9 夫婦の休日
ある夜、ふたりでソファに寄り添って座ったところで、珍しくロレンツォがフランチェスカより先に口を開いた。
「明日は休みです」
「では、明日は1日一緒にいられるのね」
フランチェスカは喜びいっぱいでロレンツォの顔を見上げた。
「お友達と約束などはしておられないのですか?」
「ないわ。たとえあったとしてもロレンツォを優先するから大丈夫よ」
「いえ、お友達は大切にしてください」
「今はお友達より明日のことでしょう」
フランチェスカはさっそく翌日の予定を考えはじめた。ロレンツォとは食事と結婚式のためにしか一緒に外出したことがないので、フランチェスカはふたりで出掛けたかった。
翌朝は普段より遅い時間に起き出し、朝食はいつものリゾット店で済ませた。
部屋に戻るとフランチェスカは洗濯物の入った籠を手にした。
「ロレンツォ、お天気が良いから急いでお洗濯だけしてくるわ。少し待っててね」
それだけ言い置くと、フランチェスカは部屋を出て洗濯場まで駆けた。
すっかり顔馴染みになった近所の主婦たちと挨拶を交わしてから、猛烈に手を動かした。
「何だか、今朝はすごい勢いね」
「今日は仕事が休みなので、夫が部屋で待ってるんです」
「あら、そうなの。その後は順調みたいで良かったわね」
「皆さんのおかげです」
洗濯を終えると、フランチェスカはアパートメントに駆け戻った。
「ただいま」
フランチェスカは部屋に戻ると、今度は窓辺に洗濯してきた物を干した。視線を感じて振り返ると、ロレンツォが目を丸くしてフランチェスカを見ていた。
「ロレンツォ、どうかしたの?」
「本当にフランチェスカ様が洗濯をされていたのですね」
別の人がやっていると疑われていたのかと、少しガッカリした。
「当たり前でしょう」
「掃除もですよね」
「私はあなたの許しを得ずにここに人を入れたりしないわ」
フランチェスカが腰に手を当ててはっきり伝えると、ロレンツォはあっという間にシュンとしてしまった。
「申し訳ありません」
その姿が可愛くて、フランチェスカはすぐに自分の不機嫌を窓から投げ捨てた。ロレンツォを1日中愛でて撫で回していたくなったが、せっかくの天気の良い休日にそれは駄目だと思い直す。
でも少しくらいはいいかと、フランチェスカは両手を伸ばしロレンツォの頬を包み込んだ。
「別に怒っていないから、そんな顔をしないで。貴族の娘に家事なんかできないと思うのが普通よ」
「すみません」
ますますロレンツォがしょんぼりとするのを見て、フランチェスカは我慢できなくなった。
「もう」
フランチェスカは背伸びをすると、ロレンツォに口づけた。
朝からこんなことをされてロレンツォはさすがに驚いたようだったが、フランチェスカが離れてからロレンツォを見ると、彼も目を開けるところだった。ロレンツォの様子を窺いつつ、フランチェスカは笑顔で言った。
「さあ、支度をして出かけましょう」
「はい」
頷いたロレンツォの声も表情も明るくなっていた。
フランチェスカとロレンツォはまず近所の雑貨屋でバスケットを購入した。さらにサンドウィッチやアップルパイなども買うとそのバスケットに入れて、少し歩いたところにある公園に向かった。公園はちょうどアルマの屋敷に行く道の途中にあった。
フランチェスカは手を繋いでほしくてロレンツォの手に触れた。ロレンツォがすぐにそれに応えてくれたので、フランチェスカはロレンツォの手をギュっと握りしめた。
公園に着くとしばらくはブラブラと散策した。それから噴水近くのベンチに並んで腰掛け、買ってきた物を食べることにした。
天気は良いが気温はそれほど高くなく、快適だった。
ロレンツォがふいに尋ねた。
「なぜフランチェスカ様は家事ができるのですか?」
当然の疑問だろうとフランチェスカは思い、正直に答えてみた。
「こういう場合に備えて教わっておいたの」
「こういう場合?」
「ひとり暮らしの騎士様に嫁ぐことになった場合」
ロレンツォが目を瞬いてフランチェカを見た。やはり信じてもらえないかと、フランチェスカは笑った。
「ちょっと興味があって、アルマたちに一通り習ったのよ」
これも嘘ではない。興味を持ったのはロレンツォと結婚するために必要だと知ったからだが。
「王宮でお妃教育を受けながらですよね。よく色々なことを同時に身につけられましたね」
ロレンツォは感心したように言った。フランチェスカは胸を張った。
「私、やる時はやるのよ。何にせよ、今こうして役に立っているのだから良かったわ。お料理はまだいまいちだけど」
「フランチェスカ様ならきっとすぐに料理もお得意になります」
ロレンツォがそう言ってくれたので、フランチェスカは嬉しかった。
「もちろんよ」
早くそうなってロレンツォの胃袋を掴むぞと、フランチェスカは密かに決意した。
フランチェスカはアルマに相談しながら少しずつ鍋や道具類などのキッチン用具を揃えていった。フランチェスカはそれらを使って朝夕、部屋で料理をした。
味付けが濃かったり薄かったり、焦がしたり生煮えだったりと失敗ばかりだったが、ロレンツォはいつも全部食べてくれた。
フランチェスカは朝はロレンツォが起きる前に、夜はロレンツォが帰る時間に合わせて食事を用意するようにしていたが、遅れることもしばしばだった。
しかし、そんな時でもロレンツォは大人しく食卓に座って待っていてくれた。フランチェスカが振り返るとロレンツォはむしろ楽しそうにこちらを見ていて、焦るフランチェスカの気持ちを和ませた。
ある日の夕食後、いつものようにソファに落ち着いてからロレンツォが言った。
「この部屋でできたての温かい料理を食べられるなんて、少し前までは思っていませんでした」
「だけど、オーブンがないからお菓子を焼くのは無理ね。またお友達のところで作らせてもらってもいいかしら?」
フランチェスカが上目遣いで伺うと、ロレンツォは答えた。
「私は構いませんが、そのご友人のほうは大丈夫なのですか?」
「ええ、いつでもどうぞって言われているわ」
「ずいぶんご親切な方ですね。私も1度お礼をしたほうがいいでしょうか?」
「それは必要ないと思うけど」
「ああ、そうですよね」
ロレンツォの沈んだような声にフランチェスカがその顔を見れば、何だか落ち込んでいるようだった。どうやら言い方を間違えたらしいとフランチェスカは気づいた。
フランチェスカは手を伸ばして、ロレンツォの髪に触れながら言った。
「お礼が必要な相手ではないって意味だから、勘違いしないでね」
「はい」
ロレンツォが気持ち良さそうに目を閉じたので、フランチェスカは思う存分撫で回した。
気がつけば、結婚してからひと月が経過していた。
ある晩、ソファで寄り添って座ったフランチェスカに、ロレンツォが言いにくそうに口を開いた。
「実は私の母があなたに会いたがっているそうなのですが……」
「私もお会いしたいわ」
フランチェスカが急いで答えたので、ロレンツォは驚いたようにフランチェスカを見つめた。
「本当は、いつ会わせてくれるのかと思っていたの。私は色々あってロレンツォと結婚したから、ご家族に紹介したくないのかなって」
「そんなことはありません。次の休暇にふたりで行くと実家に連絡しておきます。それでよろしいですか?」
「ええ」
そんなわけで次のロレンツォの休暇に、フランチェスカはロレンツォとともにディアーコ子爵家を訪れることになった。
フランチェスカは結婚前に密かに調べていたロレンツォの家族について復習した。
ロレンツォの父は4年前に亡くなっており、10歳上の長兄エドモンドが子爵位を継いでいた。
現在、ディアーコ家の屋敷で暮らしているのはエドモンドと彼の妻、息子と娘、そしてロレンツォの母だ。
8歳上の次兄ブルーノは同じ子爵のロッソ家に婿入りしている。ブルーノもすでに3人の子の父親だった。
ロッソ子爵に婿に選ばれたのがロレンツォではなくて良かったとフランチェスカは思ったが、詳しく調べてみるとブルーノの妻はロレンツォより6つも歳上らしいのでそれも当然のことだった。
そして当日、フランチェスカは意気込んでディアーコ家に向かった。
ふたりを応接室に迎えてくれたロレンツォの母に、フランチェスカは丁寧に挨拶をした。ロレンツォは母親似のようだとフランチェスカは思った。
姑はにこやかに言った。
「話に聞いていた以上にきれいな方ね」
「どうもありがとうございます」
フランチェスカも姑に感じよく見えるよう意識して微笑みを浮かべた。
フランチェスカは姑に対して見栄を張ったりせず正直に話そうと思っていた。嘘を吐いて、もし後で本当のことを知られたら、きっと心証が悪くなる。
「フランチェスカ様にはお気の毒なことでしたけど、ロレンツォがあなたのようなお相手と結婚できるなんてね」
「私こそロレンツォと結婚できて本当に良かったと思っております。お義母様、どうぞフランチェスカとお呼びくださいませ」
「ええ、フランチェスカ。それならいいけど、あんな狭い部屋にふたりで住むなんて、不便ではないの?」
「いえ、今の私たちが住むにはあの部屋でちょうど良いですわ。あまり広いとお掃除も大変でしょうし」
「まさかフランチェスカがお掃除をしているの? まあ、何てこと」
「ロレンツォの妻としては当然のことです」
「もしかして食事の用意なんかもしているの?」
「はい。ですが、まだまだ失敗ばかりで。お菓子作りは得意なのですが」
「あら、そうなの。ロレンツォは甘い物が苦手だから残念ね」
一瞬、フランチェスカの思考は停止しかけたが、すぐに無難な答えを口にした。
「……ええ、そうなんです」
そのまま姑と会話を続けたフランチェスカの横で、ロレンツォが固まっているのがわかった。
姑に見送られて実家を後にすると、フランチェスカはもはや落胆を隠せなかった。アパートメントに帰るために乗合馬車に乗ってからもフランチェスカは黙っていた。
ずっと躊躇っている風だったロレンツォがようやく口を開いた。
「あの、フランチェスカ様」
フランチェスカはロレンツォを睨んだ。
「どうして言ってくれなかったの? あなたがお菓子が嫌いだとわかっていたら、あんなに作らなかったのに」
いつもロレンツォが美味しいと言ってくれて嬉しかったから一生懸命お菓子作りの腕を上げたのに、あの言葉が全部嘘だったとわかりフランチェスカは哀しかった。
「嫌いなわけではありません。苦手なだけですから、食べられます」
ロレンツォが言うのに、フランチェスカはそっぽを向いた。
「無理に食べてもらうつもりはないわ。もう作らないから安心して」
「いえ、これからも作ってください。あなたが作ってくださる物は私にとって特別なので、もう食べられないのは嫌です」
ロレンツォが必死な声を出すので、フランチェスカはついロレンツォを見てしまった。
「本当に?」
「本当です。それに私はあなたが料理をする姿を見るのが好きなので、いつかもっと広いキッチンのある立派な家に住めるようになったらあなたがお菓子を作るところも見たいと思っています。だから、作るのをやめないでください」
フランチェスカは料理する自分を見つめるロレンツォの姿を思い浮かべた。好きというのは嘘ではなさそうだ。
ということは、ロレンツォの口から出たいつか住む家の話も彼の本心だと、ロレンツォはフランチェスカと一緒に向かえるずっと先の将来のことまできちんと考えてくれているのだと、信じていいだろうか。
「わかったわ。でも、今後は苦手なものは苦手ってちゃんと言ってね。約束よ」
「はい」
ロレンツォが安堵したように頷いた。フランチェスカも思わず笑みを漏らした。
フランチェスカは先ほど会ったロレンツォの甥と姪を思い出した。広い家で暮らす頃には、自分たちにも子供がいるに違いない。
想像するうちフランチェスカはロレンツォに抱きつきたくなったが、他人の目がある乗合馬車ではさすがにできないので、代わりにロレンツォの手をしっかりと握った。




