7 新婚生活の悲喜
その夜、夕食は外で済ませて部屋に戻ると、フランチェスカは先にソファに座ったロレンツォの隣に腰を下ろした。
正式に結婚したのだから、今夜はふたりにとって初夜だ。ロレンツォはどうするつもりだろうとフランチェスカは気になっていた。
フランチェスカはロレンツォの横顔を見つめたが彼の表情は固く、フランチェスカの方を向いてもくれなかった。
(少しくらいこっちを見て)
フランチェスカは念じるように心の中でロレンツォに向かって訴えた。それが通じたのか、ロレンツォがふいにフランチェスカを見た。
ロレンツォの視線を逃すものかとフランチェスカは彼の瞳をグッと覗き込んだ。それに応じるようにロレンツォの顔が近づいてきた。
ロレンツォの瞳が瞼に隠れて見えなくなり、次の瞬間フランチェスカの唇にロレンツォの唇がそっと触れた。今度はフランチェスカも目を閉じるだけの時間があった。
ロレンツォが離れる前に、フランチェスカはロレンツォの手を握った。ロレンツォも握り返した。
フランチェスカがソファから降りてロレンツォの手を軽く引くと、ロレンツォも立ち上がった。そのまま、ふたりで寝室に入った。
ベッドの上で再び口づけを交わすと、それはどんどん深いものになっていった。
フランチェスカは妃教育で習った閨の知識を思い出そうとしたが、無理だった。ただ、自分を抱きしめているロレンツォの力強さを感じることだけで頭の中はいっぱいだった。
堪らず、フランチェスカはロレンツォの服に手をかけた。ロレンツォもフランチェスカを真似るように動いた。
フランチェスカはロレンツォの細身だがしなやかな筋肉のついた逞しい体に夢中で手を這わせた。
だが、ロレンツォの手が唐突にフランチェスカの肌から離れていった。
「すみません」
そう口にしたロレンツォの声は消え入るように小さく、泣きそうな顔をしていた。フランチェスカはロレンツォの体の事情を理解し、残念に思った。
しかし、すっかり悄げているロレンツォもまた可愛くて、フランチェスカの体の先ほどまでとは別のところがキュンとした。フランチェスカは愛しさのままにロレンツォを抱き寄せた。ロレンツォは大人しくフランチェスカの腕の中に収まった。
今夜はこれでいいとフランチェスカは思ったのに、しばらくするとロレンツォはベッドを出て行こうとした。
「ロレンツォ、今日くらい朝まで一緒にいて」
フランチェスカが引き止めると、ロレンツォは黙ってベッドの中に戻ってくれた。フランチェスカは寝ている間にロレンツォが逃げ出さないよう、その体をしっかりと捕らえた。
翌朝、フランチェスカが目を覚ますと目の前にロレンツォの寝顔があった。
もう夫婦なんだし構わないだろうと、フランチェスカは衝動のままにロレンツォの頬に触れた。ロレンツォが起きる様子はないので、さらに鼻や唇、こめかみ、睫毛に前髪とあちこち触れていった。
(うう、可愛い。幸せ。可愛い)
そうしているうちにロレンツォが目を開けたので、フランチェスカは慌てて手を引っ込めた。
洗濯場でロレンツォの下着を洗いながら、フランチェスカは溜息を吐いた。仕事に向かうロレンツォは普段どおりのようでいて、どこかぎこちなかった。昨夜のことを気にしているに違いない。
自分が我を忘れてグイグイいってしまったせいでロレンツォは逆に引いてしまったのだろうか。それとも、やはりロレンツォは自分のことをそういう風には見られなかったのだろうか。
「フランチェスカさん、今朝はどうしたの? 騎士様と喧嘩でもした?」
一緒に洗濯をしていた女性たちのひとりがフランチェスカに尋ねた。
「喧嘩ではないのですが……」
「新婚なんだから、早く仲直りしちゃいなさいよ」
「そうそう。夕食に騎士様の好きな物を作って、その後はベッドの中で可愛いがってもらって、ね」
周囲で女性たちがウフフと笑った。
(そのベッドの中が問題なんだけど。可愛いのはロレンツォのほうだし)
アパートメントに戻って掃除をしながらも、フランチェスカは考えた。
(ロレンツォの好きな物って何かしら? 私の作ったお菓子はいつも美味しいって食べてくれたけど。夕食に出した物も何でも食べるわよね。あ、トマトは好きそう)
ほぼ毎朝通うリゾット屋でフランチェスカは色々試しているが、ロレンツォが頼むのは決まってトマトリゾットだ。
フランチェスカはアルマの屋敷に向かった。アルマに相談し、屋敷のキッチンを借りてチキンのトマト煮を作った。
やはり味付けをしながら何度も味見をした結果、途中からよくわからなくなってしまった。見た目は悪くないが、ちょっとしょっぱいかもしれない。
それを部屋に持ち帰り、他にもパンなどを食卓に揃えてロレンツォの帰宅を待った。
ようやくロレンツォが帰ってくると、フランチェスカは両手でしっかりとロレンツォの手を取り、食卓まで引っ張っていった。
食卓に着いたロレンツォの前に、フランチェスカはチキンのトマト煮を置いた。
「今日はいつもと違う店で買ってみたの。あなたの口に合うといいのだけれど」
ロレンツォの正直な感想を聞くために、フランチェスカはそう言った。
ロレンツォはフォークを手にすると、チキンを口に運んだ。フランチェスカはドキドキしながらロレンツォを見つめた。
「どう?」
「塩辛いです」
「そう」
フランチェスカはがっくりと肩を落とした。ロレンツォは首を傾げ、それから言った。
「もしかして、フランチェスカ様……、フランチェスカが作られたのですか?」
「どうしてわかったの?」
フランチェスカは目を見開いた。
「最初のクッキーの時と同じ反応だったので」
ロレンツォがすまなそうな顔をしたので、フランチェスカはロレンツォを目で制した。
「今回は謝ったりしないでね。私はロレンツォの素直な感想を聞きたかったのだから」
「はい。ですが、どこで料理をされたのですか?」
「友達の家でキッチンを借りたの」
「この前、花瓶をくださったという方ですか?」
「ええ。本当はここで作って、できたてを食べてほしかったのだけど」
フランチェスカが上目遣いにロレンツォを見つめると、ロレンツォはその意味を正確に理解してくれた。
「あの、もしフランチェスカさ……、フランチェスカがそうしたいならキッチン用具を買い揃えてくださって構いませんが」
「いいの?」
「はい。今度、必要な金額を教えてください」
「ありがとう。次はもっと美味しいものを作るわね」
「楽しみにしております」
フランチェスカはチキンのトマト煮を下げようとしたが、ロレンツォは残さず食べてくれた。フランチェスカはロレンツォの優しさが嬉しかった。
就寝の時間になると、ロレンツォは毛布を手にしてソファに腰を下ろした。
(今夜も一緒に寝たいけど、あまり強引に行って逃げられるのは嫌だわ)
フランチェスカが迷っているうちに、ロレンツォが言った。
「お休みなさいませ」
「お休みなさい」
仕方なくフランチェスカはひとりで寝室のベッドに入ったが、昨夜、ロレンツォの体温を感じて眠りについたことを思い出し寂しくなった。
ロレンツォも寂しく感じて寝室に来てくれないかとフランチェスカは思ったが、扉が開くことはなかった。
翌日、フランチェスカは玄関先でいつもどおりにロレンツォを見送った。だが、フランチェスカは向き合ったロレンツォの様子にどことなく違和感を感じた。
ロレンツォは緊張しているように見えた。王宮で何かあるのだろうか。それにしても、どうして目を合わせてくれないのだろう。
フランチェスカは洗濯だけ終えると、アルマのもとを訪れた。この日もキッチンを借りて、久しぶりにクッキーを焼く予定になっていた。
フランチェスカはアルマとともに街に出て、クッキーの材料を買った。
「エミリオが、お姉様に何か欲しい物があったら結婚のお祝いとして買っていいと言ってましたよ」
「だったら、茶器がいいわ。クッキーと一緒に美味しい紅茶を出してあげたいから」
「最近のお姉様はロレンツォ様のことばかりですわね」
「私はロレンツォの妻ですもの」
いくつかの店を回り、フランチェスカの好みに合う茶器を見つけた。
それから屋敷に戻り、クッキーを焼いた。満足のいくできだった。
夕方になって部屋に戻ったロレンツォを迎えながらフランチェスカは首を傾げた。いつもと纏っている香りが違う。
普段のロレンツォは騎士団詰所にある風呂を使ってから帰ってきていた。今日は別の風呂を使ったのだろうか。
いったいどこで。そしてなぜ。
ふと、フランチェスカは気づいた。そろそろロレンツォは休暇があってもおかしくないはずだ。今朝の様子がおかしかったことも考え合わせると、もしかして今日がその日だったのではないか。
せっかく1日中一緒にいられるはずだったのに、それを黙っているなんて酷い。
しかし、フランチェスカはそれを顔には出さなかった。ロレンツォと気まずくなりたくない。
夕食後にフランチェスカは紅茶とクッキーをロレンツォの前に出した。
「お友達のお家で焼いたの。たくさん作ったからたくさん食べてね。それから、この茶器は貰ったの」
フランチェスカは努めてにこやかに言った。しかし、ロレンツォの顔が歪んだ。
「フランチェスカ様、欲しい物や必要な物があるなら私に仰ってください。確かに私の稼ぎではあなたの望む物を全て差し上げられるかはわかりませんが、できる限りのことはいたします。ですから、そのようにご友人から恵んでもらうようなことはやめてください」
フランチェスカは目を見開いた。
今までにロレンツォがたびたび暗い顔を見せたのも、そういう理由だったのか。自分は無意識のうちにロレンツォを傷つけてしまったのだ。だから、休暇を一緒に過ごしてくれなかったのだろう。
「ごめんなさい。私はそんなつもりではなかったの。でも、あなたが嫌ならもうやめるわ」
フランチェスカは咄嗟に謝ったが、ロレンツォは俯いてしまった。
「こちらこそ申し訳ございませんでした。フランチェスカ様のような方がこんな場所で暮らさなければならず、しかも夫が私なのですからご不満を感じるのは当然のことです」
「私は不満など何もないわ。ただ妻としてあなたに色々してあげたいだけなの」
「……ありがとうございます」
そう言ったロレンツォの声は頑なだった。
ふたりでクッキーを食べ、冷めてしまった紅茶を飲んだが、会話はまったく弾まなかった。




