夜道
最低限の薬剤と器具を入れた革のドクターズバッグを手に、清滝は診療所を出た。
春の夕暮れ、未舗装の道ばたには菜の花が咲き乱れ、小学校の校庭の桜は散り始めていた。数軒ずつ肩を寄せ合うように建つ家々からは、夕餉の匂いと話声が聞こえていた。子どもの笑い声に、清滝の頬も緩む。やがて、しろ掻きが終り水の張られた田んぼの横を通る。防風林に仕切られた大きな茅葺きの家からはもれた明かりは、田んぼの水かがみに映って揺れる。蛙の声が聞こえている。
暖かな風を感じながら、清滝は稲荷の前を行きすぎ、雑木林の中の一本道に入った。
とたんに、ひやりとした空気が山から吹いて来るのが分かった。楢や杉の枝葉に遮られて、残り僅かの夕日も足元までは届かない。自分も明かりを持ってくればよかったと清滝は後悔した。それに、林の奥へ行くほどついさきほどのまでの昼間の余韻はいずこへ消えたものか、足元から冷え込んできた。見ると、白い霧の帯が流れ始めている。清滝は白衣の襟を立てて掻き合わせた。足が思わずすくむ。このまま山へ入っていっては危険ではないか。まだ里山に近いとはいえ、実際春先に山菜取りに行った老人が霧にまかれて山で道に迷い、衰弱死したのをこちらに赴任してから何件か見ている。
胸のあたりまでのぼってきた霧に包まれながら、それでも清滝は足をすすめた。もう少し行けば、橋があるはずだ。永くはないという患者をほおって帰るわけにはいかない。
一歩一歩道を確かめるようにしながら、清滝は進んだ。山のなかを縫うように細い道を行くと、前方に灯りが見えた。霧の中におぼろ月のように浮かんでいるように感じられた。
かつん、と足が硬いものを踏みしめた。石の橋だろう。
「診療所の先生でらっしゃいますか」
耳にした声は、水琴窟の響きに似ていた。深い甕にぶつかり硬質に跳ねる音に。清滝は前方に目を凝らした。カンテラの明かりがすうっと持ち上がり、夜露を避けるためかショールで頭を覆い、目ばかりを見せた着物姿の女性を浮かび上がらせた。
清滝は言葉も忘れ、ただうなずいた。清滝の声に、女性はゆっくりと腰を折り、頭を下げた。
「こんな時刻にありがとうございます。お電話をさしあげた、渡利と申します」
「き、きよ滝です」
わずかとはいえ、距離をあけているというのに女性からは淡く花の香りがした。
「わたくしどもの家は、すぐそこです。ご案内申し上げます」
そういうと、カンテラを清滝に渡し、女性は闇の中をすいと泳ぐように歩き出した。カラコロと下駄が石を踏む音が響く。よく見えないが、谷のあいだを通っているのだろうか。空を見上げても乳白色の霧に阻まれ、月すら見えない。女性には慣れた道なのだろうけれど、迷いのない足取りに清滝はついて行くのがやっとだった。
いくつかの坂をのぼり、くだり、清滝の息があがるころ両側にあった閉塞感が消えて谷を抜けたように感じた。
「こちらです」
膝に手をあて、呼吸を整えた清滝が顔をあげると、正面に大きな屋根があった。二間はあろうかと思うような玄関、両側には提灯がつるされていた。
「どうぞ」
引き戸に手をかけた女性がショールを外すのと時を同じくして、一陣の風が吹いた。見る間に霧が晴れて白銀の月の光が全身を明るく照らす。
和装の女性が微笑みかけた。うりざねの輪郭に、くっきりした眉。目は優し気に下がり気味で唇はふっくらとしている。
「……」
清滝は言葉を失い、女性を見つめた。
不思議そうに首をかしげる女性の肩を射干玉の長い髪が滑り落ちていく。
雪路ねえさん……清滝は胸の中で姉の名を呼んだ。
プロット、書くから!! ←いまから!?