フランチェスカは毎日のようにエミリオの執務室に通い、どんどん彼にのめり込んでいった。
フランチェスカにロレンツォと結婚したいから家事を教えてほしいと言われ、アルマは戸惑った。庶民の娘が騎士との結婚に憧れるならわかるが、フランチェスカは王太子妃になるはずの侯爵令嬢なのに。
異母姉は頭は良いのに、なんて愚かな人なのだろう。フランチェスカ自身は望むまま好きに生きているつもりなのだろうが、アルマには彼女が自ら苦労を引き寄せているように見えた。
だが、家事や市井の暮らしを学ぶフランチェスカは楽しそうだった。ロレンツォの話をするフランチェスカの顔は輝いていて、とても可愛いらしく見えた。
異母姉は本当に王太子妃の座をアルマに譲り、騎士の妻になるつもりだった。
それならば自分は異母姉の恋を応援しようとアルマは決めた。異母姉がロレンツォと結婚できるように。そして、自分はエミリオの妃になるのだ。エミリオとフランチェスカがそれを望んでいるから。
それが叶った時、フランチェスカはアルマと立場が逆転することになる。果たして異母姉はそれに気づいているのだろうか。そして、侯爵はどんな反応を見せるのだろう。
エミリオとフランチェスカはミーナという男爵令嬢を利用して婚約破棄する計画を立て始めた。
隣国のスパイの娘でありながら男爵に庶子として認知されたというミーナに、アルマは知らず妬ましさを覚えた。ミーナがエミリオに纏わりついている姿に心が波立った。
だが、エミリオが自分との結婚のために王太子の位を捨てるつもりだと知り、アルマは驚愕した。
「私にそこまでして結婚してもらう価値なんてないわ。お願いだからやめて」
「わたしは何を引き換えにしてもアルマと結婚したい。アルマにとっては王太子でないわたしは夫にする価値のない男か?」
「そんなことない。あなたがどんな身分になろうとも、私はあなたについて行くわ。だけど、私のために捨てるなんて」
自分が異母姉に成り代わろうなどと考えたのが間違いだったのだろうか。それとも、エミリオの気持ちをいつか冷めるものと侮っていたことだろうか。アルマは胸が痛んだ。
「他に方法はないの?」
「なくはないが、結婚後のことまで考えればこれが一番いいと思う」
それからエミリオはアルマの顔を見つめて、フッと笑った。
「すまない。確実ではないからまだ言わずにいるつもりだったんだが、わたしはまた王宮に戻るつもりだ」
「どういうこと?」
「わたしはこう見えて有能な王太子だ。おそらく、いなくなれば惜しまれる程度には。爵位を与えて官吏として戻そうと、陛下も考えてくれるかもしれない。だがもちろん、平民のまま暮らしていくことになってもわたしはアルマがいればそれで構わない。どちらにせよわたしの妻はおまえだけだ」
「……わかりました。私はあなたの言うとおりにします」
今でもエミリオがなぜ自分を選ぶのか、アルマにはわからなかった。それでも自らエミリオの腕の中から出て行くことは、もはやアルマにはできなかった。




