11 想いの先
「昔、この辺りの国々を回る旅芸人の一座があった。だが、一座は裏で隣国のスパイとして暗躍していた。ミーナの母親であるリータはこの一座の踊り子だった。リータはカッローニ男爵と恋仲になって一座を辞め、この国に住むようになり、やがてミーナを産んだ」
「では、もともと監察部が注目していたのはミーナの母親だったのですか?」
「そうだ。実際、リータはその後も一座の座長とたびたび会っていたようだ。しかしスパイだという決定的な証拠は得られぬまま、一座は解散してしまった。が、最近になってこの座長によく似た男が我が国で目撃され、ミーナも接触した形跡があった」
「母親はともかく、なぜミーナはスパイ行為などをしたのでしょうか?」
「ミーナの容姿はカッローニ男爵よりも座長に似ているそうだ」
「つまり、ミーナは本当はカッローニ男爵の令嬢ではなかったということですか?」
「おそらくな。もっとも、男爵はそれを承知の上でミーナをカッローニ家の籍に入れたようだが」
カッローニ男爵は娘の犯した罪の責任を取って爵位を返上した。
ミーナが逮捕された時点で籍から外していれば、もう少し軽い罰で済んだだろう。だが、カッローニ男爵は最後までそれをしなかったのだ。
「ミーナが男爵の想いに気づいていれば、違う結果になっていたかもしれん。少なくとも、犯罪に引き込むような男よりは男爵のほうが父親としては上だ」
「はい」
ミーナはエミリオの執務室に来るたびロレンツォを嫌な目で見ていた。しかし、ミーナが本当に見ていた相手はフランチェスカだったはずだ。
つまり、ミーナはスパイとしてエミリオに近づいたが、本当に王太子妃になるつもりだったのだろう。彼女が憧れたのが、王太子妃の地位なのか、エミリオという男だったのかはわからない。
それがミーナにとってスパイをやめる理由になれば良かったのにと、ロレンツォは複雑な気持ちで考えた。
ロレンツォは仕事終わりに再び宰相の待ち伏せを受け、ともにヴィオッティ家の馬車に乗せられていた。やはり緊張はするものの、先日のこともあって会話を交わしながら顔を見られるようにはなった。
「ところで、おまえはエミリオ様の居場所を知っているのか?」
「いえ、知りません」
「そうか」
エミリオは王太子を廃されたものの、すぐに第二王子のミルコが立太子されることはなく、一時的に王太子は空位となっていた。
今でも王宮にはエミリオこそが王太子に相応しいという者が意外に多く、何よりミルコ自身が王太子になることを固辞しているというのが理由らしい。
娘がエミリオに婚約破棄されても、宰相もやはりエミリオ派なのだろう。
やがて馬車はアパートメントの前に着いた。ロレンツォは馬車を降りたが、宰相は動かなかった。
「フランチェスカ様にお会いにならないのですか?」
「また邪魔にされるだけだ。面倒だからこのまま帰る」
「そうですか。送っていただきありがとうございました」
「ロレンツォ、何かあれば言ってこい。わたしにできることはしてやろう。そのうち屋敷のほうにも顔を出せ」
「はい。ありがとうございます」
侯爵家の馬車を見送りながら、ロレンツォはぼんやりと考えていた。
宰相はロレンツォを婿として受け入れてくれたばかりか、何かと気にかけてくれていた。だが、ロレンツォがヴィオッティ侯爵家を訪れることはないだろう。
いつかエミリオは言っていた。一度他の男と一緒に暮らしたフランチェスカは王太子妃にはなれないと。しかし、ただの平民のエミリオなら離婚歴があってもフランチェスカを娶れるではないか。
フランチェスカが自分のもとから去るのだと思うと、ロレンツォの胸はズキズキと痛んだ。
部屋に帰ったロレンツォの顔を見ると、フランチェスカは眉を寄せた。ロレンツォはいつもと違うフランチェスカの様子に不安を覚えた。が、フランチェスカはロレンツォの頬に手を伸ばしてきた。
「どうしたのロレンツォ、そんな顔をして。嫌なことでもあったの?」
「いえ、何もありません」
「本当? 私には何でも言ってね」
そう言うとフランチェスカはロレンツォを抱きしめ、頭を撫でてくれた。ロレンツォもフランチェスカの背に腕を回した。
「……実は、宰相閣下がここまで馬車に乗せてきてくださったのですが、まだ緊張してしまって」
「あら、あの人相手に緊張なんてする必要ないわよ。何か言われても嫌なら断ればいいのだし」
「あなたの父上なのに、そんな訳にはいきません」
「ありがとう。でも、無理はしないでね」
「はい」
ロレンツォはもうすぐ失う温もりを少しでも感じようと目を閉じた。
数日後、ロレンツォは騎士団長に呼ばれた。
「ロレンツォ、ミルコ殿下の護衛をするつもりはあるか?」
「ミルコ殿下の、ですか?」
「エミリオ様からおまえの話を聞いていらっしゃって、今のままでは勿体ないと考えられたようだ。だが、おまえの心情としては複雑だろうから、どうしてもということではない」
「ではお断りしていただけますか? まだ、エミリオ殿下以外の主に仕える気にはなれません」
「わかった。それならば、今後は正式に王宮警備の役目に着けよう。ところで、おまえはまだ結婚休暇を取っていなかったな」
「はい」
「明日から1週間休め」
「明日からですか?」
「まあ、新婚旅行などは無理だろうが、ふたりでゆっくりするといい。今日も、もう帰っていいぞ」
「はあ、ありがとうございます」
いつ別れを切り出されるか、という状況で結婚休暇を取ることになり、ロレンツォは困惑していた。ロレンツォに1週間も家にいられたらフランチェスカも困るのではないだろうか。
とりあえず、ロレンツォはまっすぐ部屋には帰らずに時間を潰すことにした。ロレンツォの足はやはりあの通りに向かった。
念のため、前回とは別のカフェに入った。ざっと店内を見回して、フランチェスカの姿がないことを確認してから席に着いた。
窓の外を眺めながらゆっくりとコーヒーを飲んだが、フランチェスカは現れなかった。
もう帰ろうと店から1歩出たところで、ロレンツォは動きを止めた。
通りの向こう側を歩いていたのは、平民の形をしていてもロレンツォが見間違えるはずのないエミリオだった。アルマも一緒だ。
エミリオとアルマは大通りから細い通りへと折れていった。以前、フランチェスカの後をつけてロレンツォも入った道だ。
ロレンツォはエミリオとアルマの姿が見えなくなると、ふたりとは反対の方向へと歩き出した。
いつの間に、フランチェスカとエミリオは再会していたのだろうか。
いや、婚約破棄後もふたりはずっと繋がっていたのかもしれない。だからフランチェスカはロレンツォの部屋にいても明るく、落ち着いて過ごせていたのだ。
そしてエミリオはフランチェスカを迎えに来るつもりで、ロレンツォにすぐ会えると言ったに違いなかった。
ロレンツォがアパートメントの部屋に戻っても、フランチェスカの姿はなかった。きっとエミリオと一緒にいるのだろう。
あの夜会以来、ロレンツォが部屋にいる時には常にフランチェスカもいた。あれから合鍵を作っていたが、使ったのは初めてだった。いつからか、ロレンツォが帰ればフランチェスカが笑顔で迎えてくれることが当たり前になってしまった。
ロレンツォはフランチェスカがいない部屋にいることが寂しくなった。フランチェスカが出ていった後、この部屋で再びひとり暮らすことなどできそうになかった。
ロレンツォは堪らず部屋を飛び出した。
目的もなく暗くなるまで街を歩き、偶然見かけた酒場に入った。慣れない酒をちびちびと呑んでいるうちに涙が止まらなくなった。周囲にいた男たちが驚き、慰めてくれた。
そのままテーブルに突っ伏して寝てしまったらしい。「閉店だよ」と揺すぶられて目を覚ますとすでに夜が明けていた。
ロレンツォが重い気持ちで部屋に戻ると、フランチェスカはソファで毛布に包まって眠っていた。自分のためにフランチェスカにこんなことをさせてしまったのだと、ロレンツォは申し訳なくなった。
「フランチェスカ様」
ロレンツォが肩を揺するとフランチェスカはすぐに目を覚まし、身を起こした。毛布の下は寝巻ではなく、部屋着のままだった。
「ロレンツォ、どこに行っていたの? 心配したのよ」
「すみません。騎士団の先輩に誘われて呑んでいたのですが、酔い潰れてしまって家に泊めてもらいました」
「そう。とにかく無事で良かったわ。朝食は食べられる?」
「要りません。それよりも、お話ししたいことがあるのですが」
早く口にしてしまわなければきっと言えなくなるだろうとロレンツォは思った。
「何?」
まっすぐに見つめてくるフランチェスカを見つめ返すことはできず、ロレンツォは目を逸らして言った。
「別れましょう」
「どうして?」
フランチェスカの声は震えて聞こえた。
ロレンツォは必死に平坦な声を出そうとした。フランチェスカが何の憂いもなくエミリオのもとに行けるように。
「フランチェスカ様は今でもエミリオ殿下とお会いになっているのではありませんか?」
「それは……」
「いいのです。私はちゃんとわかっております。エミリオ殿下のところにお戻りになるおつもりだったのですよね?」
「何がわかっている、よ」
ふいにフランチェスカの声が低くなった。ロレンツォがフランチェスカを見ると、その顔には怒りが浮かんでいた。
「ロレンツォは私の気持ちなんて全然わかってないじゃない。いったいいつになったらあなたは私をエミリオの婚約者ではなく、あなたの妻として見てくれるの? 私はずっと待っているのに」
フランチェスカは今までにない激しい剣幕だった。
「え? あの、フランチェスカ様」
ロレンツォが驚いて言うと、フランチェスカにキッと睨まれた。
「その呼び方はもうやめてってば」
さらに、ロレンツォが咄嗟に伸ばした手はピシャリと叩かれた。
「触らないで。ロレンツォなんか大嫌い」
フランチェスカが部屋を飛び出していくのを、ロレンツォは呆然と見送ってしまった。
ロレンツォはフランチェスカの言葉を反芻し、自分が大きな勘違いをしていたのかと思わずにはいられなかった。
フランチェスカはいつの間にかエミリオではなく、自分のことを想ってくれていたのだろうか。彼女が言い捨てていった「大嫌い」はロレンツォの心にグサリと刺さったが、拗ねた子供が口にするような本心とは裏腹の言葉にも聞こえた。
ロレンツォはフランチェスカの本心を聞きたかった。だが、それ以上にロレンツォ自身の本心を伝えなければならないと思った。
ロレンツォは急いで部屋の外に出たが、フランチェスカの姿は見えなかった。辺りを探してみても、やはりフランチェスカはいない。
フランチェスカの行き先で思い当たるところは一か所しかなく、ロレンツォはそこへと駆け出した。




