4 拒む騎士
夜会の行われている広間から玄関ホールへ出たところで、フランチェスカはロレンツォに言った。
「ロレンツォに迷惑をかけることになって本当にごめんなさい。だけど、ありがとう」
「いえ、迷惑などでは」
ロレンツォがすぐに否定してくれたので、フランチェスカはホッとした。だが、直後にロレンツォが口にしたのは、フランチェスカの予想していなかった言葉だった。
「フランチェスカ様、とりあえずお屋敷までお送りいたします」
「あなたの家に連れて行ってくれるのではないの?」
フランチェスカは慌てて尋ねた。実家になど帰れば、それこそどんな罰を受けるかわからない。
ロレンツォが困ったようにフランチェスカを見た。
「ですが……」
「エミリオを騙すことなどできないわ。それに、実家が今の私を受け入れてくれるかわからないし」
そこまで言ってから、フランチェスカの脳裏に嫌な想像が浮かんだ。
「もしかして、家であなたを待っている方がいるの?」
ロレンツォには特定の相手はいないはずだが、エミリオが知らなかっただけなのか。憎いその女をどうやって排除すべきかとフランチェスカは思いを巡らせようとした。
「いいえ、私は一人暮らしですし、そんな相手はおりません」
ロレンツォの答えにフランチェスカは大いに安堵し、ロレンツォをジッと見つめた。
「それならば、お願い、私を連れて帰って」
ロレンツォが口を開くより先に、広間から公爵家の執事が出てきた。
「王太子殿下より、おふたりをご自宅までお届けするようにと言いつかりました。当家の馬車をご用意いたしますので少しお待ちください」
ロレンツォは苦渋の顔で「お願いします」と返した。ようやくフランチェスカを家に連れて行く決心をしてくれたらしい。フランチェスカは心の中でエミリオに向かってその働きを褒めた。
馬車はすぐに用意された。御者が扉が開けると、ロレンツォが先に馬車に乗り込んでから、フランチェスカにぎこちなく手を差し出した。
フランチェスカは思わずロレンツォを見上げた。ロレンツォに触れるのは初めてで、フランチェスカの顔は自然と綻んでしまった。
ロレンツォの手のひらは固くて大きくて温かかった。フランチェスカが馬車に乗るとロレンツォはすぐに手を放してしまったので、フランチェスカは残念だった。
馬車の扉が閉まる直前、アルマが慌てた様子でやって来た。
「お嬢様、こちらを」
アルマが馬車の中にトランクを押し込んだ。それまでフランチェスカはすっかりトランクのことを忘れていて、やはり自分は浮かれているのだなと思った。
「ディアーコ様、お嬢様のことをどうぞよろしくお願いいたします」
アルマがロレンツォに頭を下げた。
「ありがとう、アルマ」
フランチェスカとアルマの目が合った。アルマの目はフランチェスカを祝福していた。
馬車が動き出すと、ロレンツォが窓の外へ視線をやったのをいいことに、フランチェスカはロレンツォの横顔を至近距離から眺めた。
やがて馬車はロレンツォが住むアパートメントの前に到着した。ロレンツォは先に降りると、再びフランチェスカに手を貸してくれた。
御者に礼を言ってから、ロレンツォはフランチェスカのトランクを持って階段を上っていった。フランチェスカもついて行った。ロレンツォの部屋は2階だった。
玄関を入るとすぐ居間で、その隅に小さなキッチンがあった。キッチンには小さな食卓に椅子が2脚。居間の窓の近くにソファがあり、その向こうに扉が見えた。ベッドが見あたらないから、あの中が寝室だろう。
フランチェスカが想像していたよりもずっと狭い部屋だった。屋敷のフランチェスカの部屋よりも狭い部屋でこれからロレンツォとふたり暮らすのだと思うと、フランチェスカは興奮を抑えられなかった。
「居心地の良さそうなお部屋ね」
フランチェスカがロレンツォを振り返って言うと、ロレンツォはなぜか痛ましそうな顔をしていた。
「フランチェスカ様、無理をして笑う必要などありません。泣くなり怒るなり好きになさってください」
「ええ、私は好きにしているわ。そんなことより、私のことはただフランチェスカと呼んでちょうだい。他の呼び方が良ければそちらでも構わないけれど」
フランチェスカが言うと、ロレンツォの顔に戸惑いが浮かんだ。
「は? いや、そんなわけにはいきません」
「なぜ? ああ、私こそあなたに対する言葉遣いを改めるべきね。今後はロレンツォ様とお呼びいたしますわ」
夫は敬うべきだろうと考えてフランチェスカはそう言った。
「いえ、今までどおりになさってください。私が言いたいのはそういうことではなくて、あなたと本当に婚姻するつもりはないので安心してほしいということです」
ロレンツォの言葉で、フランチェスカの膨らんでいた期待が一気に萎んだ。
「ええ、どうぞあなたの思うとおりにして」
仕方ないとフランチェスカは思った。ロレンツォにしてみれば本当に突然のことだったのだから、エミリオの婚約者だったフランチェスカを今すぐ自分の結婚相手としては見られないだろう。
しかし、フランチェスカにはロレンツォを逃すつもりなどもちろんなかった。これからはずっとロレンツォのそばにいて絶対にその心を奪い、必ずロレンツォの妻になるのだと、フランチェスカは固く決意した。
ロレンツォはフランチェスカをソファの奥の扉の中に案内した。そこはやはり寝室で、小さな小さなベッドが置かれていた。
このベッドにふたりで寝れば当然あんなことやこんなことが、とフランチェスカの興奮が再び膨らみかけた。が、ロレンツォにまたそれを潰された。
「フランチェスカ様はこちらでお休みください。私も入る必要があるときには声をかけさせていただきます」
「ロレンツォはどこで寝るの?」
「居間のソファを使います」
フランチェスカは上目遣いにロレンツォの顔を見つめた。
「私はあなたと一緒でも構わないわよ」
ロレンツォは一瞬動きを止め、それから顔を赤らめると首を左右にブンブン振った。
フランチェスカは不満を押し隠して言った。
「それならば、私がソファを使うわ。私のほうが体が小さいのだし、あなたは明日のお仕事のためによく休むべきでしょう」
「いえ、私はどこでも寝ることができますので問題ありません。何かあればすぐに仰ってください。では失礼します」
ロレンツォはそれだけ言うと、寝室を出て行ってしまった。扉がバタンと閉められる。
フランチェスカは嘆息してベッドに倒れ込んだ。漏れそうになる声はどうにか堪えた。
(何、あの可愛い拒み方。少しくらい迷ってくれたら、強引に行けたのに。でも、ロレンツォは結婚はしないけどやることはやるなんて人じゃないわよね)
しばし静かに悶絶してから、フランチェスカはベッドから下りた。
ロレンツォが運んで来てくれたトランクを開けると、中身が飛び出してきた。今朝、アルマとふたりがかりで何とか閉めたので、フランチェスカひとりでは2度と元には戻せないだろう。
フランチェスカはトランクから部屋着を引っ張り出して着替えてから、床の上に溢れている物を見下ろした。
フランチェスカがそれらをどうやって片付けようかと悩んでいると、ふいに寝室の扉がノックされ、ロレンツォの声がした。
「開けてもよろしいでしょうか」
「ちょっと待って」
フランチェスカは慌ててトランクをベッドの陰になる位置まで移動し、一呼吸置いてから扉を開けた。
ロレンツォはフランチェスカの姿を見ると、ホッとしたような顔をした。
「トランクにそういう服も入っていたのですね。それならばよかった」
「気にしてくれたのね。ありがとう」
フランチェスカは答えながら、自分はもしかしてロレンツォの服を借りる機会を逃したのではと気づいてがっかりした。
「湯を沸かしたのですが使われますか? この部屋には浴室がないので体を拭くくらいしかできないのですが」
「では、使わせてもらうわ」
ロレンツォは湯を運び込むと、クローゼットから着替えを取り出して寝室を出て行った。
隣の部屋でロレンツォも体を拭き、着替えているのかと思うと、フランチェスカはドキドキした。
さすがに扉を開いてそれを覗くことは躊躇い、フランチェスカは代わりにクローゼットを開けてみた。中は余裕があり、フランチェスカの服も入れられそうだ。
そこに毛布があるのを見つけて、フランチェスカはそれをロレンツォに持っていくことにした。
フランチェスカが寝室の扉を開けると、居間は明かりが落とされて薄暗くなっていた。
フランチェスカがソファに近寄って上からロレンツォをそっと覗き込むと、ロレンツォの目が開いた。フランチェスカと目が合うと、ロレンツォは「うわっ」と声をあげて起き上がった。
「驚かせてごめんなさい。あの、毛布を持って来たのだけど、勝手にクローゼットを開けて出しました。それもごめんなさい」
「あ、いえ。わざわざありがとうございます」
ロレンツォは小さく頭を下げながら毛布を受け取った。
フランチェスカが初めて見るロレンツォの私服姿のばずなのだが、残念ながらよく見えなかった。
「それではお休みなさい、ロレンツォ」
「お休みなさいませ」
フランチェスカは少々後ろ髪を引かれつつ寝室に戻ると、寝巻に着替えてベッドに入った。だが、隣室が気になって眠れなかった。
(ロレンツォはもう寝たかしら)
昨晩まではロレンツォが寝ていたはずのベッドに入っているのだと思うと、余計に目が冴えてしまった。
フランチェスカはとうとうベッドを出ると、再び居間への扉を静かに開けた。ソファからは規則正しい寝息が聞こえてきた。
フランチェスカはソファのそばにしゃがみ込むと、毛布に包まって眠るロレンツォの寝顔を間近から見つめた。
(やっぱり可愛い。触りたい。でも起こしたら悪いし)
フランチェスカは手を伸ばしかけて何とか思いとどまった。代わりにソファの背もたれにかけられていたロレンツォの騎士服を手に取ると、ぎゅっと抱きしめた。




