アルマの物語(前)
自分以外の誰かを信じたり、頼ったり、ましてや愛するなんて愚かなことだとアルマは思う。
アルマに最初にそれを教えてくれたのは母だった。
アルマの母マリカは田舎の農村から親戚を頼りに都に出て来て、ヴィオッティ侯爵家のメイドの職を得た。母はそのことを「運良く」と言っていたが、アルマはそうは思えなかった。
ヴィオッティ家で働き始めて間もなく、マリカは次期侯爵であるウルバーノに恋をした。ウルバーノはマリカより9つも歳上で、当時結婚したばかりだった。その恋が叶わないことなどもちろんマリカも承知していたはずだ。
数年たって年頃になったマリカには結婚を考える恋人がいた。恋人がどんな男だったのかアルマは知らないが、少なくともマリカに相応しい庶民だったに違いない。
一方、侯爵位を継いだウルバーノには長女と長男が生まれ、さらに夫人は3人目を身籠っていた。
マリカがウルバーノに抱かれたのはそうした時だった。
妻の妊娠中に使用人に手を出す男も最低だが、あっさり恋人を裏切って本気のはずもない男に身体を開いた母も馬鹿だと思う。
そんな最低な男と馬鹿な女がいたからアルマは生まれてしまった。
マリカとウルバーノの関係は一度だけではなかったようだが、侯爵夫人が次女を産み、マリカが自身の妊娠に気づいた頃には終わっていたらしい。
当然、マリカの不貞を知った恋人は去って行った。
マリカが身籠ったことを知らぬはずのないウルバーノはマリカに対して何もしてはくれなかった。妾として囲うことも、金銭的な援助をすることも、生まれた娘を認知することも。
しかしマリカに言わせると、屋敷から追い出さず子供を産み育てさせてくれたということになった。
「旦那様に対して何も求めてはいけない」と母はアルマに繰り返し言った。だが、言われなくてもアルマは侯爵に何かを望むつもりはなかった。
アルマは侯爵に声をかけてもらったことがなかった。目が合ったこともなかった。そんな相手が父親だと言われても、まったく実感が湧かなかった。
侯爵は使用人の娘であるアルマの存在など気づいていないのかもしれない。気づいていたとしても、名前までは知らないだろうとアルマは本気で考えていた。
同じ歳の異母姉フランチェスカが貴族令嬢としては変わり者だということは、5歳上のもうひとりの姉と比べても明らかだった。
フランチェスカは使用人とも仲良くしたがり、仕事中に纏わりついたりしていた。使用人の子供たちのことも虐めたりせず、時々お菓子などをこっそり配った。
だが、フランチェスカのしていることは恵まれた境遇にいるものが自分より下の者を憐れんでいるだけのようで、アルマには不快だった。使用人の子供など無視しているフランチェスカの姉兄のほうがましだと思った。
フランチェスカはお転婆というよりも腕白で、しょっちゅうドレスを汚したり破いたりしてお付きのメイドや両親から叱られていた。だが、そのドレスを洗濯したり繕ったりするメイドたちはあのお嬢様なら仕方ないと笑いながら仕事をしていた。
そんな風に使用人に慕われ、使用人の子供たちに紛れて遊んでいたフランチェスカが、自分に異母妹がいると屋敷のどこかで耳にすることになったのは自然な成り行きかもしれない。
「アルマはわたしの妹だったのね」
ある日突然フランチェスカに笑顔でそう言われ、アルマは戸惑った。否定すべきか肯定すべきかもわからずにいるアルマに、フランチェスカは続けた。
「わたしがあなたを守ってあげるから、困ったことがあったら何でも言ってね」
「ありがとうございます」
一応アルマは礼の言葉を口にしたものの、それは姉に対してではなくお嬢様に対してだった。侯爵を父と思えないのに、その娘を姉として見られるわけがなかった。
そもそもフランチェスカの言い方だって、アルマをただの使用人の娘と信じていた時と何ら変わっていないように聞こえた。侯爵が母と寝たことと同じで、これもお嬢様の一時の気紛れだろうとアルマは思った。
ところがそれからフランチェスカは何かとアルマを気にかけるようになった。フランチェスカはアルマを貴族令嬢として仕込もうと、礼儀やマナー、教養などを彼女自身が講師になって教え始めた。
アルマはそんなものは無駄だと思ったが、フランチェスカに逆らうのも面倒で大人しく聞いていた。
ただ、フランチェスカはアルマが異母妹であると公にすることはなかったし、侯爵に対しても何かを訴えるわけではなかった。結局のところ、フランチェスカはアルマを彼女の下に置いておきたいのだろうが、アルマもそれで構わなかった。
それからしばらくして、フランチェスカは王太子の婚約者に選ばれた。もともとフランチェスカは王太子と会うためにたびたび王宮に上がっており、いずれはそうなるのだろうと使用人たちも話していたので、侯爵家では当然のこととして受け止められた。
ひとり反発したのは当のフランチェスカだった。フランチェスカが侯爵に泣いて抗議する声を何人もの使用人たちが耳にした。侯爵だって、できることなら長女のほうを王太子妃にしたかっただろう。
フランチェスカは王太子の婚約者として王宮で妃教育を受けることになるので、これでお嬢様の気紛れから解放されるだろうとアルマはホッとしていた。
しかし、フランチェスカはアルマを自分のメイドにすると言い出した。侯爵はあっけなくそれを許した。やはり侯爵は自分を娘として認識していないのだとアルマは改めて思った。
母は娘が異母姉のメイドになったことを嘆くどころか喜ひ、しっかり仕えるよう念を押した。
とりあえずメイドとして働いていれば生活に困ることはないだろうし、フランチェスカが王太子妃になる時に一緒に王宮に上がれれば条件の良い結婚相手を捕まえられるかもしれない。アルマはそう考えた。
フランチェスカについて王宮に行ったアルマは、初めて王太子エミリオに会った。エミリオはフランチェスカが「女顔」と称したとおり、中性的で美しい顔立ちをしていた。
婚約者になることを泣いて嫌がる程だから、フランチェスカとエミリオは不仲なのかと思っていたがそうではないようだった。フランチェスカはエミリオに対してアルマが異母妹であることも隠さなかった。
むしろフランチェスカとエミリオは距離が近過ぎて互いを異性として見ることができないようだった。エミリオの前でのフランチェスカの態度は、屋敷の使用人に対してよりも乱暴に見えた。
フランチェスカが妃教育を受けている間、控室で待機しているアルマのもとにエミリオが訪れるようになった。王太子が婚約者の異母妹にまで気を使ってくれるのか、それともフランチェスカのほうがエミリオに頼んだのだろうか。
どちらにせよ、アルマにはありがた迷惑だった。相手が王太子だというだけで緊張するのに、自分より数段整った顔の男に笑いかけられてアルマは落ち着かなかった。
アルマがエミリオと話せる共通の話題など異母姉のことしか思い浮かばず、ひたすらフランチェスカの話をした。
しばらくしてようやくエミリオの顔をまともに見られるようになると、アルマは違和感を覚えた。エミリオのアルマを見つめる視線が何だか熱かった。
アルマはそういう視線を男から向けられた経験が何度かあった。異母姉たちには及ばなくても、アルマもそこそこの顔をしていたから。
しかし今までの相手は皆庶民だった。自分が王太子に想いを寄せられるなどありえないと、アルマは自嘲した。だが、それはアルマの思い違いではなかった。
ある日、エミリオのアルマに向ける視線に気づいたフランチェスカが凄まじい怒りを見せた。お嬢様の婚約者である王太子に色目を使ったメイドとして、自分は侯爵家を追い出されるに違いないとアルマは覚悟した。
しかし、フランチェスカの怒りの矛先はアルマではなくエミリオに向けられた。翌日からフランチェスカはアルマを王宮に連れて行くのをやめた。




