10 廃太子
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フランチェスカは数日後には再びクッキーを作ってきた。
「甘さ控えめにしてみたの。どう?」
「美味しいです」
「本当? 良かった」
またフランチェスカが嬉しそうに笑ってくれたので、ロレンツォの気持ちも表情も緩んだ。
その日、ミーナはエミリオの執務室に現れなかった。
とうとう妃教育から逃げ出したのだろうかと考えながら、ロレンツォはいつもどおりに机に向かっているエミリオを見ていた。
昼すぎ、荒々しい足音とともに4人の男たちが執務室にやって来た。揃いの濃灰色の制服姿で監察部の者たちだとロレンツォにもわかった。
一般的な事件の捜査は騎士団が行うが、それとは別に王族や貴族が関わるなど国にとって重要度や機密度の高い事件の捜査を担当するのが監察部だ。
「エミリオ王太子殿下、畏れながら捜査へのご協力をお願いいたします」
4人の中の責任者らしい男が険しい顔つきで言った。エミリオは落ち着き払って答えた。
「何をすればよいのだ?」
「我々にご同行いただき、お話をお聞かせいただければと思います」
「いいだろう」
立ち上がり、扉へと歩き出したエミリオの周りを3人が囲んだ。
訳がわからず呆然としているロレンツォに気づくと、エミリオはフッと口角を上げた。
「おまえはこういう時、もう少し表情を締めておけるようになったほうがいいな」
エミリオが去ると、後に残った責任者がロレンツォに言った。
「しばらくの間、この部屋は我々が預からせてもらう。おまえは騎士団詰所に戻って団長の指示を仰ぐように」
「いったい何があったのですか?」
捜査への協力をと言いながら、監察部のエミリオに対する扱いは容疑者へのそれに近いようにロレンツォは感じていた。
責任者はわずかに目を細めて言った。
「おまえに言う必要はない。早く行け」
ロレンツォが追い払われるように執務室の外に出ると、その扉の前にはすでにふたりの監察部員が立っていた。
騎士団詰所の団長室に入ったロレンツォを見ると、マリオ・ステファーニ騎士団長は労わるような顔をした。
「今朝、監察部がミーナ・カッローニ男爵令嬢を逮捕した」
団長の言葉にロレンツォは目を見開いた。
「逮捕って、彼女は何をしたのですか?」
「ミーナ嬢には隣国のスパイの容疑がかけられている」
「スパイ?」
ロレンツォの中で、ミーナとスパイは上手く結びつかなかった。だが、団長は重々しく頷いた。
「以前から監察部ではミーナ嬢に注目し、エミリオ殿下の婚約者候補として王宮に上がるようになってからは特に慎重に監視していたらしい。その上での逮捕となれば、まず間違いないだろう」
「殿下はどうなるのでしょうか?」
ロレンツォが知りたいのはミーナよりエミリオのことだった。エミリオが罪に問われるようなことがあれば、きっとフランチェスカが辛い思いをする。
「……まだ何とも言えぬ」
団長も苦しそうに見えた。
急遽、ロレンツォはその時に騎士団で行なわれていた訓練に参加することになったが、集中はできなかった。
ロレンツォは訓練の終了後に再び団長を訪ねた。
「明日からおまえは王宮警備の任に着け」
「どういうことでしょうか? エミリオ殿下はどうなさっているのですか?」
「殿下はしばらく監察部の警護のもと、私室にお留まりいただくそうだ」
ロレンツォは目を瞠った。つまりは軟禁されるということではないか。
「殿下まで逮捕されるようなことはありませんよね?」
「私室にお戻りになっていらっしゃるのだから、おそらく大丈夫だと思うが……」
団長は難しい顔で嘆息した。
アパートメントへと帰る道すがら、ロレンツォは悩んだ。ミーナとエミリオのことをフランチェスカにどう話すべきか。
今夜ロレンツォが黙っていたとしても、近いうちに必ずどこからかフランチェスカの耳に入るだろう。ならば、ロレンツォの口から早く伝えてしまったほうがいいに違いない。
ロレンツォは、ミーナが妃教育を受けていることは結局フランチェスカに話さぬままだった。話すべきだったのかと今になって思った。
「お帰りなさい、ロレンツォ」
「ただいま帰りました」
フランチェスカはいつものように笑顔でロレンツォを出迎えると、ロレンツォの腕に彼女の腕を絡めた。
「今日は早かったわね。お夕食、もう少し待っててね」
「あの、フランチェスカ様」
ロレンツォが硬い声で呼びかけると、フランチェスカはロレンツォを見上げて首を傾げた。
「どうしたの?」
「今朝、ミーナ様がスパイ容疑で逮捕されたそうです」
「まあ、そうなの」
そう口にしたフランチェスカの声は平坦で、あまり感情が込められていないように聞こえた。
「エミリオ殿下も監察部に連れて行かれて、そのまま私室で軟禁されております」
さらにロレンツォはそう言ったが、フランチェスカの表情にあまり変化は見られなかった。
だが、婚約破棄騒動の時もフランチェスカは落ち着いていた。彼女は簡単に取り乱したりはしないのだ。
フランチェスカが自分の前でも感情を露わにしないことをロレンツォが少し寂しく感じていると、フランチェスカの顔にわずかに不安が滲んだ。
「ロレンツォは大丈夫なの?」
「私のことよりも、殿下のことを……」
「私にとってはエミリオ殿下よりもあなたのことよ。殿下の護衛だからと言って、ロレンツォが騎士を続けられなくなるようなことはないわよね?」
「それはないと思いますが」
「だったらいいわ」
フランチェスカはそう言うと、ロレンツォから離れてキッチンに戻っていった。ロレンツォは食卓の椅子に腰掛けてフランチェスカの後ろ姿を見つめながら、彼女の心中を思った。
翌日以降もロレンツォはエミリオに会うことができなかった。
日が経って冷静に考えられるようになると、ロレンツォには気になることがあった。エミリオはミーナのスパイ疑惑について知っていたのではないか、ということだ。以前、宰相が口にしたエミリオも知っているはずのミーナの噂とはそのことだったのだろう。
では、エミリオはスパイであるとわかっていてミーナを妃に望んだのか。ロレンツォにはエミリオがそのような人物であるとは思えなかった。
エミリオはミーナを捕らえるために自ら囮になった。そう考えるほうがずっとしっくり来た。だが、いくらスパイであっても王太子の位を賭けるほどの価値がミーナにあったとは考え難い。しかも、エミリオはフランチェスカをも犠牲にしているのだ。
騎士団の中ではミーナやエミリオに関する様々な噂が流れていたが、ロレンツォはそれらには耳を塞いだ。
少しでも正確な情報を聞けそうな相手としてロレンツォが思いついたのは宰相だった。仕事は抜け出せないので、次の休暇に会いたいと申し込んだ。断わられることを覚悟していたが、宰相からは了承の返事が来た。
当日、ロレンツォはフランチェスカには仕事だと言って家を出た。
宰相には朝議の終わる時間に来るようにと指定されていた。ロレンツォは騎士団詰所で騎士服に着替えてから、宰相の執務室に向かった。宰相は不在だったが、ロレンツォが扉の前で待っているとすぐに姿を見せた。
短く挨拶を交わした後、宰相が尋ねた。
「で、わたしに訊きたいこととはエミリオ殿下のことか?」
「はい。殿下はミーナ様の疑惑を知っていて、なぜ婚約者にしようとしていたのでしょうか? 私には何か深い理由があって殿下がそうされたとしか思えないのです。宰相閣下に思い当たることはございませんか?」
「わたしもおまえと同意見だが、理由まではわからんな」
宰相の答えに、ロレンツォは落胆した。
「そうですか。ならば、殿下は罪に問われるのでしょうか?」
「王宮を混乱させたことに対する責任は問われることになるだろう」
「責任とは……?」
「王太子を廃される」
ロレンツォは息を呑んだ。
「そんな、まさか」
「ミーナ・カッローニを婚約者にと言っていただけならまだしも、陛下のおられぬ間に勝手にフランチェスカとの婚約破棄を決めてしまわれたということもある。あの方の能力を思えば惜しいことだが」
言葉を失ったロレンツォに、宰相は穏やかな声をかけた。
「おまえが騎士を辞めさせられるようなことはないから安心しろ。今やおまえはこのわたしの娘婿だからな」
ロレンツォは宰相の顔を見つめた。
「フランチェスカは変わりないか?」
「あ、はい。健やかにお過ごしです」
「そうか」
宰相はやはりフランチェスカが今回のことで傷ついていないかと心配だったのだろうとロレンツォは思った。
王宮を出てから、ロレンツォは特にあてもなく歩いたつもりだったのだが、気づくと結婚直後に指輪を買いに来てフランチェスカの姿を見かけた通りにいた。
ロレンツォは前回と同じカフェに入り、コーヒーとサンドウィッチを注文した。
またフランチェスカが通るのではと外を眺めていると、突如、ロレンツォの名を口にするフランチェスカの声が後ろのほうから聞こえてきた。
ロレンツォがギクリとして慎重に振り返ると、少し離れた席にアルマと向かい合って座るフランチェスカの後ろ姿がすぐに見つかった。
「私はロレンツォに何と言ったらいいの?」
「正直にすべてお話しになればいいのですよ」
「でも、ロレンツォはきっと怒るわよね」
「ロレンツォ様はお優しいといつも仰っているではないですか」
「そうだけど……」
「そのように弱気なのはお嬢様らしくありません。ずっとあの方のために努力されてきたのでしょう。今さら諦めるおつもりですか?」
「いえ、諦めるなんてできないわ。私はずっと待っていたのだもの」
「でしたら、しっかりしてくださいませ」
「そうよね。だけど、どうしてロレンツォは嘘を吐くのかしら」
ロレンツォはそっとカフェを出た。頭の中はさらに混乱していた。
もしかしたら、ミーナのことはフランチェスカも知っていたのだろうか。いつかこうなるとわかっていて、ロレンツォのもとでエミリオを待っていたということか。
夜、部屋に戻ってからも普段どおりに振る舞うフランチェスカに問いただすことはロレンツォにはできなかった。
5日後。ミーナは正式にスパイ罪が確定し、即時に国外追放とされることが決まった。
粗末な服に身を包んだミーナは移送馬車に乗せられてもなお「わたしは王太子妃よ」と騒いで暴れたらしいと、ロレンツォは後から聞いた。
さらに翌日、エミリオが王太子を廃されると発表された。それだけでなく、エミリオはしばらくの間生活できる程度の金品を与えられて王宮を追われ、平民として暮らしていくことになるという。
ロレンツォが許可を得てエミリオの私室に向かうと、半月ぶりに会うエミリオはすでに王宮を出る準備を終えていた。
「殿下」
ロレンツォの声に顔を上げたエミリオの表情は、以前のままだった。
「ロレンツォ、わたしはもう王太子ではないぞ。ただのエミリオだ」
「私にはわかりません。なぜこんなことになったのか、説明してください」
「そうだな。おまえにはそれを聞く権利がある。だが今は時間がない。次に会った時に必ず話してやろう」
「また会えるのですか?」
「ああ。おそらく、すぐにな」
エミリオはフッと笑みを浮かべると、ロレンツォの前から足早に去って行った。




