5 仮妻の仕事
翌朝、目覚めるといつもと違う景色が見えて、フランチェスカは自分がロレンツォの部屋にいることを思い出した。
フランチェスカは慌てて起き出し部屋着に着替えると、静かに寝室を出た。
居間のソファではまだロレンツォが眠っていた。朝の光で部屋の中が明るい分その寝顔がよく見えて、フランチェスカはホウと息を吐いた。
だが、ロレンツォが「んん」と唸りながら寝返りをうったので、フランチェスカはドキリとして慌ててソファから離れた。ロレンツォの顔を眺めてばかりいないで、彼が起きる前に朝食を作らなければ。
しかしキッチンに行っても、あるのは昨夜湯を沸かすのに使ったらしい鍋だけだった。目についた扉や引き出しを手当たり次第に開けてみても、何も見つからなかった。
「フランチェスカ様、何をなさっているのですか?」
ふいに後ろから眠そうなロレンツォの声がして、フランチェスカは振り返った。ロレンツォはソファの上に起き上がってこちらを見ていた。寝起きの顔がやはり可愛い。
フランチェスカは自分が大きな音を立ててしまっていたことに今さら気がついた。
「おはよう、ロレンツォ。起こしてしまってごめんなさい。朝食を作ろうと思ったのだけど、道具や食材が見つからなくて」
「それなら、この部屋には何もありません。食事はすべて外で済ませていますから」
「あら、そうだったの」
ロレンツォのために食事を作ることができないとわかり、フランチェスカはがっかりした。
ロレンツォは何か考えている様子だったが、やがて口を開いた。
「身支度をして、朝食を食べに出ましょう」
「ええ」
フランチェスカはすぐに寝室で外出用のドレスに着替えた。今まで王宮でロレンツォに会う時に着ていたよりもずっとシンプルなドレスだ。ロレンツォがどう思うかと気になった。
だが居間に戻ると、ロレンツォの反応よりも気になるものがフランチェスカの目に映った。騎士服に着替えたロレンツォの髪の毛がピョンと跳ねていたのだ。
フランチェスカはロレンツォに近づいた。ロレンツォの髪に触れる口実ができたことに、顔がにやけてしまいそうになった。
「騎士様、髪に寝癖がついたままですよ」
言いながら、フランチェスカはロレンツォの髪を撫でた。想像よりも柔らかい。
「あ、すみません」
ロレンツォが恥ずかしそうに頬を染めた。
フランチェスカは寝癖が落ち着いてからも、ロレンツォの髪をしばらく愛で続けた。
フランチェスカはロレンツォと連れだって外に出た。以前アルマと歩いた時は多くの人が行き交っていたが、今はまだ早い時間なので通りを歩く人は少なかった。
他人の目から自分たちは夫婦に見えているだろうかと、フランチェスカは考えた。
「ここは昼にはサンドウィッチを売ります。そちらはピザ屋。店内で食べることも、持ち帰ることもできます。それから……」
ロレンツォはゆっくりと歩きながら通り沿いにある店の説明をしてくれたが、なぜか食べ物を扱う店ばかりだった。
やがてロレンツォが一軒の店の前で足を止めた。
「ここはリゾットの店なのですが、このとおり早くから開いているので私はよく利用しています。ここでよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
店内に入るとロレンツォは空いていた席に先にフランチェスカを座らせてから、自身も向かいに腰を下ろした。
「どれにいたしますか?」
ロレンツォがフランチェスカに尋ねた。壁に貼られたメニューを見ると、ずいぶん色々な種類があるようだった。とりあえず、フランチェスカはロレンツォの好みを知りたかった。
「よくわからないから、あなたと同じものでいいわ」
フランチェスカがそう言うと、ロレンツォはトマトリゾットを2つ注文した。リゾットがでてくるまで、あまり時間はかからなかった。
フランチェスカは昨夜の夜会ではあまり食べられなかったものの、今までずっと胸がいっぱいだったために忘れていた空腹を感じた。
フランチェスカはさっそくスプーンを手に取ると、リゾットをすくって口に運んだ。優しいトマトの酸味が朝の空腹に染みた。
「いかがですか?」
ロレンツォが心配そうに訊くのに、フランチェスカは答えた。
「美味しいわ」
それを聞いてから、ロレンツォもリゾットを食べはじめた。
朝食が済むと、ロレンツォは来たのとは別の道からアパートメントまで戻った。やはりロレンツォはフランチェスカに道沿いにある食べ物の店を指差しながら歩いた。
部屋の前に着いても、ロレンツォは中には入らなかった。ロレンツォが部屋の鍵と幾らかのお金をフランチェスカに差し出したので、もう王宮に行く時間なのだとフランチェスカにもわかった。
「家に誰か訪ねて来ても、応対なさる必要はありません。知り合いなら私が昼にいないことはわかっているはずですから。外に出られる時には充分に気をつけてください」
「わかったわ」
妻らしく仕事に行く夫をしっかり見送ろうとフランチェスカは思ったが、ロレンツォはなかなか去らなかった。表情が暗くなったように見える。
昨夜のことがあってロレンツォはエミリオと顔を合わせづらいに違いない。
エミリオがロレンツォを無下に扱うはずはないし、そんなことをすればフランチェスカがエミリオを許さないのだが、それをロレンツォに言うことはできなかった。
「今日はお仕事に行きづらいわよね。私のせいでごめんなさい」
「いえ、そんなことは……」
フランチェスカとしては、エミリオのところになんか行かなくていいと言ってあげたいところだが、ロレンツォが騎士でいられなくなったら困る。目の前に立っている騎士服姿のロレンツォは文句なしに格好良いのだから。
しばし考えてから、結局フランチェスカは無難な言葉を選んだ。
「エミリオは、いえ、エミリオ殿下は決して悪い方ではないわ。だから、ロレンツォは今までどおりあの方にお仕えして」
ロレンツォはまだ不安そうな顔をしていたものの、それでも王宮へと向かって行った。
部屋でひとりになると、ソファで悶えたいのをどうにか堪えて、フランチェスカは寝室に向かった。
ベッドからシーツや枕カバーなどを外した。洗濯板を探していると、一緒に脱衣籠も見つかった。
その中にはロレンツォの下着らしき物が入っていた。フランチェスカはしばし悩んだが、初めてなのに欲張るのはやめようと、とりあえずシーツを優先することにした。
事前に調べておいた洗濯場まで行くと、すでに数人の女性たちが洗濯を始めていた。顔をあげた彼女たちに、フランチェスカは挨拶をした。
「初めまして。ごきげんよう」
「初めまして。ええと、新しく越して来た人?」
「そこのアパートメントに住んでいるディアーコと申します」
「ああ、あの若い騎士様ね。ご結婚されたの」
「はい。これからよろしくお願いいたします」
未婚だけど一緒に暮らしている、などと正直に言う必要はないだろうとフランチェスカはそう答えたが、その後、女性たちから「ディアーコさん」とか「騎士様の奥さん」と呼ばれてすっかり浮かれた。
部屋に戻ると窓辺に洗った物と、さらに布団などを干した。
トランクの中身をクローゼットの中に移し、寝室の掃除をした。
空腹を感じたフランチェスカは部屋を出て、ロレンツォが教えてくれたサンドウィッチ屋に向かった。
そこでようやく、フランチェスカがひとりでも食べることに困らないようにとロレンツォは食べ物の店ばかり教えてくれたのだと気づいた。
フランチェスカはサンドウィッチと一緒にロレンツォの優しさを噛みしめた。
せめて夕食は部屋でふたりだけで摂りたいと考えて、フランチェスカはやはりロレンツォに聞いた店で惣菜やパンを買った。
キッチンに何もなかったことを思い出し、食器店を探して皿やスプーン、フォーク、コップなども購入した。
フランチェスカはひとりで買い物するのも初めてだったが、やはりアルマに教わっていたので特に問題はなかった。
部屋に戻ってからベッドを整え、その上にうつ伏せに寝転んだ。昨夜よりもロレンツォの匂いは薄くなってしまったが、やはり気持ち良かった。ロレンツォもここで寝てくれればいいのにとフランチェスカは思った。
外が暗くなり、そろそろロレンツォが帰ってくる頃かと、フランチェスカは食卓に夕食を用意して待ち構えた。やがて部屋の扉をノックする音が聞こえた。
慌ててフランチェスカは玄関まで行くが、朝のロレンツォの言葉を思い出すとすぐに開けることは躊躇われた。
「私です」
ロレンツォの声で、フランチェスカは急いで鍵を外して扉を開けた。フランチェスカを見たロレンツォは、どこか安堵したような表情を浮かべた。
ロレンツォは朝とは違い私服姿だったが、きっちりとしたきれい目な装いだった。
「お帰りなさい、ロレンツォ」
「ただいま帰りました。お腹が空いているでしょう。このまま夕食に出かけますか?」
「ごめんなさい。用意してしまったの。今朝教えてもらったお惣菜屋さんとパン屋さんで買ったのよ」
「そうですか。ちゃんと買い物できたなら良かったです」
「そのくらいできるわ」
フランチェスカは少しムッとして言った。
「すみません」
ロレンツォが心底申し訳ないという顔で謝るので、フランチェスカは急いで機嫌を直して笑ってみせた。
ロレンツォが食卓に着いたので、フランチェスカもその向かいに座った。ロレンツォが食卓を眺めて首を傾げた。
「食器も買われたのですか?」
「ええ。何もないのはさすがに不便かと思って」
「今朝渡したお金で足りましたか?」
「大丈夫よ。さあ、食べましょう」
食事を摂りながら、ロレンツォがわずかに沈んだように見えた。
やはり、外食のほうが良かったのだろうか。それとも、勝手に食器を買ったりしたので腹を立てたのだろうか。フランチェスカには理由がわからなかった。




