3 騎士の暮らす部屋
ロレンツォはフランチェスカを伴って、夜会の行われている広間から玄関ホールへ出た。フランチェスカに何と言葉をかければいいのかわからずにいると、彼女のほうから口を開いた。
「ロレンツォに迷惑をかけることになって本当にごめんなさい。だけど、ありがとう」
「いえ、迷惑などでは」
ロレンツォが首を振るとフランチェスカが微笑むので、ロレンツォは胸が痛くなった。むしろ迷惑を被っているのはフランチェスカだろうに。
「フランチェスカ様、とりあえずお屋敷までお送りいたします」
ロレンツォが言うと、フランチェスカは目を瞬いた。
「あなたの家に連れて行ってくれるのではないの?」
ロレンツォは思わずフランチェスカの顔をまじまじと見つめた。
「ですが……」
「エミリオを騙すことなどできないわ。それに、実家が今の私を受け入れてくれるかわからないし」
そこまで言ってから、フランチェスカがハッとした顔になった。
「もしかして、家であなたを待っている方がいるの?」
「いいえ、私は一人暮らしですし、そんな相手はおりません」
「それならば、お願い、私を連れて帰って」
フランチェスカに縋るような目を向けられてロレンツォが答えに悩んでいると、広間から男が出てきた。公爵家の執事だ。
「王太子殿下より、おふたりをご自宅までお届けするようにと言いつかりました。当家の馬車をご用意いたしますので少しお待ちください」
なぜそんなことにばかり気を回すのかとエミリオを腹立たしく思いつつも、ロレンツォはそれを受けるしかなかった。
今夜フランチェスカはエミリオとともに王太子専用の馬車でここまで来ていた。ロレンツォひとりならいくらでも歩くが、フランチェスカが一緒ではそうはいかない。
馬車はすぐに用意された。扉が開けられるのを見ながら、ロレンツォはふといつもフランチェスカがエミリオにエスコートされていた姿を思い出した。ロレンツォはフランチェスカに断ってから先に馬車に乗り込むと、そっと彼女に手を差し出した。
フランチェスカはそれに気づいてロレンツォの顔を見上げた。ロレンツォは余計なことをしたかと考えたが、フランチェスカは恥ずかしそうに微笑んでロレンツォの手にその白く小さな手を重ねてきた。初めて触れたそれは柔らかく滑らかだった。
馬車の扉が閉まる前に、慌てた様子でそこに近づいて来た者があった。フランチェスカについて来ていたメイドのアルマだった。
「お嬢様、こちらを」
そう言いながらアルマは馬車の中へと大きなトランクを押し込んだ。
「ディアーコ様、お嬢様のことをどうぞよろしくお願いいたします」
アルマはそう言うと、ロレンツォに向かい頭を下げた。
「ありがとう、アルマ」
フランチェスカがアルマに言うと、ふたりの間で扉が閉められた。
ふたりが座席に落ち着くとまもなく馬車は動き出した。ロレンツォはすぐ隣にいるフランチェスカの姿が視界に入ると落ち着かないので、見るともなく窓の外に視線をやった。
もしも王宮に国王陛下がいれば、王太子が口にした婚約破棄など忽ちのうちに取消してくれただろう。
しかし、現在国王陛下は王宮どころか都にさえ不在だった。国境付近の視察に赴いており、王宮に戻るのは一週間後の予定。さらに、フランチェスカの父である宰相もそれに同行していた。
おそらく偶然ではなく、エミリオがこの時を狙ったに違いない。
となれば、とりあえず一週間ロレンツォがフランチェスカを保護しておけば、あとは国王陛下と宰相がどうにか良いように収めてくれるのではないだろうか。
国王陛下に叱責されればエミリオとて非は己にあり、フランチェスカは無実であると認めるに違いない。エミリオが王太子であるのと同じくらい、フランチェスカがその妃になるのもまた自然であることも。
おそらくフランチェスカもあの場でそう考えたからこそ、ロレンツォに頷くよう求めていたのだ。それに気づいて、ロレンツォの心は少し軽くなった。
やがて馬車はロレンツォが住むアパートメントの前に到着した。ロレンツォは先に降りると、再びフランチェスカに手を差し出した。
それからロレンツォはフランチェスカのトランクを手にしたが、考えていたよりもずいぶん重かった。
御者に礼を言ってから、ロレンツォは彼女を2階にある自分の部屋へと導いた。
鍵を開けて玄関を入るとすぐ居間で、その隅に小さなキッチン、居間の奥に寝室がある。ロレンツォの部屋はごく一般的なものだった。そう、独り身の男が住むのなら。
居間に入って物珍しそうに部屋の中を見回しているフランチェスカのあまりに場違いな姿を見ながら、ロレンツォは言われるまま彼女をここに連れて来てしまったことを後悔した。こんな狭い部屋でフランチェスカと暮らすなんて無理に決まっているではないか。
しかし、フランチェスカはロレンツォを振り返ると言った。
「居心地の良さそうなお部屋ね」
その顔に浮かんでいたのはロレンツォが今まで見てきたような微笑みではなく、満面の笑みだった。それが逆にロレンツォには痛々しく見えた。
「フランチェスカ様、無理をして笑う必要などありません。泣くなり怒るなり好きになさってください」
「ええ、私は好きにしているわ。そんなことより、私のことはただフランチェスカと呼んでちょうだい。他の呼び方が良ければそちらでも構わないけれど」
「は? いや、そんなわけにはいきません」
「なぜ? ああ、私こそあなたに対する言葉遣いを改めるべきね。今後はロレンツォ様とお呼びいたしますわ」
「いえ、今までどおりになさってください。私が言いたいのはそういうことではなくて、あなたと本当に婚姻するつもりはないので安心してほしいということです」
ロレンツォが早口にそう言うと、フランチェスカの顔から笑みが消えて泣きそうな表情になった。
やはり無理をしていたのではないかとロレンツォは思った。しかし、視線を下げたフランチェスカが涙を零すことはなく、ただ小さな声で言った。
「ええ、どうぞあなたの思うとおりにして」
とりあえずゆっくり休んでもらおうと、ロレンツォはフランチェスカを寝室に案内した。そこにあるベッドはもちろん一人用だ。フランチェスカのトランクも運び込んだ。
「フランチェスカ様はこちらでお休みください。私も入る必要があるときには声をかけさせていただきます」
「ロレンツォはどこで寝るの?」
「居間のソファを使います」
フランチェスカは上目遣いにロレンツォの顔を見つめてきた。
「私はあなたと一緒でも構わないわよ」
ロレンツォは先ほど触れたフランチェスカの手の感触を思い出してしまい、それを追い払おうと首を左右にブンブン振った。フランチェスカはそれをロレンツォの答えとして受け取ったようだった。
「それならば、私がソファを使うわ。私のほうが体が小さいのだし、あなたは明日のお仕事のためによく休むべきでしょう」
「いえ、私はどこでも寝ることができますので問題ありません」
騎士は堅い床の上でも眠れなければやっていけないので、ソファで寝ることなどロレンツォにとっては何でもなかった。
「何かあればすぐに仰ってください。では失礼します」
ロレンツォはそれだけ言うと、寝室を出て急いで扉を閉めた。そのままソファまで歩き、崩れるように座り込んだ。
フランチェスカは頭の良い女性のはずだが、あんなことを口にするなんてやはり世間知らずの令嬢ということなのだろう。だが、ロレンツォとしてはあまり信頼しないでほしかった。と言って、フランチェスカにそれをはっきり告げるのも気が引けた。
このまま寝てしまおうかと考えて、ロレンツォは自分がまだ紺色の騎士服姿だったことに気がついた。いつもなら王宮の騎士団詰所で私服に着替え、風呂まで済ませてから帰宅していた。
フランチェスカを寝室に案内した時、なぜついでに着替えを持って出なかったのだと、ロレンツォは自分を詰った。またフランチェスカと顔を合わせねばならないではないか。
そこでようやくロレンツォはフランチェスカはどうするのかということに思い至った。夜会のためのドレスで寝ることなどできるはずがない。
あの大きなトランクの中身は普通に考えればいざという時のための夜会ドレスの替えだろうが、重さからするとそれだけではなさそうだった。部屋着や寝巻代わりになるような服も入っていればいいのだが、なければロレンツォの服を貸さねばならない。
しばらくしてから、ロレンツォは意を決して寝室の扉をノックした。
「開けてもよろしいでしょうか」
「ちょっと待って」
フランチェスカの焦ったような返事があり、しばらくして中から扉が開けられた。
そこにいたフランチェスカは部屋着らしきごくシンプルなドレスに着替えていて、ロレンツォはホッとした。
「トランクにそういう服も入っていたのですね。それならばよかった」
「気にしてくれたのね。ありがとう」
「湯を沸かしたのですが使われますか? この部屋には浴室がないので体を拭くくらいしかできないのですが」
「では、使わせてもらうわ」
ロレンツォは手桶に湯を入れて寝室に運び入れた。壁際に掛けられたフランチェスカのドレスが目に入るが、やはりこの部屋には不釣り合いだった。
ロレンツォは居間へ戻ると手早く体を拭いつつ着替えをし、ソファに寝転んだ。いつにない疲労を感じていたが、隣室にフランチェスカがいると思うと寝つけなかった。
目を閉じて何度か体の向きを変えたりしていると、ふいに寝室の扉が開く音がした。ロレンツォがゆっくり目を開けてみると、フランチェスカが真上から覗き込むようにロレンツォを見下ろしていた。ロレンツォは思わず「うわっ」と声をあげて起き上がった。
「驚かせてごめんなさい。あの、毛布を持って来たのだけど、勝手にクローゼットを開けて出しました。それもごめんなさい」
「あ、いえ。わざわざありがとうございます」
クローゼットの中を見られて困るようなものは、特に入れていなかったはずだ。
「それではお休みなさい、ロレンツォ」
「お休みなさいませ」
フランチェスカが寝室に消えてから、ロレンツォは小さく溜息を吐いた。