2 王太子と婚約者の謀
フランチェスカはほぼ毎日、妃教育の後でエミリオの執務室までロレンツォに会うために通った。
と言っても、初めのうちフランチェスカはロレンツォをわずかな時間見つめるのが精一杯で、そこから少しずつ少しずつ会話も交わせるようになっていった。
それでも何かロレンツォのためにできないかとフランチェスカは考えて、アルマにお菓子作りを習うことにした。
どうにかこうにか生まれて初めてクッキーを焼いてみたが思ったようにはいかず、見た目はいまいちだった。
執務室でエミリオの前にそれを取り出すと、エミリオは目を剥いた。
「大丈夫なのか?」
「ちゃんとアルマに教わりながら作ったんだから大丈夫よ。でもちょっと心配だから、エミリオ先に食べてみて」
「何で王太子のわたしが護衛のために毒味をしなければならないんだ」
文句を言いつつも、エミリオはクッキーを口に入れた。
「甘っ」
「え、そう?」
「おまえ、味見してないのかよ」
「しすぎてわかんなくなっちゃったの」
溜息を吐いてから、エミリオは扉の外にいたロレンツォを呼んで来た。
ロレンツォがどんな反応をするかと、フランチェスカは緊張しながら彼を迎えた。ソファに戻ったエミリオが、ロレンツォに向かってテーブルの真ん中にあるクッキーを指差した。
「おまえも食べてみろ」
「私は勤務中にございます」
「摘んで口に放り込むだけのことだろう」
エミリオに言われ、ロレンツォはクッキーをひとつ摘むと口に放り込んだ。フランチェスカは息を殺すようにして、ロレンツォがクッキーを咀嚼して飲み込むのを見守った。
「どうだ、美味いか?」
「私の口には少し甘過ぎます」
ロレンツォの言葉にフランチェスカはがっくりと肩を落とした。
「やはりそうか。残念だったな、フランチェスカ」
ロレンツォが首を傾げたので、エミリオがさらに言った。
「フランチェスカが初めて作ったのだ」
ロレンツォは驚きを顔に浮かべると、頭を下げた。
「申し訳ありません。失礼なことを言いました」
「いいえ、同じことをエミリオにも言われたの。気にしないで」
そう言いながらも、フランチェスカは落胆を隠せなかった。困惑した様子のロレンツォに、エミリオが言った。
「誰が作ったものかを聞いていれば、おまえは世辞しか口にせぬであろう。正直な意見を聞けたゆえ、フランチェスカは次はもっと美味いものを作ってくるはずだ」
エミリオの言葉に、フランチェスカは気持ちを立て直した。
「ええ。今度こそふたりに美味しいと言わせてみせるわ」
フランチェスカは、それから週に一度くらい菓子を作って執務室に持って行った。そのたび、エミリオはロレンツォを室内に呼んで食べさせてくれた。
せっかく作ったのにロレンツォが不在だと、フランチェスカはガッカリした。
「ロレンツォが休みなら先に言ってよ。そうすれば別の日に作って来たのに」
「はいはい。次からそうする」
フランチェスカは徐々に思ったとおりの菓子を作れるようになっていった。
ロレンツォに美味しいと言ってもらえると、フランチェスカは飛び跳ねたいほど嬉しかった。
日々ロレンツォを見つめるうちに、フランチェスカの想いはどんどん膨らんでいった。どうすればロレンツォとずっと一緒にいられるのかと、フランチェスカは真剣に考えるようになった。
「わたしとロレンツォが結婚することってできるわよね?」
ある日の執務室で、フランチェスカはエミリオに尋ねた。
「不可能ではないが、今のままでは難しいだろうな」
「難しいけど、可能なのね? 何が問題なの?」
「まずはわたしとの婚約をいかに解消するか。次に、結婚できたとしても、爵位を持たぬ騎士と宰相の娘では当然ロレンツォが酷いやっかみを受けるだろう。それとあいつはひとり暮らしだから、結婚したらおまえが家事をする必要があるな。もしくは、あいつに家事をやらせておまえが稼ぐか」
「わたし、ロレンツォの騎士姿を見られなくなるのは嫌よ」
「なら、家事を覚えるんだな。だがその前に、1番問題なのはロレンツォの気持ちではないか? おまえの気持ちもロレンツォにはまったく伝わってなさそうだしな」
「やっぱりそうなのね。ロレンツォは真面目な人だから王太子の婚約者とどうこうなんて、想像もしないわよね」
「まあ、今のところ特定の相手はいないようだし、せいぜい頑張れ」
「他人事ね」
「いや、おまえとの婚約解消に関してはわたしにとっても悩ましい問題だ。そろそろ結婚の日取りを決められてもおかしくない頃だ」
翌日から、フランチェスカはアルマに家事を習い始めた。さらに、屋敷で働いている者たちの仕事の様子をできるだけ観察するようにした。
3か月ほど前、フランチェスカの目に突如として光明が見えた。
エミリオの周りをミーナ・カッローニという男爵令嬢がうろつくようになったのだ。
彼女はカッローニ男爵の庶子で、母親が亡くなったために男爵に引き取られていた。
だが、エミリオによるとミーナは男爵の本当の娘ではなく、彼女の実の父親は隣国のスパイだった。さらに、ミーナ自身にもスパイ容疑がかかっていた。
最初、フランチェスカはミーナをそれほど気にしていなかった。ただ、ミーナがエミリオに近づくことでアルマが傷つけられることがないかと心配だった。
フランチェスカはとある茶会に参加した折、ここだけの話、と前置きをした上でそれを口にした。
「あのミーナ様という方、最近エミリオ殿下とやけに仲がよろしくて私は不安になってしまいますの。殿下に婚約者がいることは当然あの方もご存知のはずですわよね。もしかしたら、他の男性方とも同じようにお付き合いされているのかしら。 私のような思いをしている方がたくさんいるとしたら、とても辛いことだわ」
数日後には、ミーナは何人もの男を誑かしている悪女だという噂が社交界に広まっていた。
そのうちに、フランチェスカはミーナを上手く使えば自分とエミリオは婚約を解消し、それぞれ望む相手と結婚できるのではないかと考え始めた。
「ねえ、エミリオ。王太子の地位とアルマとの結婚ならあなたはどちらをとる?」
フランチェスカの問いに、エミリオは即答した。
「アルマだ」
「なら、方法がありそうよ」
エミリオにそれを伝えると、アルマ以外の相手と演技でもベタベタしたくないと渋ったが、アルマと結婚するためだと納得させた。もちろん、アルマにも了承を得た。
1度やると決めれば、エミリオのほうが細かい計画を練るには向いていた。
夜会や茶会あるいはちょっとした公務などエミリオの行き先がそれとなくミーナに伝わるようにすると、ミーナは律儀にそこに現れた。
あまり不自然に見えないよう気を使いながら、エミリオがミーナと一緒にいる機会を増やしていった。
フランチェスカは夜会ではエミリオにミーナとダンスを踊らせ、茶会にはミーナを連れて行かせた。
「ロレンツォに、おまえを蔑ろにするなと言われたぞ」
エミリオにそう教えられ、フランチェスカは苦労が報われた気分になった。
やがてミーナがエミリオの執務室に入り浸るようになった。しかし、フランチェスカは妃教育を終えるとロレンツォに会うために今までどおり執務室に向かった。
エミリオはやはりロレンツォにフランチェスカを馬車まで送らせた。いつもロレンツォが案じるようにフランチェスカを見てくるので、フランチェスカは少し申し訳なく思った。
エミリオと顔を合わせなくなったので、フランチェスカはロレンツォのためだけに菓子を作れるのだと張り切った。その分、量が多くなってしまった。
「ロレンツォ、今日はマフィンを焼いて来たのだけど、良かったら食べてもらえるかしら?」
フランチェスカがドキドキしながら差し出した包みを、ロレンツォは神妙な顔で受け取ってくれた。
翌日、フランチェスカがマフィンの感想を尋ねると、ロレンツォはとても美味しかったと答えた。フランチェスカは嬉しくてたまらなかった。
それからもフランチェスカはロレンツォのためだけに菓子を作った。
フランチェスカとエミリオは、ふたりの父がともに不在となる日に行われるとある公爵家の夜会で婚約破棄をすることに決めた。
エミリオはアルマと暮らすための小さな屋敷を街に用意した。
フランチェスカはアルマと一緒にロレンツォの暮らしている下町近辺を下見に行った。活気があって、好きになれそうだと思った。
それから、アルマに手伝ってもらって、フランチェスカは1番大きなトランクに衣類や身の回りの物を詰め始めた。
ロレンツォのためになるべく綺麗な格好をしていたいが、ロレンツォの住んでいるアパートメントにあまりにも相応しくないドレスでは駄目だ。持って行く物を選ぶのは難しくも楽しい作業だった。
どうしても外せないのは、白色のドレスだった。ウェディングドレスの代わりに結婚式で着るのだ。汚れが目立つ白のドレスは今まで持っていなかったので、急いで誂えた。
「素敵ですね」
「アルマも結婚式でこれ着る?」
「良いのですか?」
「もちろん良いわよ。わたしとあなたなら体型も同じような感じだし」
「ありがとうございます」
準備に追われて瞬く間に時は過ぎ、運命の夜が訪れた。




