6 妻としての決意
翌日もロレンツォを送り出すと、フランチェスカは満を持してロレンツォの下着類を持って洗濯場に向かった。
他の女性たちの目の前でロレンツォの物を洗うことに、フランチェスカは優越感を感じた。
(わたし、今すごく妻っぽいわ)
居間を掃除した後で、フランチェスカは部屋を出た。向かったのは、エミリオが街中に用意した屋敷だった。
アルマが昨日でヴィオッティ家のメイドを辞めて、その屋敷に移っているはずだった。
ロレンツォの部屋から決して近くはないが、フランチェスカの足なら充分歩ける距離だ。
屋敷に着くと、アルマが嬉しそうに笑って迎えた。
「お嬢様、いらっしゃいませ」
「もうメイドではないんだがら、その呼び方はやめてよ」
「はい、お姉様。とにかく、中に入ってください」
フランチェスカが居間のソファに落ち着くと、アルマが紅茶を出してくれた。
「まだあなたが淹れてるの?」
当分はアルマひとりでここに暮らすことになるが、エミリオはアルマのためにメイドを数人雇ったはずだ。
「人に何かをしてもらうのは慣れなくて」
「駄目よ、早く慣れなきゃ」
「お姉様はどうですか?」
「もちろん私はロレンツォのためにしっかり働いているわよ。キッチン用具がないから食事は作れないけど、洗濯と掃除は今日もして来たわ」
「では、ロレンツォ様とはうまくやっていらっしゃるのですね。あの方とご結婚できて本当に良かったですわね」
アルマの言葉にフランチェスカは唇を尖らせた。
「結婚はまだよ」
「え?」
「そのつもりはないと言われたの」
「そんな」
「今はそばにいて、ロレンツォのために色々してあげられるだけでいいわ。そのうちロレンツォのほうから結婚してほしいと言わせてみせるけど」
「ええ、その意気ですわ」
フランチェスカは紅茶を飲みながら、居間の中を見るともなしに眺めた。
ここだけでロレンツォの部屋と同じくらいの広さがあるだろうか。座り心地の良いソファにフワフワの絨毯、厚手のカーテンなどはフランチェスカの実家には敵わずとも、ロレンツォの部屋とは比べ物にならないほど豪華だ。
もっとも、フランチェスカはあの部屋にロレンツォさえいれば何の問題もなかった。ただ、フランチェスカの前でどこか暗い顔をするロレンツォに、笑ってほしい。
「花でも飾ってみようかしら。でも、私たちの部屋に大きな花瓶では邪魔ね」
壁際の花瓶を目にして、フランチェスカは呟いた。
「それならば、使っていない花瓶の中に小さなものがありますから、お持ちになりますか?」
「いいの?」
「エミリオもお姉様なら構わないと思いますわ」
アルマが持ってきてくれた花瓶は小さくてシンプルなデザインで、食卓に置いたらちょうどよさそうだった。
フランチェスカはアルマに礼を言って、その花瓶を持ち帰った。アパートメントの近所の店で夕食の買い出しをするついでに、花屋でかわいらしい花も購入した。
夜、帰宅したロレンツォが居間を見て驚きの声をあげた。
「まさかフランチェスカ様が掃除されたのですか?」
ロレンツォが気づいてくれたので、フランチェスカは嬉しくなった。
「もちろん、そうよ」
しかし、ソファの上に畳んで置いた下着などを見ると、ロレンツォの顔がこわばった。
「フランチェスカ様、洗濯は金を払えばやってくれる主婦が近所におりますので……」
フランチェスカは目を剥いた。休みの日に自分で洗濯しているのだと思っていたのに、まさか他の女が洗っていたなんて。もしかして、洗濯場で会った女性たちの誰かだろうか。
何にせよ、もう他人にロレンツォの下着を洗わせるわけにはいかなかった。
「私がいるのに他の人に頼む必要などないわ」
フランチェスカがはっきりそう言うと、ロレンツォは口を噤んだ。
フランチェスカが食卓の真ん中に飾った花にもロレンツォは気づいた。
「この花瓶はお友達に貰ったのよ」
「友達ですか?」
「昼間、会いに行ってきたの」
喜んでくれるかと思ったのに、ロレンツォはまた沈んだ顔をした。
それから2日後の午前中、フランチェスカがアルマを訪ねると、屋敷にはエミリオもいた。
「ちょっと、あなたがここで何をしてるのよ?」
「ここはわたしの家だぞ」
「だとしても、あなたが王宮にいなかったらロレンツォが困るじゃない。ロレンツォが叱られるようなことはしないでよ」
エミリオは昔からフランチェスカについて王宮に行ったアルマにこっそり会うためによく護衛を巻いていたが、王宮の外にまで出ることはなかったはずだ。
「あいつは今頃訓練中だから大丈夫だ。それよりも、おまえ、ロレンツォに結婚を拒まれたんだってな」
エミリオがフンと笑ったので、フランチェスカはムスッとした。
「一緒に暮らしてるんだから、実質的にはもう妻よ」
「何が実質的にはだよ。あいつのことだから、どうせ手も出されてないんだろ。さっさとおまえから告白しろよ」
「まだロレンツォにとって私はエミリオの婚約者のままなんだと思う。だからあの人にはちゃんと私自身を見て、その上で好きになってほしいの」
「ずいぶん殊勝だな。おまえらしくない」
「私は気長にロレンツォを待つから、気にせずあなたたち先に結婚しなさいよ」
「もちろん、そうするさ」
エミリオはそう言ったが、すぐにアルマが口を開いた。
「いいえ、そんなことはしません。私は結婚式でお姉様のドレスを着るのです。お姉様より先に着るなどありえません」
「フランチェスカのを着なくてもドレスくらい作ればいいだろ」
「私はもうあのドレスを着ると決めました」
アルマがきっぱり言うのに、エミリオが嘆息した。
「ああ、わかった。ロレンツォにフランチェスカとすぐに結婚してやれと言って帰らせるから、おまえも帰って準備しとけ」
フランチェスカは顔を顰めた。
「ロレンツォに無理強いするのは嫌よ」
「もともと無理矢理あいつの部屋に入り込んだのはおまえだろ」
「そうだけど……」
「だったらきっちり責任取って、正式な妻としてこれからずっとあいつの面倒を見てやれ。何があっても投げ出すなよ」
「私がそんなことするはずないでしょ」
エミリオに言われるまま、フランチェスカはアパートメントの部屋に帰った。
寝室で、結婚式のために用意していた白いドレスを取り出し、よくよく検分する。とうとうロレンツォのためにこれを着るのだと思うと、やはり悦びが湧いてきた。
できれば隣に立つロレンツォには騎士服を着てほしい。1着だけ寝室のクローゼットに入っているのはすでにフランチェスカは確認済みだ。だがこんな形での結婚で、果たしてロレンツォが騎士服を着てくれるだろうか。
しばらくして部屋に帰ってきたロレンツォは顔色が悪く、フランチェスカは心配になってしまった。エミリオは何か酷いことをロレンツォに言ったのではないか。
「どうしたの、ロレンツォ? 具合でも悪いの?」
ロレンツォはうつむき気味に首を振った。
「私たちが結婚していないことが殿下に知られてしまいました。明日、婚姻証明書を見せなければあなたを修道院に送るそうです。陛下がお帰りになるまで隠しておければどうにかなると思っていたのですが、私の考えが甘かったです。申し訳ありません」
ロレンツォが頭を下げて謝るので、フランチェスカは申し訳なくなった。
「ロレンツォ」
フランチェスカが呼ぶと、ロレンツォがようやく顔を上げた。
「あなたが私に謝る必要なんてまったくないのよ。私は初めからそのつもりだったのだから」
ロレンツォは眉を寄せ、傷ついたような顔でフランチェスカを見つめた。
「私は喜んでロレンツォの妻になるわ。だけど、もしあなたにそのつもりがないのなら、私は今から修道院に行っても構わないのよ」
フランチェスカは本心からそう言った。ロレンツォと結婚できないなら、修道院に入った方がましだ。
「それは駄目です」
ロレンツォが夜会の時のように声をあげた。フランチェスカは縋る思いでまっすぐにロレンツォを見つめた。
「それならば、私の夫になってくれる?」
ロレンツォは1度口を開いたが何も言わず、ただコクリと頷いた。涙が一粒その頬を伝い、フランチェスカは咄嗟にそれを指で拭った。
「ありがとう、ロレンツォ」
やはりロレンツォにとっては泣きたいほどに不本意な結婚なのだと、フランチェスカは哀しくなった。
フランチェスカは寝室で白いドレスに着替えた。結婚を望んでいないロレンツォがこのドレスをどう思うかと少し不安だった。
「ウェディングドレスではないけれど、これでいいかしら?」
ソファに座って待っていたロレンツォは、ポウッとした顔でフランチェスカを見上げた。
「はい。とても綺麗です」
フランチェスカはロレンツォが気に入ってくれたらしいので、安堵した。
ロレンツォが慌てたように立ち上がった。
「すみません。私もすぐに着替えます」
「それならば、騎士服がいいわ。あれがあなたの正装でしょう。ここには置いてないの?」
「予備があります」
「では決まりね」
ロレンツォはすぐに寝室で騎士服に着替えた。居間に戻ったロレンツォの姿をフランチェスカは改めてジックリ見つめた。
「やっぱりロレンツォは騎士服姿が一番素敵ね」
「ありがとうございます」
ロレンツォが恥ずかしそうな顔をした。
ロレンツォとフランチェスカは並んで近所の教会までの道を歩いた。途中の花屋でロレンツォが小さなブーケを買ってくれた。
教会の神父はにっこりと笑ってふたりを迎えると、すぐに式を挙げてくれた。
神父の前でフランチェスカとロレンツォは永遠の愛を誓った。
神父に口づけを促され、フランチェスカはロレンツォと向き合った。ロレンツォの困ったような表情を見上げながら、フランチェスカは期待に胸をときめかせた。
ロレンツォがフランチェスカの両肩に手を置いたかと思うと、ほんの一瞬だけロレンツォの唇がフランチェスカの唇に触れた。
目を閉じる間もないほど短くても、それは紛れもなくフランチェスカにとって初めての口づけだった。フランチェスカが嬉しさを押さえきれずにいると、ロレンツォも微笑んでくれた。
その顔を見つめながら、フランチェスカは絶対にロレンツォを幸せにしようと固く決意した。
部屋に帰って部屋着に着替えてから、フランチェスカはロレンツォを見上げて言った。
「ロレンツォ、今度こそフランチェスカと呼んでちょうだいね」
「はい、わかりました、フランチェスカ様。あ、いや」
頷いたくせに言い間違えるロレンツォをフランチェスカが思わず睨むと、ロレンツォはゆっくりと言い直した。
「……フランチェスカ」
フランチェスカは満足して笑った。




