3 契り
ロレンツォとフランチェスカは以前の休暇にふたりで訪れた公園に寄り、噴水近くのベンチに手を繋いだまま並んで腰を下ろした。
あの時よりも風が冷たかった。
「フランチェスカ、寒くありませんか? やはりどこかのカフェにでも入りましょうか?」
「ううん、大丈夫よ」
フランチェスカはやや俯き気味に答えた。フランチェスカがロレンツォを見ないので、ロレンツォはフランチェスカの横顔を見つめていることにした。
フランチェスカはしばし逡巡してから口を開いた。
「あのね、実は、夜会での婚約破棄は私から言い出したことなの。私はどうしてもエミリオではなくあなたと結婚したかったから。エミリオにもアルマがいたし。だから、あなたはエミリオに言われて仕方なくだったとしても、私はあなたのそばにいられて毎日とっても幸せだった。だけど、私のためにあなたが傷ついているのは申し訳なくて」
フランチェスカは一息に言った。
「あなたは傷ついても哀しんでもいなかったのですか?」
ロレンツォが尋ねると、フランチェスカはさらに俯いた。
「ええ、ごめんなさい」
「いえ、それならば良かったです」
ロレンツォが穏やかに言うと、フランチェスカは顔を上げてロレンツォを見た。
「怒らないの?」
「怒りませんよ」
エミリオから聞いた時も、困惑はしたが腹は立たなかった。ロレンツォはフランチェスカの罠にかかって囚われてしまったことを自分が悦んでいるのだと自覚した。
「もちろん、強引な手を使ってあなたと結婚するからには、ちゃんと責任は取るつもりだったのよ」
「責任?」
「あなたのために何でもしてあげて、あなたにも私を好きになってもらって、何があってもずっとあなたと一緒にいようって。私が絶対にあなたを幸せにするわ」
その男前とも言える言葉はとてもフランチェスカらしい気がしてロレンツォは可笑しくなり、思わず笑みを漏らした。
「どうして笑うの?」
「あなたが他の誰でもなく私を見つけてくださったのですから、私はすでにとても幸せです」
「本当?」
「はい」
「それなら、これからもっともっと幸せにするから」
「あなたが一緒にいてくれれば、そうなると思います」
ロレンツォが確信を持って言うと、フランチェスカの顔にもようやく笑みが戻った。
アパートメントが近づくにつれて、ロレンツォは焦燥感を覚えていた。
正確に言えば、それはおそらく涙で顔を濡らしたフランチェスカを抱きしめて口づけ、「愛しています」と告げた時からロレンツォの中に生まれていた。それでも屋敷ではエミリオとアルマの目があったし、外にいる間も気づかぬふりでいられた。
しかし、もうすぐ部屋でフランチェスカとふたりきりになってしまう。2か月近くもフランチェスカと同じベッドで寝ていたくせに何もせずにいられた自分が、今では信じられなかった。
「フランチェスカ、どこか寄りたい場所はありませんか?」
フランチェスカは即答だった。
「ないわ。早く帰りましょう」
ロレンツォはこっそりと空を見上げた。日はまだだいぶ高い位置にあった。
ロレンツォはフランチェスカの手を引いてアパートメントの階段を上り、部屋に入った。
そのまま寝室に直行したい気持ちを抑えこんでソファに腰を下ろした。
しばし、自分の汗ばんだ手の中にあるフランチェスカの手を意識しながらロレンツォは苦悩した。初めてなのに、こんなに早い時間から性急にことを進めても構わないものだろうか。
とにかく、フランチェスカの意思を確認しよう。フランチェスカが嫌がることはさすがにロレンツォにはできない。フランチェスカに軽蔑されたら死にたくなるかもしれないが、彼女なら受け入れてくれるような気もした。
が、ロレンツォがフランチェスカのほうを向くより先に、フランチェスカの手がずっと握りしめていたロレンツォの手を放した。
下がりかけたロレンツォの体温が、次の瞬間、跳ね上がった。ロレンツォの首に両腕を巻きつけてきたフランチェスカに耳朶を舐められて、ロレンツォは思わず声を上げた。
「真っ赤で美味しそうだったから、我慢できなくて」
フランチェスカに耳元でそう告げられてロレンツォも我慢を手放した。フランチェスカの腕の中で強引に体の向きを変え、フランチェスカをきつく抱き寄せ口づけた。
ふたりの息がすっかり乱れた後で、ロレンツォはフランチェスカに請われて彼女を抱き上げベッドまで運んだ。
フランチェスカが待っていてくれたのは自分の心だけではなかったのだと、ロレンツォが頭の片隅ででも考えることができたのはほんの束の間だった。
そうして、ロレンツォはベッドの中でも無事にフランチェスカの夫になった。
「フランチェスカ、大丈夫ですか?」
事が済み、ロレンツォはフランチェスカの体を気づかい労わろうと口を開いたが、情けなくも涙ぐんでしまい声が震えた。フランチェスカはロレンツォを安心させるように微笑むと、ロレンツォの頬を両手で包み込んだ。
「ああ、もう、あなたは本当に……」
最後の言葉は聞き取れなかったが、フランチェスカがこんな自分でも愛してくれているのはロレンツォにも伝わった。フランチェスカがロレンツォの頭を彼女の胸に抱き寄せたので、ロレンツォは素直にそれに甘えた。
部屋の中が薄暗くなった頃、ロレンツォはフランチェスカに尋ねた。
「夕食を買って来ます。何か食べたい物はありますか?」
「ロレンツォ」
「はい」
「ロレンツォが欲しいの。もっとちょうだい」
結局その夜、ロレンツォは部屋から出ることができなかった。
だがキッチンにフランチェスカが昨夜用意していた夕食が手付かずで残っていたので、夜も更けてからロレンツォがそれを温め直してふたりで食べた。
翌朝、ロレンツォが目を覚ますとフランチェスカの顔が目の前にあった。フランチェスカは床にしゃがみ込み、ベッドの上に肘をついてロレンツォを見つめていた。
「おはよう、ロレンツォ」
「おはようございます」
フランチェスカがすでに身支度を整えていることに気づいて、ロレンツォは言った。
「すみません。もしかして待たせてしまいましたか? 起こしてくださってよかったのに」
「せっかくのお休みなのだからまだ寝ていてもまったく構わないわよ」
フランチェスカが手を伸ばしてロレンツォの頭を撫でた。やはり心地良くてロレンツォは目を閉じそうになった。
「いえ、もう起きますので向こうにいてください」
「なぜ?」
フランチェスカが首を傾げるので、ロレンツォは戸惑った。
「服を着たいので」
フランチェスカはきちんと服を着ているのに、ベッドの中のロレンツォは一糸纏わぬ姿なので落ち着かなかった。
「手伝うわ」
フランチェスカにサラリと言われ、ロレンツォは首を振った。
「必要ありません、ひとりでできますから」
「恥ずかしがることないじゃない。私はもうあなたの体をすべて見たのだし、あなたの下着を洗っているのも私よ」
フランチェスカが掛布団に手をかけたので、ロレンツォも慌てて中から引っ張った。
「恥ずかしいものは恥ずかしいです。お願いします、出ていてください」
「嫌」
しばしの押し問答の末、なぜかロレンツォはベッドの中でフランチェスカを組み敷く形になっていた。その結果、彼女ももう一度身支度をやり直すことになってしまったのだが、自分だけのせいではないはずだとロレンツォは思った。
結婚休暇6日目、ロレンツォとフランチェスカは再び宝飾品店を訪れた。
内側に彫られたふたりの名前を確認すると、フランチェスカは左手をロレンツォに差し出した。ロレンツォはその手を取ると、薬指に指輪をはめた。フランチェスカも同じようにロレンツォの左手の薬指に指輪をはめてくれた。
店員に礼を言って外に出てからも、フランチェスカはうっとりと自分の左手を見つめていた。
「フランチェスカ、危ないですからちゃんと前を見てください」
「ええ」
「フランチェスカ」
ロレンツォが声を強めると、フランチェスカはようやく視線を指輪からロレンツォの顔に移した。
「ごめんなさい。指輪を眺めるのは帰ってからにするわ」
「そうしてください。ところで、エミリオ様のところには行きますか?」
「そうね。アルマにも指輪を見てもらわないと」
当然のようにフランチェスカがそう口にしたので、ロレンツォは眉を寄せた。
「フランチェスカ、アルマやエミリオ様にあまり私たちの話をしないでほしいのですが」
フランチェスカが首を傾げた。
「どうして?」
「あなた以外の人にまであれこれ知られていると思うと落ち着きません」
「でも、指輪を見せるのはいいわよね?」
「そのくらいなら」
「私が4日も洗濯や掃除をしなかったのに、あなたが怒らなかったことは?」
「4日間しなかった理由を言わなければいいでしょう」
「ロレンツォが初めての後に泣いたことは?」
「駄目です」
「裸のあなたはとても逞しくて、騎士服姿の時よりも素敵だってことは構わないわよね?」
「それも駄目です。ベッドでのことは絶対に話さないでください。と言うか、ここでもやめてください」
ロレンツォはキッパリと言ったが、恥ずかしさで顔が赤くなっているのがわかった。こちらを見上げているフランチェスカの楽しそうな顔を見ると、わざと言ったのではないかと疑いたくなった。
ふと、結婚直後から隣で寝ていたのに、ずっと清い関係のままだったことは知られているのだろうかと気になった。
だがロレンツォはフランチェスカにそれを訊くことはやめておいた。フランチェスカが頷く姿しか思い浮かばなかった。




