12 王太子殿下の婚約破棄の理由
フランチェスカの友人の屋敷がある通りまで来たところで、ロレンツォは自分がその友人の顔も名前も知らないことに思い至った。しかも、まだ屋敷を訪問するには早すぎる時間だ。
とはいえ、フランチェスカがいるかどうかを確かめずに踵を返すわけにはいかなかった。意を決して、ロレンツォは屋敷の門の前に立った。
ちょうど、屋敷の玄関のほうから歩いてくる人の姿があった。その顔を見て、ロレンツォは目を見開いた。相手もロレンツォに気づくと一瞬、怪訝そうな表情をした。
「おまえ、ここのことを知っていたのか」
「殿下」
「こんなところでただの平民をそんな風に呼ぶな。おまえの家に行くつもりだったのだが、行き違いにならなくて良かった」
そう言いながら、エミリオは門を開けてくれた。
「フランチェスカ、は、来ていますか?」
「来てるぞ。とりあえず、おまえも入れ」
エミリオが屋敷へと戻っていくので、ロレンツォも後に続いた。エミリオは自ら扉を開けて屋敷の中に入ると、そのまま居間へとロレンツォを通した。
ローテーブルを挟んで置かれたソファにロレンツォが促されて腰を下ろすと、エミリオも向かいに座った。
「あの、フランチェスカは?」
もしかしたら会わせてもらえぬまま「返せ」と言われるのかと、ロレンツォは身構えた。だが、エミリオは相変わらず淡々と答えた。
「2階だ。アルマがついているから安心しろ」
「早く会って謝りたいのですが」
「フランチェスカがおまえから逃げるようなことはないから慌てずとも大丈夫だ。それに、あまりあいつを甘やかさずに向こうから謝らせるほうがいいんじゃないか」
「いつも甘やかしてくれるのも謝ってくれるのもフランチェスカです」
ロレンツォの言葉を聞いて、エミリオは眉間に皺を寄せた。
「素直に謝るフランチェスカなどわたしには信じられないが。とりあえず、先にこの前約束した話をしてしまおう。フランチェスカがいると落ち着いて話せないだろうからな。まったく、あいつは鬱陶しい」
ロレンツォは思わず顔を顰めた。
「鬱陶しいなどと、いくら殿下とはいえフランチェスカに失礼ではありませんか」
途端にエミリオはロレンツォを睨みつけた。
「朝早くから痴話喧嘩に巻き込んでおいて偉そうに言うな」
「痴話喧嘩?」
ロレンツォが戸惑って聞き返すと、エミリオはさらに目を細めた。
「違うのか?」
「……いえ、違わないです、多分」
やれやれというようにエミリオは嘆息した。
「まったく、わたしたちにはいい迷惑だ」
エミリオの「わたしたち」という言葉に、ロレンツォはこの屋敷に住んでいるはずのフランチェスカの友人についてまだ聞いていないことを思い出した。
「ここはフランチェスカの友人のお屋敷なのですよね?」
「わたしの屋敷だ」
「殿下の?」
「王宮を出てから住むために用意しておいた。ちなみに、資金は王太子領からの収入を商売や投資で増やした分から出したから大目に見ろ」
「家を用意されていたということは、やはり最初からすべてわかっておられたのですね」
ロレンツォが言うと、エミリオはニッと笑った。
「ああ、ミーナがスパイだということは知っていた。ゆえに王宮に引き込んで罠を張り、機密文書を盗もうとしていたところを監察部に逮捕させた。もっとも、その機密文書は偽物だったのだが」
「なぜ殿下がそんなことをする必要があったのですか? ミーナを捕まえるためなら他にいくらでも方法はあったのではありませんか?」
「わたしは王太子の地位を捨てて、王宮を出たかったのだ。そのためにミーナを利用させてもらった」
悪びれることもなくエミリオは言った。
「そんな、どうして」
「愛する女と結婚するためだ」
「1度は私と結婚させたフランチェスカを離縁させて、改めて結婚しようと?」
「そんなわけないだろ。そもそも、わたしはフランチェスカを女として見たことがないし、フランチェスカのほうも同じだ。わたしたちの間に恋やら愛やらが存在するなどありえない。腐れ縁の幼馴染、あるいはただの友人、それだけだ。それに、わたしにもすでに妻がいる。王宮を出た日に結婚したのだ」
「では、その方もここにいらっしゃるのですか?」
「もちろんいる。と言うか、アルマだ」
「アルマ? フランチェスカのメイドの?」
ロレンツォが声を上げるのを、エミリオは楽しそうな顔で見ていた。
「あの夜会の翌日にメイドは辞めたがな。不本意ながら、なかなかわたしの求婚に頷かなかったアルマを説得してくれたのはフランチェスカだ。それに、あいつが妃教育を真面目に受けていたのもアルマのためだ。自分が学んだことをすべてアルマに伝えてくれていた」
「アルマ、様が王太子妃になることはないのにですか?」
「アルマの亡くなった母親はやはりヴィオッティ家で働いていたメイドだが、父親は貴族だ。その父親がアルマを娘だと認めれば、アルマは王太子妃になることもできる」
「まさか、父親というのは……」
ロレンツォが皆まで言わずとも、エミリオは頷いた。
「宰相だ。アルマやフランチェスカがそれを知っていることを、宰相は気づいていないがな。ふたりが生まれた日は半年ほどしか違わぬから、宰相は妻の妊娠中にアルマの母に手を出したようだ」
驚いて固まっているロレンツォに、エミリオは付け足した。
「ゆえに、わたしの妻だからと言って無理にアルマ様と呼ばずとも構わぬぞ。わたしももう殿下と呼ばれる立場ではないしな。そうそう、フランチェスカにはおまえのことを義兄上と呼べと言われたが、そのほうが良いか?」
ロレンツォはブンブンと首を振った。
「そうか。ならばロレンツォ、他に聞きたいことはあるか?」
「ミーナを王宮に入れるためなら別にフランチェスカと婚約破棄までする必要はなかったのではありませんか? 実際、それ以前からミーナは執務室に来ていたのですから。いくらあなたと異母妹のためとは言え、人前で貶められてフランチェスカは不利益ばかりを被っています」
「そんなことはないだろ。わたしはあいつが1番欲しがっていたものを与えてやったではないか」
ロレンツォは首を傾げた。
「フランチェスカの1番欲しがっていたものって何ですか?」
「愛する男の妻の座だ」
エミリオの言葉にロレンツォは目を瞬いた。
「……それではまるでフランチェスカがずっと前から私のことを好きだったように聞こえます」
「だから、そう言っている。おまえは本当に鈍いな」
「は? え? だって、いつから?」
意味もなく焦るロレンツォに、エミリオはニヤニヤしながら答えた。
「最初からだ」
「最初って、あなたに婚約者だと紹介された時ですか?」
「違う。その前の剣術大会だ。あの時、フランチェスカも一緒に見ていたのだが、やけに熱心に誰かを見ていると思ったらおまえだった。あいつにあんな乙女のような顔をさせる男がいるのかと面白くて、おまえをわたしのそばに置くことにした」
「それでは、私を護衛に選んでくださったのに剣術は関係なかったのですね」
ロレンツォは少しがっかりした。
「悄気るな。おまえが準決勝まで残らなければ、わたしは声をかけなかった。それに、おまえの剣技に目を惹くものがなければ、フランチェスカだっておまえを見つけなかっただろう」
ロレンツォはエミリオをジッと見つめた。
「本当にフランチェスカが待っていたのは私なのですか?」
「そうだ。フランチェスカはおまえの前では一途で健気な妻だったのではないか?」
確かに、今でもエミリオを想っているという思い込みを捨ててしまえば、フランチェスカはロレンツォの妻でしかなかった。
ロレンツォは公園でフランチェスカが「ひとり暮らしの騎士様に嫁ぐことになった場合」のために家事を覚えたと言ったのを思い出した。あれは冗談ではなかったのだ。
「では、フランチェスカが私に話そうとしていたことは何だったのでしょうか? 先日、アルマとそんな話をしているのを聞いてしまったのですが」
「あの婚約破棄がわたしとフランチェスカとで仕組んだものだったことではないか。あれはどう見ても陳腐な茶番劇だったはずだが」
ロレンツォは頷いた。
「あの場でわたしたちにとってもっとも重要だったのは婚約破棄ではない。ありもしない罪によって罰せられる哀れな令嬢を助けようとひとりの騎士が声を上げ、その結果、ふたりが強引に結婚させられることのほうだ。つまり、わたしたちが書いた台本の主役はおまえだったというわけだ」
ロレンツォは困惑しながらも尋ねた。
「わたしが黙っていたらどうするおつもりだったのですか?」
「その時は無理矢理にでもおまえを引っ張り出したが、おまえは黙っていられる人間ではないと思っていた。ほとんどの者がミーナのことを見て見ぬ振りする中で、おまえはわたしを諌めようとしただろ」
どちらの時もロレンツォはフランチェスカが辛い目にあうのを看過できず、考える前に口を開いてしまったのだが。
「とにかく無事台本どおりに進んだおかげで、ただの騎士が宰相の娘を娶ったにも関わらず、たいした妬み嫉みを受けることもなく周りに受け入れられた」
「確かにそのとおりです。宰相閣下までも私を婿として扱ってくださっております」
「それはまた別の理由だ。宰相は婚約破棄がわたしの一方的なものでないことにすぐに気がついた。フランチェスカがわたしの妃になどなりたくないことを宰相はよく知っていたからな。わたしたちの婚約が決まった時、あいつは父親に泣いて抗議したらしい」
宰相の言葉を思い出してみれば、気づいていたのは間違いなかった。
「はじめ、宰相はフランチェスカを連れ戻すつもりでおまえたちの部屋に行った。だが、おまえと一緒にいるフランチェスカを見て考えを変えたのだ。このままこの男に厄介な娘を押しつけてしまおう、とな。その分おまえを婿として大事にしてくれるだろうから、存分に利用すればいい」
「厄介って、やはりエミリオ様はフランチェスカに色々と失礼ですね」
ロレンツォが抗議の意を込めて言うと、エミリオはフンと鼻で笑った。
「おまえはまだあいつの本性を知らぬのだ。まあ、知ったところでもう遅いだろうがな。さて、そろそろいいか」
そう言って立ち上がったエミリオに、ロレンツォも立ち上がりながら尋ねた。
「あ、あとひとつ。私がフランチェスカに吐いた嘘とは何のことだったのか、エミリオ様はわかりますか?」
カフェを去り際に聞いた時は、ミーナが妃教育を受けていたことをフランチェスカに黙っていたことだとロレンツォは考えたのだが、どうも違うようだ。
「おまえ、フランチェスカとアルマの会話をどこで聞いたのだ?」
「昼食を摂るために入ったカフェに偶然ふたりもいたのです」
「なぜおまえが昼食を王宮ではなくカフェなどで摂ったのだ?」
「あの日は休みだったので」
「それをフランチェスカには言ったのか?」
ロレンツォは盛大に瞬きした。
「……え、もしかして休みの日に仕事だと言って出掛けたのをフランチェスカは気づいていたのですか?」
「そういうことだ。何でも、あいつは匂いでわかるらしいからな、気をつけろよ」
エミリオが可笑しそうに言うのを聞きながら、ロレンツォはフランチェスカの本性とはどんなものなのかと少しだけ考えた。




