4 王太子殿下の婚約破棄の結末
年が明けて春の初め、エミリオは王宮に戻り王太子に復帰した。
エミリオとミーナがいなくなり、一時混乱した王宮はいずれ落ち着きを取り戻すと思われた。しかし、エミリオの不在による穴は日が経つにつれて大きくなっていき、行政に支障が出るようになった。
第二王子のミルコが王太子になることを了承せず、さらに監察部がエミリオはミーナ逮捕の功労者だと言いはじめたこともあって、ついに国王陛下がエミリオを王宮に戻す決断をした。
その時点で王宮はエミリオの居場所を把握していなかったものの、エミリオからロレンツォを通じて宰相に接触し、ふたりはエミリオの屋敷で久しぶりに顔を合わせた。エミリオが意外にも王宮からすぐ近くの場所で暮らしていたことに宰相は驚いていた。
しかし、宰相がさらに瞠目することになったのは、エミリオに彼の妻を紹介された時だった。
アルマは着ているドレスこそ平民の若妻風だったが、宰相の前で貴族令嬢のように挨拶をしてみせた。それは宰相の次女にそっくりの仕草だった。
アルマとともに部屋を出たロレンツォは、その後、エミリオと宰相の間でどんな話し合いがなされたのかは知らない。
だが、数日後には王宮からエミリオが王太子に復位するとともに、宰相の庶子アルマ・ヴィオッティ令嬢が王太子妃になると発表されたのだった。
その直後、エミリオからまた自分に仕えるかと訊かれ、ロレンツォは頷いた。
「すべてあなたの計画どおりなのですか?」
ロレンツォは気になっていたことをエミリオに尋ねた。
王宮を出てからの数カ月間、エミリオは商家を手伝う程度で本腰を入れて仕事を始める様子はとうとうなかった。
「いや、いくらわたしが有能で陛下もわたしにあれこれ政務を押しつけていたからと言って、せいぜい爵位を与えられて官吏として王宮に戻り、ミルコの補佐をすることになるくらいだろうと予想していたのだがな」
エミリオはしれっと言った。
結局、エミリオにとっては少し長い結婚休暇を取ったくらいの感覚なのだろうとロレンツォは理解した。
「ところで、この屋敷を他人に渡してしまうのは惜しい。どうせならおまえとフランチェスカでここに住まないか?」
「私にはまだこの屋敷を買って維持できるだけの収入はありません」
「それはもちろん知っているが、宰相にでも出してもらえばいいだろ」
「簡単に言わないでください」
「何だ、アルマのことで宰相の怒りがおまえに行ったのか?」
「そういうことではありません。今の自分ではこの屋敷に分不相応です」
「まったく生真面目だな。おまえだって一応貴族の出身だろう。おまえの実家は子爵としては暮らし向きもいいと聞いたぞ。フランチェスカを広い家に住まわせてやろうとは思わないのか?」
確かに、菓子作りのできるキッチンと風呂のある屋敷はロレンツォがフランチェスカと暮らす家としては魅力的だ。しかし、小さいとはいえ使用人もいる屋敷の主人になるなど、ロレンツォにはやはりまだ早い気がした。
「とりあえず、フランチェスカにも訊いてみろ」
エミリオにそう言われたが、フランチェスカも今はまだアパートメントの部屋のほうがいいと言うのではないかとロレンツォは考えた。そして、フランチェスカの答えはそのとおりだった。
ロレンツォと心身ともに通じ合った日から、フランチェスカは部屋でいかにロレンツォとくっついて過ごすかということに苦心していた。そんな彼女にとって広い家など無駄なのだ。
結局エミリオは屋敷を売らず、貸しに出すことにした。
宰相がアルマを娘として認知したことでヴィオッティ家は修羅場になるだろうとロレンツォはヒヤヒヤしていたが、そうはならなかった。
侯爵夫人はどうやら夫の不貞などとっくに気づいていたようで、夫に対して冷静に「ひとり認めてしまったら、あと何人現れるのでしょうね」と言ったらしい。
ロレンツォは硬い人間だと信じていた義父が、女性に関してはそれほどだらしなかったのかと驚いた。さらに、何度か会った義母はおっとりした印象だったのだが、見た目どおりの人ではないのだと知った。
エミリオとアルマはすでに街の教会で結婚式を挙げていたが、王太子が正妃を迎えるのに何もしないわけにはいかず、王宮でアルマをお披露目するための盛大な夜会が開催された。
当初、王太子妃として突然王宮に現れたアルマに対する風当たりは弱くはなかった。しかし、アルマが宰相の娘であること、そしてミーナと違い貴族令嬢として完璧に振舞ったことで徐々に受け入れられていった。
王宮以上に反発があったのは社交界の女性、特に令嬢たちからだった。王太子の婚約者だったフランチェスカはロレンツォの想像以上に貴族令嬢たちから慕われ、尊敬されていたようだ。そのため、フランチェスカから王太子妃の地位を奪った異母妹は憎むべき存在と認識された。
令嬢たちを心変わりさせたのは、他でもないフランチェスカだった。平民から王太子妃になって周囲の環境が激変したアルマを心配するエミリオに請われて、フランチェスカは王太子妃の相談役として週に何度か妹のもとを訪れることになった。
フランチェスカがアルマの後ろ盾という立場を鮮明にしたため、貴族令嬢たちもアルマを認めたのだ。
しかしフランチェスカが王宮に通うようになると、やはりフランチェスカはエミリオに未練があるのではないかという噂がたった。なぜならフランチェスカが王宮に来て真っ先に向かうのも、帰る前に必ず寄るのも、エミリオの執務室だったからだ。
もっとも、その噂はすぐに下火になった。ちょうどフランチェスカがエミリオの執務室を訪れたところに居合わせた者たちが証言したのだ。フランチェスカは彼女を捨てた王太子になどもはや見向きもせず、今は王太子によって無理矢理結婚させられた歳下の騎士に夢中で、執務室に行くのは王太子の護衛である夫がそこにいるからにすぎない、と。
それを聞いたロレンツォも、ほぼ事実だと心の内で認めた。
執務室の中にいるロレンツォは、官吏たちに比べて軽くて早いフランチェスカのノックの音をすぐに聞き分けられるようになった。
エミリオの許可でロレンツォが扉を開けると、フランチェスカが瞳を輝かせてロレンツォの全身に素早く視線を走らせた。フランチェスカが部屋の中に入ってからロレンツォが扉を閉めて振り返れば、フランチェスカはすでにロレンツォの懐に入っていた。
「私の騎士様、ごきげんよう」
復位後のエミリオの執務室は以前よりも人の出入りが頻繁で、大抵はエミリオの他に官吏の誰かしらがそこにいた。だが、フランチェスカの目には映らないらしかった。
「フランチェスカ、先に殿下と義父上にご挨拶を」
ロレンツォが囁くと、フランチェスカはようやく執務室の奥を見た。
「あら、父上もいらしたのですね」
その日、たまたま執務室で娘と顔を合わせた宰相は、婿に向かって口を開いた。
「ロレンツォ、フランチェスカに王宮では礼儀を思い出すよう言ってやれ」
「はい、申し訳ございません」
ロレンツォが宰相に頭を下げると、フランチェスカが強い調子で言った。
「父上、ロレンツォに嫌味を言わないでよ」
「おまえに直接言っても無駄だからロレンツォに言っておるのだろうが。おまえがおかしな真似をして恥をかくのは夫だということを覚えておくんだな」
「私はロレンツォに恥をかかせたりしないわ」
フランチェスカはそれをロレンツォを見つめながら言った。ロレンツォは頷いた。
「わかっています」
エミリオがふたりの間に言葉を投げるように言った。
「フランチェスカ、この部屋を出入り禁止にされたくなければさっさとアルマのところに行け」
「ロレンツォが私のために扉を開けてくれないわけがないでしょ」
「残念ながら、ここにいるのはおまえの騎士様ではなく、わたしの護衛だ」
フランチェスカが心底口惜しそうな顔をした。
「フランチェスカ、私はあなたの前で扉を閉ざすようなことはしたくありません。もうお妃様のところに行ってください」
ロレンツォがそう言うと、フランチェスカはロレンツォを見上げて微笑んだ。
「ええ、ロレンツォ、もう行くわ。また帰る前にあなたに会いに来るから」
「はい、待ってます」
フランチェスカを送り出した後、エミリオと義父が微妙な顔でこちらを見ていたが、ロレンツォは気づかぬふりをして持ち場に戻った。
それからのフランチェスカは執務室に先客がいれば一応挨拶をするようになった。
フランチェスカがエミリオの婚約者として執務室を訪れていた時も、扉を開けて彼女を迎え入れるのはロレンツォの役目だった。あの頃もフランチェスカは微笑みを浮かべてロレンツォを見上げたものだった。
フランチェスカをいつも嬉しそうに微笑ませていたのは自分だったのだと思うと、ロレンツォは心の中をくすぐられているような気分になった。
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