1 王太子と婚約者
よろしくお願いいたします
「フランチェスカ・ヴィオッティ、おまえとの婚約はなかったものとする」
とある公爵家主催の夜会において、王太子エミリオ・セバスティアーニ殿下がそう宣言するのを聞き、ロレンツォは自分の耳を疑った。
子爵家の三男に生まれ、体だけが取り柄だったロレンツォにとって、騎士になることは自立するための唯一の道だった。
ロレンツォが王太子殿下の専属護衛になったのは1年半前のこと。毎年春に行われる騎士団の剣術大会が終わった直後、エミリオに呼び出されたのだ。
「おまえ、面白いな。わたしのところに来ないか?」
4位という微妙な結果だったロレンツォは首を傾げたものの、有能と評判の2つ歳上の王太子殿下から直々に声をかけられたのは名誉なことに違いなかったので、その場で受けることを決めた。
エミリオに仕えはじめた最初の日に、ロレンツォはエミリオから彼の婚約者を紹介された。
「初めまして、ごきげんよう」
柔らかな微笑みとともに挨拶をくれたフランチェスカに見惚れてしまいそうになり、ロレンツォは慌てて視線を逸らした。
「初めてお目にかかります。王太子殿下の護衛を務めることになりましたロレンツォ・ディアーコと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「ええ、こちらこそよろしく」
宰相ウルバーノ・ヴィオッティ侯爵の次女フランチェスカは、同じ歳のエミリオ王太子とはもともと幼馴染だった。美しく聡明で、エミリオとの仲も良好だった彼女が王太子の婚約者に選ばれたのは自然なことだろう。
将来の王太子妃として毎日のように王宮に上がり妃教育を受けていたフランチェスカは、いつも帰る前にエミリオの執務室を訪れていた。
エミリオとフランチェスカは一緒にお茶を飲みながら会話を楽しんでいるようだった。執務室の外に立つロレンツォの耳には内容までは聞き取れなかったものの、ふたりの声は途切れることなく届いた。
フランチェスカが帰る折には、エミリオはロレンツォにエントランス近くで待っている馬車まで彼女を送り届けるよう命じた。
「王宮内の移動にわざわざ騎士のあなたを煩わせて、ごめんなさい」
フランチェスカは申し訳なさそうにロレンツォに言った。
エミリオ自身はむしろひとりで行動したがり、護衛をたびたび困らせているくらいだった。
「いえ、殿下がフランチェスカ様を大切になさるのは当然のことですから」
ロレンツォが思ったままを口にすると、フランチェスカは仕方ないという顔で微笑んだ。
数か月が経ったある日、いつものようにフランチェスカを迎え入れた執務室の外にロレンツォが立っていると、突然中から扉が開けられてエミリオが顔を出した。
「ロレンツォ、ちょっと来い」
不思議に思いながらもロレンツォが室内に入ると、ソファに座っていたフランチェスカが珍しく硬い表情をしているのが見えた。その向かいに腰を下ろしたエミリオが、テーブルの真ん中に置かれた小さな箱を示しながら言った。
「おまえも食べてみろ」
中身はクッキーのようだった。だが、ロレンツォが知っているものに比べて少し形が歪に見えた。
「私は勤務中にございます」
「摘んで口に放り込むだけのことだろう」
エミリオにそう言われ、ロレンツォはクッキーをひとつ摘むと口に放り込んだ。エミリオとフランチェスカがジッと窺ってくるので、ロレンツォは落ち着かない気分でそれを咀嚼し、呑み込んだ。
「どうだ、美味いか?」
エミリオに訊かれ、ロレンツォは正直に答えた。
「私の口には少し甘過ぎます」
ロレンツォの言葉にフランチェスカががっくりと肩を落とし、エミリオはしたり顔になった。
「やはりそうか。残念だったな、フランチェスカ」
ロレンツォが首を傾げると、エミリオがさらに言った。
「フランチェスカが初めて作ったのだ」
ロレンツォは目を瞠り、それから慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。失礼なことを言いました」
「いいえ、同じことをエミリオにも言われたの。気にしないで」
落ち込んだ様子のフランチェスカに掛けるべき言葉が見つからず、どうして先に教えてくれなかったのかと思いながらロレンツォがエミリオを見ると、それを察したようにエミリオが言った。
「誰が作ったものかを聞いていれば、おまえは世辞しか口にせぬであろう。正直な意見を聞けたゆえ、フランチェスカは次はもっと美味いものを作ってくるはずだ」
その言葉にはフランチェスカをよく知っているエミリオだからこその、彼女への信頼が感じられた。
「ええ。今度こそふたりに美味しいと言わせてみせるわ」
そう決意を口にしたフランチェスカは、それから週に一度くらい手作りの菓子を持って来るようになった。そのたび、エミリオは当然のようにロレンツォを室内に呼んで味見させ、もしもロレンツォが外出や休暇などで不在ならわざわざ取って置いて後で食べさせた。
ロレンツォは甘い物があまり好きではなかったし、毎回感想を求められるのにも困ったが、フランチェスカがそれを作る姿を想像すると断わることもできなかった。
その甲斐あってか、フランチェスカの菓子作りの腕はどんどん上達していった。エミリオが美味いと言い、ロレンツォがそれに同意すると、フランチェスカは嬉しそうに微笑んだ。
エミリオとフランチェスカは本当に仲睦まじく、このまま結婚して似合いの夫婦になるのだとロレンツォは思っていた。
状況が変わったのは3か月ほど前、エミリオの周りをひとりの令嬢がうろつくようになってからだった。
彼女はミーナ・カッローニ男爵令嬢といった。カッローニ男爵が平民に生ませた庶子で、市井で育ったが母親が亡くなったために男爵に引き取られたらしい。
ミーナは社交界で噂になっていた。何人もの男性を誑かしている、と。噂などというものには疎いはずのロレンツォの耳にまで聞こえてきたくらいだから、知らない者はいないだろう。
最初エミリオはミーナをまったく相手にしておらず、だからロレンツォもそれほど警戒はしていなかった。
しかし、夜会や茶会あるいはちょっとした公務などエミリオの行く先々にミーナは現れるようになった。なぜ彼女が王太子の行動を熟知しているのかわからなかったが、もしかしたらミーナに誑かされたという男たちの中にエミリオに近い者がいたのかもしれない。
そうこうするうちにロレンツォが気づけば、エミリオがミーナと一緒にいる姿を見る機会が増えていった。
フランチェスカをエスコートして参加したはずの夜会で、エミリオは婚約者を放り出してミーナとダンスを踊っていた。茶会にはフランチェスカを誘わずに、ミーナを連れて行くようになった。
「殿下の婚約者はフランチェスカ様です。あの方を蔑ろになさるのはおやめください」
自分がエミリオに対してそんなことを言うべき立場でないことは承知していたが、ロレンツォは言わずにはいられなかった。
「おまえの主はフランチェスカではなく、わたしだ」
エミリオは冷たくそう答えただけだった。
やがてミーナはエミリオの執務室に入り浸るようになった。執務室に出入りする官吏たちがミーナのことを良く思うはずがなく、だが面と向かって王太子殿下に苦言を呈する者は少なかった。
妃教育を終えて執務室を訪れるフランチェスカは室内に入ることを許されなくなり、いつも戸の外からエミリオに挨拶だけして帰ることになった。
ただ、エミリオがフランチェスカを馬車まで送るようロレンツォに命じることは変わらなかった。そして、フランチェスカが申し訳なさそうな顔でロレンツォを見上げることも。
エミリオに会えなくなっても、フランチェスカは婚約者のために手作りの菓子を持って来た。
「ロレンツォ、今日はマフィンを焼いて来たのだけど、良かったら食べてもらえるかしら?」
ロレンツォはフランチェスカから受け取ったマフィンを、ミーナが帰った後でエミリオに渡そうとした。エミリオはそれを見ることもなく言った。
「そんなものは要らぬから捨てろ」
「……わかりました」
ロレンツォはマフィンをこっそり自宅に持ち帰った。甘い物が苦手なロレンツォがひとりで食べるには多すぎる量だったが、フランチェスカの想いを考えると捨てることなどできず、無理矢理すべてを口に運んだ。
翌日、フランチェスカにマフィンの感想を訊かれロレンツォがとても美味しかったと答えると、フランチェスカは嬉しそうに微笑んだ。
それからもロレンツォはフランチェスカから菓子を渡されるたび、エミリオには何も告げず持ち帰った。
ロレンツォはエミリオのことを尊敬できる主だと思っていた。王太子として、さらには国王としてこの国を正しく治めていく方だと。
その横に立つ妃としてフランチェスカほど相応しい女性などいるはずがない。エミリオはそれをロレンツォ以上に理解しているはずだ。ミーナなどという娘にのぼせあがっているのも今のうちだけ。きっともうすぐエミリオは我に返り、だだひとりの婚約者のもとに戻ってくる。
ロレンツォはそう信じていた。