2 証
昼近くなってフランチェスカは再び目を覚ました。フランチェスカはボンヤリした顔で瞬きしながらロレンツォを見上げてきた。
「ロレンツォ?」
「はい」
「私を愛してるっ言ってくれたのは夢じゃないわよね?」
「……はい」
そろそろエミリオの視線が痛くなってきたので、ロレンツォはフランチェスカを促した。
「フランチェスカ、もう家に帰りましょう」
途端にフランチェスカはパッチリと目を開いて起き上がった。
「ええ、帰りましょう、ロレンツォ」
エミリオとアルマの生温かい目に見送られて屋敷を出ると、フランチェスカがロレンツォの手を握ってきた。
「ロレンツォ、手を繋いでもいい?」
「はい」
ロレンツォは笑いながら答えると、フランチェスカの手を指を絡めて握り返した。
「ところでフランチェスカ、ここまではどうやって来ていたんですか?」
ロレンツォは尋ねた。
ロレンツォの足なら歩ける距離だが、フランチェスカはやはり乗合馬車だろうか。だが今朝は時間が早かったので、まだ乗合馬車は動いていなかったはずだ。
「今朝は走って来たわ」
「走って? いつもは?」
「歩いてよ」
「……足が丈夫なんですね」
ロレンツォが言うと、フランチェスカは首を傾げた。
「あなたも歩いて来たんじゃないの?」
「そうですが、私は騎士ですから鍛えています」
「昔、実家で何頭か犬を飼っていたことがあって、庭でいつもその子たちのお散歩をしていたの。それで私も鍛えられたのかもしれないわね。特にネーロと名づけた子はとっても可愛いかったわ」
フランチェスカは懐かしそうな顔で言った。
「また犬を飼いたいですか?」
「今はロレンツォがいるからいいわ」
フランチェスカの中で自分と犬とは同列なのだろうかとロレンツォは考えたが、犬に嫉妬しても仕方ないと思い直した。
「帰りも歩きでいいですか?」
「ええ、もちろん。ロレンツォが手を繋いでいてくれるならいくらでも歩くわよ」
フランチェスカはニコニコと笑って言った。
ロレンツォはフランチェスカが歩けなくなったら背負うなり抱き上げるなりしようと思ったが、その必要はなさそうだ。
ふたりは大通りに出るとアパートメントのほうへと向かった。
見覚えある店の前に差しかかった時、ロレンツォはふと思った。今なら、フランチェスカを誘える気がする。
隣を歩くフランチェスカを窺うと、彼女の目が店のショーウィンドウを見つめていた。
「フランチェスカ、結婚指輪を買いませんか?」
「いいの?」
フランチェスカの顔が輝いた。
ロレンツォは昨日から着たままの服だったし、フランチェスカは部屋着にアルマから借りたストールを羽織った姿で、ふたりともあまり宝飾品店を訪れるには相応しいと言える格好でなかった。
だが、フランチェスカは気にする様子もなく扉を開けると、ロレンツォの手を引いてズンズンと店内に入って行った。
あまりにフランチェスカが堂々としているせいか、女性店員のほうが逆に気圧された様子でふたりを迎えた。
「いらっしゃいませ」
店員はフランチェスカ、それからロレンツォの顔を見つめると、何かを思い出したようににっこりと笑った。
「結婚指輪でございますね。サイズを測らせていただいてもよろしいですか?」
その時になって、ロレンツォは彼女が前回来店した際と同じ店員だと気づいた。
ロレンツォとフランチェスカの指のサイズを確認すると、店員はふたりに合う結婚指輪をいくつか出してくれた。飾り彫りの施された物や小さな宝石の嵌められた物など、ロレンツォが考えていたよりも色々な指輪があるようだ。
フランチェスカが顔を近づけてそれらをジックリと見比べた。
「ねえ、ロレンツォはどれがいいの?」
フランチェスカが指輪から目を離さぬまま、ロレンツォの手を引っ張った。
「フランチェスカが好きなのでいいです」
「ちゃんとロレンツォの好みを教えてよ」
フランチェスカは唇を尖らせながらロレンツォを睨んだ。
「それなら、……これです」
ロレンツォが指差したのは、何の装飾もない銀色の指輪だった。フランチェスカからすれば地味だろうが、ロレンツォは装飾品など身につけたことがないのだ。
ロレンツォは、フランチェスカが選ぶであろう別の指輪を喜んで購入するつもりだった。しかし、フランチェスカは嬉しそうに笑いながらロレンツォを見上げた。
「私もこれが良いと思っていたの」
その言葉を聞いて、ロレンツォのほうが驚いた。
「もっと綺麗な装飾のある物でなくて良いのですか?」
「私はシンプルなのが好きよ」
「では、これにしましょう」
「ええ」
ロレンツォがこっそり値段を確認するとシンプルな割に意外と高価だが、ギリギリ予算内だった。
「無料で内側に文字を彫るサービスも行っておりますが、いかがですか?」
店員に言われて、フランチェスカが問い返した。
「文字ってどんな?」
「おふたりのお名前や、短いメッセージを選ばれる方が多いですね」
店員が見本帳を見せてくれた。そこには「愛を込めて」とか「永遠の愛を」など、見ただけでロレンツォが気恥ずかしくなるような言葉が並んでいた。
本当に皆、結婚指輪にこんな文字を入れているのだろうか。でも結婚指輪なのだから、外して他人に内側を見せることなどないのか。
フランチェスカは今度はそれをジックリと眺めはじめた。
「文字を彫るのはすぐにできるの?」
「だいたい5日かかります」
「それでは今日は指輪をはめて帰れないのね」
フランチェスカが残念そうに呟いた。彼女の中では文字を入れてもらうことは決定事項のようだ。
ロレンツォはフランチェスカが望むならどんな言葉でも彫ってもらおうと覚悟を決めた。しばらく悩んでいたフランチェスカが口を開いた。
「やっぱり、名前だけにするわ」
「いいのですか?」
ロレンツォが訊くと、フランチェスカは頷いた。
「だって、こういう言葉はさっきみたいにロレンツォの口から直接聞きたいもの」
ロレンツォは眉を下げた。さっきはフランチェスカを失いたくないという強い想いと、場の勢いもあって口にすることができたのだが。
とにもかくにも、5日後に指輪を受け取りに来ることにしてふたりは店を後にした。
「あの人はどうして私たちが結婚指輪を買いに来たとわかったのかしら?」
フランチェスカが不思議そうに言ったので、ロレンツォは正直に打ち明けることにした。
「結婚した直後の休みの日にひとりで来たんです。あなたの指のサイズがわからなくて買えませんでしたが。それを覚えていたのでしょう」
「どうしてその時私を一緒に連れて来てくれなかったの?」
フランチェスカが不満そうに言った。
「あなたに指輪など要らないと言われるのが怖かったので」
「確かに私はあまりアクセサリーをつけないけど、結婚指輪は別よ」
フランチェスカは少し勘違いをしているようだが、ロレンツォは敢えて訂正しなかった。
「仕事だと嘘を吐いて出掛けたことはすみませんでした。エミリオ様が、あなたは私が嘘を吐くと匂いで気づくと仰っていたのですが、本当ですか?」
「そんな大したことじゃないわよ。家を出る時のあなたの様子が何となくおかしくて、帰って来たら纏っている匂いがいつもと違っていたっていうだけ。普段は騎士団のお風呂の石鹸の香りで、休日は公衆浴場の石鹸なんでしょう?」
「なぜ公衆浴場だということまでわかったのですか?」
「私も使っているから」
「は? あなたが公衆浴場を?」
ロレンツォは目を瞠った。同性とはいえ、他人の前でフランチェスカが裸身を晒していたなんて信じ難かった。
「ロレンツォといるのだからできるだけ清潔にしておきたいもの。最初はアルマのところで借りていたのだけど、あなたが嫌がるかと思ってやめたの」
しかも、どうやらロレンツォのあの一言のせいで。
「いえ、むしろそちらで借りてください。ああ、でも、これから寒くなりますから湯冷めなどしませんように」
「ありがとう、気をつけるわ。本当にロレンツォは優しいのね」
フランチェスカに微笑まれて、ロレンツォは急いで首を左右に振った。
しばらくは軽快だったフランチェスカの足取りが、だんだんと重そうになっていった。ロレンツォが疲れてしまったのかとフランチェスカを窺うと、彼女は何やら思い詰めたような顔をしていた。
ロレンツォが自分を見つめていることに気づくと、フランチェスカはゆっくりと口を開いた。
「ロレンツォ、あなたに話さなければいけないことがあるの。本当は指輪を買ってもらう前に話さなければいけなかったんだけど」
ロレンツォはいったい何かと考えて、すぐに気がついた。婚約破棄のことだ。ロレンツォかすでにそれをエミリオから聞いてしまったことをフランチェスカはまだ知らないのだ。
ロレンツォはもう聞いたと伝えようとして、やめた。フランチェスカ自身の口からもきちんと聞いてみたくなった。




