8 幸福な時間
翌朝も気まずい空気は続いた。
ずっとこのままだったらどうしようと、フランチェスカは不安で堪らなかった。
アルマの屋敷には行かず、フランチェスカは洗濯と掃除に精を出した。
夕方になると、ロレンツォは今日もフランチェスカの待つ部屋にちゃんと帰ってきてくれるだろうかと心配だった。
だが、いつもより少し早いくらいの時間に部屋の扉が叩かれ、「私です」というロレンツォの声が聞こえた。
フランチェスカは安堵し、急いで鍵を外して扉を開けた。自然と笑顔が溢れた。
「ロレンツォ、お帰りなさ、い」
言いながら、フランチェスカはロレンツォの後ろに父が立っていることに気づいて固まった。
どうしてロレンツォは父を伴っているのだ。まさか、父に自分を連れて帰らせるつもりなのだろうか。
だが、フランチェスカは実家に帰るつもりなどなかった。フランチェスカは動揺を抑えて、父に向かい微笑んでみせた。
「まあ、お父様。そう言えば今日お帰りでしたわね。お疲れでしょうにわざわざこちらまでいらっしゃるなんて、いったいどうなさいましたの?」
フランチェスカの言葉を聞いて、父の顔が引き攣った。父と向き合えば喧嘩腰になってしまうのが常だし、「お父様」と呼んだことは数えるほどしかないのだから当然の反応だろうか。
父のほうもいきなり怒鳴りつけたりはせず、抑えた声で言った。
「おまえこそ、こんなところで何をしているんだ」
フランチェスカはロレンツォに近寄ると、父に見せつけるようにその両腕をロレンツォの腕にしっかりと絡めた。
「私はエミリオ殿下の命でロレンツォと結婚しました。ですから、ここにいるのですわ」
ロレンツォからは見えない位置で、フランチェスカは警戒する視線を父に向けた。ロレンツォの前でおかしなことを口にしたら許さない、と牽制する。
「歳下の騎士を騙してままごと遊びに付き合わせるような真似をして恥ずかしくないのか?」
やはり、父には婚約破棄がエミリオの独断ではないと気づかれたようだ。
「ままごと遊びなどではありません。私は本気です」
「おまえの本気など、さらに迷惑だ」
「お父様は私を早く片付けたかったのではございませんか? お望みどおりになったのですから喜んでくださいませ」
「我が家の恥を世間に晒すことを喜べるか。大人しく修道院に入れば良かったものを」
ふたりの言い合いを落ち着かぬ様子で見ていたロレンツォに、父が目を向けた。
「おまえはどうなんだ? 突然こんな娘を押しつけられて、困っているのだろう。おまえはまだ若いのだし、将来有望な騎士だと聞いた。1度くらいの離婚歴など大して問題にはなるまい」
「私はロレンツォと離婚するつもりはありません」
フランチェスカがカッとなって叫ぶと、父も怒声を出した。
「おまえには聞いてない」
ずっと黙ったままだったロレンツォが、ふいに父のほうをまっすぐ見て言った。
「私は、フランチェスカ様にここにいていただきたいと思っております。私などがフランチェスカ様のおそばにいるのは相応しくないと承知しておりますが、我が命を賭けてお守りいたします」
ロレンツォの言葉に、フランチェスカは感激した。
「ロレンツォ」
フランチェスカはロレンツォの腕にさらに強くしがみついた。
父は目を細めてロレンツォを見つめていたが、やがて溜息を吐いた。
「わかった。おまえたちの好きにすればいい。だが、この部屋は夫婦で住むには狭いのではないか? もっと広いところを探せ。金なら出そう」
フランチェスカはきっぱりと答えた。
「お父様の援助など要りません。どうぞお帰りください」
「ああ、そうする。邪魔したな」
父はさっさと外に出て行った。扉が閉まると、ロレンツォが言った。
「宰相閣下をお見送りしてきます」
父がロレンツォに何か余計なことを言わないかと心配だったが、フランチェスカはロレンツォの腕を放した。ロレンツォは急いで部屋を出て行った。
フランチェスカはソワソワしながらロレンツォを待った。
少したって扉の開く音が聞こえると、フランチェスカはすぐにそちらに駆け寄った。
「ロレンツォ」
戻ってきたロレンツォの顔を見ると、フランチェスカは堪えきれず彼に飛びついた。
「ありがとう、ロレンツォ」
「い、いえ」
ロレンツォがあたふたした様子で返した。
「昨日、あなたを怒らせてしまったから、私といるのが嫌になったのではないかと不安だったの」
フランチェスカが正直に伝えると、ロレンツォはフランチェスカを柔らかく抱きしめてくれた。
「あれは私が悪かったのです。私がこんな器の小さな男だとわかって、フランチェスカ様はお父上と一緒に出て行ってしまうだろうと思っていました」
「私がここを出て行くはずないわ。でも、あなたに不満がないと言ったのは嘘よ」
「何でも言ってください」
ロレンツォが早口に言ったので、フランチェスカは顔を上げてロレンツォを見つめた。
「また呼び方がフランチェスカ様、に戻っているわ」
ロレンツォの目が瞬いた。
「すみません、フランチェスカ様……、いや、フ」
ロレンツォが言い直そうとするのを、フランチェスカはロレンツォの唇を指で塞いで止めた。ロレンツォの目が丸くなり、頬が赤く染まった。可愛い。
「今はまだロレンツォが呼びやすいほうでいいわ。毎回、2度繰り返すのは大変でしょう。だけど、いつかはフランチェスカと呼んでね」
本当のことをいえば、フランチェスカはロレンツォが間違えて言い直すために毎回2度名を呼ばれるのが、特別なおまけを貰っているようで嬉しかった。だが、ロレンツォのために我慢する。
ロレンツォはゆっくりと頷いた。フランチェスカは指をロレンツォの唇から頬に移した。
「それから、もう一つ」
「はい」
これも正直に告げてしまおうと、フランチェスカは決めた。
「夜は私と一緒にベッドで寝て」
「そ、れは……」
「何もしなくていいの。ただ、ひとりで寝るのは寂しいから……」
「……わかりました」
ロレンツォがそう言ってくれたのでフランチェスカは微笑み、指で触れていないほうの頬にそっと口づけた。
その夜、ロレンツォは約束どおりフランチェスカとともに寝室に入った。
ベッドで仰向けになって目を閉じたロレンツォを、フランチェスカは隣で横向きになってジッと見つめた。
ふたりの体は触れ合ってはいないが、ロレンツォの体温は感じられるくらいの距離だった。フランチェスカはその距離を詰めた。
ロレンツォに「何もしなくていい」と言ったのはフランチェスカだが、ベッドに入った途端に寝てしまうなんてつまらない。
「ロレンツォ」
フランチェスカが静かに呼びかけると、ロレンツォは目を開けて戸惑いの浮かぶ顔をこちらに向けた。
フランチェスカはさらに身を寄せると、先ほどと同じようにロレンツォの頬に唇で触れた。1度離れてロレンツォの表情を窺ってから、今度はロレンツォの唇に自分の唇を重ねた。
何度か角度を変えながら啄むような口づけを繰り返していると、ロレンツォがフランチェスカの背に腕を回してきた。
体が密着したことで、ロレンツォがフランチェスカに女としての魅力を感じていないわけではないことがわかった。
ロレンツォは口づけの先に進むだろうかとフランチェスカは様子を伺うが、彼にそのつもりはないようだった。フランチェスカは気づかぬ振りでロレンツォの顔を見た。
「お休みなさい、ロレンツォ」
「お休みなさいませ」
安心したような表情でロレンツォは再び目を閉じた。フランチェスカも穏やかな気持ちで眠りについた。
それから毎晩、ロレンツォはフランチェスカの隣で寝てくれた。
ベッドの中でフランチェスカがロレンツォに口づけようが、抱きつこうが、髪や顔に触れようが、ロレンツォは嫌がる様子を見せずされるがままだった。
朝、ロレンツォの可愛いらしい寝顔を見つめるのはフランチェスカにとって至福の時間だった。だが、起きているロレンツォに手を伸ばして恥ずかしそうな彼の反応を見られることも眼福だった。
フランチェスカはベッドの外でもロレンツォに触れたいという自分の気持ちに素直に行動するようになった。
部屋に帰ったロレンツォを迎えると、フランチェスカは彼の腕に自分の腕を絡めた。
ソファに並んで座る時にはフランチェスカはロレンツォの体に寄りかかるようにして腰を落ち着けた。ロレンツォが抱き寄せてくれないかチラと期待したが、そうしてもらえずガッカリする前にロレンツォの腕をしっかりと抱きしめた。
ロレンツォのほうから動いてくれないことにフランチェスカがまったく不満を感じないわけではない。しかし、こちらからは何もせずにロレンツォが手を出してくれるまで待つなんてことがフランチェスカにできるはずもなかった。
そして、ロレンツォに下手なことを言って今の関係を壊したくもなかった。
数日ぶりにアルマのところに出かけると、エミリオと顔を合わせた。
「また来てるの?」
「ロレンツォに迷惑かけないようにすればいいんだろ。ミーナの妃教育が始まって毎日顔を見なければならないんだ。アルマに少しでも会って癒されたい」
「まあ、癒しは大事よね」
「毎日好きな男に会えるおまえが羨ましいよ」
「でも私は片想いだし」
「まだそんなこと言ってるのかよ。あいつは隠し事ができなそうだからミーナのことはまだ黙ってたほうがいいが、他は全部話しても構わないぞ。その結果あいつが感動するか、引くかはわからないが」
「そう言えば、この前ロレンツォは私に休みだってことを隠してひとりで出かけたみたい」
「へえ。おまえに気づかれるようでは駄目だな」
「妻の勘というのかしらね、匂いでわかったのだけど」
「それは野生の勘と言うんじゃないか」
「うるさいわね」
「何にせよ、あいつは馬鹿ではないから、ミーナが捕まればおそらく全部話さなければならないぞ」
「わかってるわよ」
フランチェスカがムスッとすると、エミリオはフンと笑った。
「おまえはロレンツォの前だと本当に別人だな。宰相も驚いてたぞ」
「私にはロレンツォしかいないもの。ロレンツォにも絶対に私を好きになってもらうんだから」
フランチェスカはギュっと拳を握りしめた。
それまでフランチェスカはアルマを訪ねた時には屋敷で風呂を使わせてもらっていた。しかしロレンツォが知ったら嫌がるかもしれないので、この日は借りずに帰ることにした。
その代わり、フランチェスカはアルマとの下見の時に見つけていた公衆浴場に初めて行ってみた。
そこの洗い場に置かれた石鹸を手にした時、その香りに覚えがあることにフランチェスカは気づいた。
(なるほど、あの日はロレンツォもここに来たのね)
ロレンツォがフランチェスカの知らない誰か、特に女の人の家で風呂を借りたのではなかったようで安心した。同時に、やはりしばらくはアルマのところで風呂を使うのはやめておこうとフランチェスカは思った。




