10 妹の結婚
フランチェスカはアルマの屋敷に行って甘さを抑えたクッキーを作ってみた。
焼きあがったクッキーを食べてみるとフランチェスカには少し物足りない気がしたが、重要なのはロレンツォが喜んでくれるかどうかだ。
キッチンを片付けてから居間でアルマの淹れてくれた紅茶を飲んだ。
「エミリオが、そろそろだと言っていました。しばらくここに来ることはもちろん、連絡も取れなくなるだろうって」
アルマが不安そうな顔で言った。近いうちにミーナが罠にかかって逮捕される、ということだ。
「心配しなくてもエミリオは大丈夫よ。それが終わればあなたも正式にエミリオの妻になれるのだから、楽しいことだけ考えて待っていましょう」
「はい。お姉様がいてくださって心強いです」
「あ、それならば、あのドレスを運んでおいたほうがいいわね」
「私が取りに伺います」
「大丈夫よ。ちゃんと持って来るから」
その日の夕食の後、フランチェスカがクッキーを出すとロレンツォは美味しいと言って食べてくれた。
数日後、少し早い時間に帰宅したロレンツォを、フランチェスカはいつものように出迎えた。
「お帰りなさい、ロレンツォ」
「ただいま帰りました」
「今日は早かったわね。お夕食、もう少し待っててね」
「あの、フランチェスカ様」
ロレンツォの声が硬いことに気がついて、フランチェスカはロレンツォを見上げ、首を傾げた。
「どうしたの?」
「今朝、ミーナ様がスパイ容疑で逮捕されたそうです」
それを聞いたフランチェスカは、どんな反応を見せるべきかとわずかの間考えた。完璧な元貴族令嬢としては無理に驚いたり、取り乱したりはしないほうがいいだろう。
「まあ、そうなの」
「エミリオ殿下も監察部に連れて行かれて、そのまま私室で軟禁されております」
さらにロレンツォが言った。
どうやらエミリオの予定どおりに進んだらしい。それがわかり、フランチェスカは唯一の心配事を口にした。
「ロレンツォは大丈夫なの?」
「私のことよりも、殿下のことを……」
「私にとってはエミリオ殿下よりもあなたのことよ。殿下の護衛だからと言って、ロレンツォが騎士を続けられなくなるようなことはないわよね?」
「それはないと思いますが」
「だったらいいわ」
フランチェスカは安心してキッチンに戻った。
その後ろでロレンツォもいつものように食卓の椅子に腰掛けた。だが、ロレンツォの顔は沈んだままだった。
しばらくたったある朝、フランチェスカは仕事に向かおうとしているロレンツォの顔を見上げてピンときた。あの朝と同じだ。緊張した様子で、フランチェスカと目を合わせない。
(仕事だと嘘を吐いてどこに行くのよ、ロレンツォ)
フランチェスカは笑顔の裏に不満を押し隠してロレンツォを送り出した。
洗濯と掃除を済ませると、フランチェスカはアルマの屋敷に向かった。
居間に通されると、フランチェスカはアルマに向かって愚痴をこぼした。
「ロレンツォったら、また休みなのに仕事だと嘘を吐いたのよ」
「きっとロレンツォ様にも何か事情がおありなのですよ」
「だとしても、ひとりで出掛けたいならそう正直に言ってくれればいいのに。私だって無理について行ったりしないわ」
「お姉様」
アルマが嗜めるような声を出した。
「お姉様もまだロレンツォ様に何も話していらっしゃいませんわ」
「それを言われると……」
フランチェスカは眉を下げた。
フランチェスカとアルマは屋敷からそう遠くない場所にあるカフェに向かい、ケーキとコーヒーを注文した。
フランチェスカは再び口を開いた。
「あなたたちが結婚したら、ロレンツォにはすべて話すべきよね」
「そうですね。隠したままではお嬢様のお気持ちはロレンツォ様に正しく伝わらないと思います。それに、私やエミリオと会っていることもまだロレンツォ様に話していらっしゃらないのでしょう?」
「ええ」
「もし別の形で知ってしまったら、あの方は誤解なさるのではありませんか?」
「確かにそうかもしれないわね。私だっていつかは話さなければいけないことはわかっていたのよ。でも、ロレンツォに嫌われてしまったらと思うと言い出せなくて。もう私にとってはロレンツォがすべてなの。私はロレンツォに何と言ったらいいの?」
「正直にすべてお話しになればいいのですよ」
「でも、ロレンツォはきっと怒るわよね」
「ロレンツォ様はお優しいといつも仰っているではないですか」
「そうだけど……」
「そのように弱気なのはお嬢様らしくありません。ずっとあの方のために努力されてきたのでしょう。今さら諦めるおつもりですか?」
「いえ、諦めるなんてできないわ。私はずっと待っていたのだもの」
「でしたら、しっかりしてくださいませ」
「そうよね。だけど、どうしてロレンツォは嘘を吐くのかしら」
「気になるならそれもはっきり聞いてしまえばよろしいですわ。お互いに隠し事をなくしてしまえば、お嬢様は何の憂いもなくロレンツォ様のそばにいられます」
「ええ。ところで、アルマ。さっきからずっと私のことお嬢様って呼んでるわよ」
「ああ、すみません、お姉様。他の人がいる場所だとつい」
夜、フランチェスカが部屋に戻ったロレンツォの腕にしがみつくと、やはり公衆浴場の石鹸の香りがした。
5日後、ミーナは正式にスパイ罪が確定し即時に国外追放された。フランチェスカはそれをロレンツォから聞いた。
その翌日、フランチェスカはアルマと屋敷の居間で待っていた。
やがて玄関のほうから物音が聞こえてきた。パッと立ち上がって居間を出て行くアルマの後をフランチェスカも追うと、玄関ホールで抱き合うアルマとエミリオの姿が見えた。
「アルマ」
「エミリオ」
「やっとおまえと結婚できる。すぐに教会に行こう」
アルマを放したエミリオは、その後ろに立っていたフランチェスカに気づいた。
「何だ、いたのか」
「悪かったわね」
「いや、おまえの大事な妹が結婚するんだ。しっかり見届けてくれ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
アルマは白いドレスに着替えた。
フランチェスカは自分とアルマはあまり体型が変わらないと思っていたのだが、実際にアルマがフランチェスカのドレスを着ると胸回りも腰回りも少し余裕があった。
エミリオは、レースでできたベールとブーケを準備していた。
3人で教会に向かった。場所柄、フランチェスカがロレンツォと結婚した教会に比べて大きく、立派なステンドグラスもある華やかな内装の教会だった。
厳かに執り行われる式を、フランチェスカはひとり見守った。
ロレンツォにすべてを打ち明けていれば彼も一緒に参列していたのだろうかと、フランチェスカは考えた。
式自体はフランチェスカの時と大した違いはなかったが、エミリオは結婚指輪も用意していた。
今までフランチェスカは結婚指輪のことなど考えもしなかったが、指輪の交換をするふたりを眺めていると少しだけ羨ましくなった。
結婚式が終わると、フランチェスカは教会の前でふたりと別れた。幸せそうなふたりを見ているうち、無性にロレンツォに会いたくなっていた。
アパートメントの部屋に帰ったが、ロレンツォが戻るまでにはまだだいぶ時間があった。
フランチェスカは部屋の掃除をしたり、買い物に出たり、公衆浴場に行ったりして夕方までの時間を過ごし、それから夕食を作りはじめた。
フランチェスカが夕食の支度を終えた直後、ようやくロレンツォが帰宅した。ロレンツォは昨日よりもさらに暗い顔をしていた。
「エミリオ殿下が王太子を廃されて、王宮を出されました」
フランチェスカは目を見開いた。
フランチェスカは今頃エミリオがアルマと一緒に幸せに過ごしていると知っている。だが、ロレンツォはそんなことは露ほども知らない。フランチェスカがまだ何も話していないからだ。
今から話してしまおうかとフランチェスカは考えた。
だけど、エミリオのことでロレンツォはこんなに心を痛めているのに、それがすべてフランチェスカとエミリオの仕組んだことだったとわかったらどう思うだろう。
結局、フランチェスカは何も言えずに、ただロレンツォを抱きしめた。




