11 離婚危機
フランチェスカ編はラストです。
エミリオが屋敷で暮らすようになって、フランチェスカはあまり長居できなくなった。エミリオは明らかにフランチェスカを邪魔者扱いするのだ。
「私はあなたの義姉になったんだから、もっと敬ったらどうなの?」
「おまえのどこに人から敬われる要素があるんだよ」
「おまえではなく義姉上と呼びなさいよ」
「それでロレンツォのことは義兄上と呼ぶのか?」
「そうよ、そうすべきだわ」
フランチェスカが言うと、エミリオは鼻で笑った。
その日、部屋に帰ったロレンツォの顔を見てフランチェスカは眉を寄せた。ロレンツォは何だか苦しそうな表情をしていた。フランチェスカはロレンツォの頬に触れた。
「どうしたのロレンツォ、そんな顔をして。嫌なことでもあったの?」
「いえ、何もありません」
「本当? 私には何でも言ってね」
フランチェスカはロレンツォを抱きしめ、手を伸ばして彼の頭を撫でた。ロレンツォもフランチェスカの背に腕を回した。
「……実は、宰相閣下がここまで馬車に乗せてきてくださったのですが、まだ緊張してしまって」
「あら、あの人相手に緊張なんてする必要ないわよ。何か言われても嫌なら断ればいいのだし」
また父がロレンツォにちょっかいを出しているのかと、フランチェスカは腹立たしく思った。
「あなたの父上なのに、そんな訳にはいきません」
「ありがとう。でも、無理はしないでね」
「はい」
ロレンツォの腕の力が強まったので、フランチェスカはロレンツォにその身を預けた。
それから数日たった。
フランチェスカはアルマの屋敷に向かったが、メイドからエミリオと一緒に出掛けたと教えられた。
仕方なく、フランチェスカは以前にアルマと入ったカフェでひとり昼食を摂った。
その後で周囲をブラブラ歩いていると、宝飾品店が目に入った。フランチェスカはアクセサリーになど興味がないので、今までその店の存在に気づいていなかった。
フランチェスカは宝飾品店に近寄ると、ショーウィンドウを覗いた。結婚指輪もいくつか並んでいた。
(今さらだけど、ロレンツォに欲しいと言ってみようかしら。でも、やっぱり全部話してからよね。今夜、帰って来たら……)
だがその夜、いつもの時間になってもロレンツォは部屋に戻って来なかった。
初めてのことに、ロレンツォに何かあったのだろうかと不安で堪らず、フランチェスカは部屋の中を歩きまわった。何度か表の通りまで出てもみた。だが、ロレンツォが姿を現すことはなかった。
フランチェスカはひとりで夕食を摂る気にも、寝室に入る気にもなれなかった。
いつもならふたりでベッドに入る時間に、フランチェスカは毛布に包まってソファに座った。
明け方近くなってウトウトしたようだった。
「フランチェスカ様」
ロレンツォの声と肩を揺すられる感覚で目を覚まし、フランチェスカは慌てて飛び起きた。目の前にロレンツォがいて、フランチェスカは心から安堵した。
「ロレンツォ、どこに行っていたの? 心配したのよ」
「すみません。騎士団の先輩に誘われて呑んでいたのですが、酔い潰れてしまって家に泊めてもらいました」
ロレンツォは顔色が悪かった。今日の仕事は大丈夫だろうかとフランチェスカは気になった。
「そう。とにかく無事で良かったわ。朝食は食べられる?」
「要りません。それよりも、お話ししたいことがあるのですが」
「何?」
フランチェスカはロレンツォの顔をジッと見つめたが、ロレンツォと目が合うことはなかった。フランチェスカは何となく嫌な予感がした。
「別れましょう」
ロレンツォはその言葉を静かに口にした。フランチェスカは呆然とした。
「どうして?」
「フランチェスカ様は今でもエミリオ殿下とお会いになっているのではありませんか?」
ロレンツォは今までフランチェスカが聞いたことのない冷たい声で言った。
「それは……」
早く説明しなければとフランチェスカは口を開いたが、ロレンツォがそれを遮った。
「いいのです。私はちゃんとわかっております。エミリオ殿下のところにお戻りになるおつもりだったのですよね?」
フランチェスカの中で、急速に怒りが湧き上がった。
一晩中死ぬほど心配させておいて、やっと帰ってきたと思ったら別れ話をはじめるなんて。
夫になってくれると、ここにいてほしいと、いつか立派な家に住もうと言って喜ばせたくせに。
「何がわかっている、よ」
その言葉でやっとこちらを見たロレンツォに向かい、フランチェスカは一気にまくし立てた。
「ロレンツォは私の気持ちなんて全然わかってないじゃない。いったいいつになったらあなたは私をエミリオの婚約者ではなく、あなたの妻として見てくれるの? 私はずっと待っているのに」
「え? あの、フランチェスカ様」
戸惑う様子のロレンツォをフランチェスカは鋭く睨みつけた。
「その呼び方はもうやめてってば」
ロレンツォが手を伸ばしてきたので、フランチェスカは思いきり払った。
「触らないで。ロレンツォなんか大嫌い」
フランチェスカは部屋を飛び出した。まだ人通りの少ない道をアルマとエミリオの屋敷まで止まることなく駆けた。
玄関先で朝早くに現れたフランチェスカを見て、アルマは目を見開き、エミリオは眉を顰めた。ふたりの顔を見ると感情が抑えきれなくなり、フランチェスカはアルマに抱きついて声を上げて泣き出した。
「おまえな、朝から近所迷惑だろ」
「だって、ロレンツォが」
「お姉様、とにかく中へどうぞ」
「ロレンツォが」
「中で聞いてやるから早く入れ」
ふたりに引きずられるようにして、フランチェスカは屋敷の中に入った。いつもの居間ではなく、2階にあるアルマの部屋に通された。
フランチェスカが促されるままベッドに座ると、隣に座ったアルマが肩を抱いてくれた。
腕を組んでフランチェスカの前に立ったエミリオが口を開いた。
「で、ロレンツォがどうしたって?」
「私と別れるって」
フランチェスカは泣きじゃくりながら言った。
「へえ。おまえ、あいつに全部話したのか? それで愛想を尽かされたか」
「話してないけど、私がエミリオに会ってるのを知ったみたいで、エミリオのところに戻るんだろって」
「だったら、ここに来るより先にあいつに全部説明しろよ」
「説明しようとしたけど聞いてくれなくて、だからついカッとなって」
「カッとなって何だよ」
「触らないで、大嫌いって言っちゃった」
「まったく、子供だな。謝ればいいだろ。別れないって、アルマでなくロレンツォにしがみつけよ」
「だって、ロレンツォが冷たかったんだもん。ロレンツォが帰ってこなくて、私は朝までずっと待ってたのに」
「何だ、あいつ朝帰りしたのか。別れたいのは他に女ができたからか」
「ロレンツォが浮気なんかするわけないでしょ」
「何で言い切れるんだよ」
「そのくらい、いつも見てればわかるわよ」
「はいはい。もうさっさと帰れ」
「だって、ロレンツォが」
「ああ、もう、わかった。おまえを迎えに来いってロレンツォに頼んできてやるよ」
そう言うと、エミリオは溜息を吐きながら部屋を出て行った。
アルマがフランチェスカの背を優しく撫でながら言った。
「お姉様、少しお休みになってはいかがですか。あまり寝ていないのでしょう。顔色がお悪いですよ」
「でも、ロレンツォが」
「ロレンツォ様がいらっしゃったらすぐに起こしますから」
「絶対に起こしてね」
フランチェスカはアルマに繰り返し頼んでからベッドに横になった。いつもロレンツォと使っているベッドよりも広くて寝心地がいいはずだが、眠りの訪れる気配はなかった。
あのベッドでロレンツォと眠ることはもうないのだろうかと考えてしまい、また涙が溢れてきた。
ロレンツォの名前を呼んで、口づけて、柔らかい髪を撫でて、体温を感じて眠りたい。いや、それがなければフランチェスカはもはや眠れなかった。
そして、ロレンツォの寝顔を眺め、こっそり触らなければフランチェスカに朝はやって来ないのだ。
「ロレンツォ」
フランチェスカが布団に潜り込んでシクシク泣くと、アルマがあやすように布団の上からフランチェスカの体をポンポンと叩いてくれた。
やがて扉が開く音がして、フランチェスカは跳ね起きた。だが、部屋に入って来たのはエミリオひとりだけだった。
「ロレンツォは?」
「おまえを迎えに来てくれと言ったら断られた」
「どうして?」
「おまえに嫌いだと言われてずいぶん気落ちしてたぞ。もう自分はフランチェスカの前から消えたほうがいい、すぐに離婚の手続きをするってさ」
「何で止めてくれないの?」
「わたしのせいにするな。おまえが悪いんだろ」
「ロレンツォと別れるなんて絶対に嫌」
「なら、さっさと帰ってロレンツォに謝れよ」
「まだ間に合う?」
「急げば間に合うんじゃないか」
フランチェスカは慌ててベッドから降りると走って扉に向かい、それを開けて外に飛び出した。が、2歩目で何かに真正面からぶつかって、前進を阻まれた。
後ろで扉の閉まる音がした。フランチェスカは自分の前に立ちはだかったものを見上げた。
長い睫毛の下の黒目がちな瞳と目が合った。




