診療所
「わたしは回復するのだろうな、藪医者殿」
座敷の真ん中に敷かれた布団から白皙の青年が、眼鏡の医師に訊ねた。枕元にともる行灯に照らされる病みやつれた顔は、それでも美しく整っている。藪医者といわれた清滝は何も答えず、青年の脈を取った。
「十楼さん、清滝先生にそんな言い方は」
足元に単座していた女性が十楼を静かに諌める。幼い頃はきっと市松人形のようであったろうと想像に難くない女性を清滝は無言で見つめた。銀ねずの江戸小紋にえんじ色の格子柄の名古屋帯を締め、髪は背中を重たげに流れ畳まで届いている。
「だまれ、姉さま……十桜子、腹の中で笑っているのだろう。無様な末代のわたしを」
浴衣をまとった十楼の体は、鎖骨が浮き上がり夜具にのせた手は枯れ枝のようだ。すでに足は萎え、歩くどころか起き上がる事さえ困難だ。
「桜が散る前に……」
清滝の背後には、庭を覆うように枝を広げる満開の桜が、春のおぼろ月の光をうけて静かに輝いている。
「まだ、なすべきことが」
今までに幾度となく聞いた言葉。まるで呪詛のようだ。清滝は革製の黒い鞄のなかから、ガラスのアンプルを取り出すと栄養剤を注射器の針で吸い上げた。それからアルコールの脱脂綿で十楼のひじの内側を消毒した。束の間、消毒薬の匂いが漂う。
「よ、よくなりま、すよ」
清滝の吃音は生まれつきだ。
――英は嘘が下手ね――亡き人の言葉をふと思い出す。清滝は静脈を慎重に探り、針を刺す。
十楼の眉間に小さく皴が寄る。
清滝がこの美しい姉弟に会ったのは、里の桜が散るまぎわだった。
「清滝先生、もう閉めますからね。診察時間はとっくに過ぎたんだから。山川さんも早く帰りな」
曲った腰を伸ばして看護婦のトミがノックもなしに診察室のドアを開けた。
「いや、俺はまだ先生に聞いてもらいたいことがあってだな……」
首に手ぬぐいを巻いた中年の山川は、患者用の丸椅子を回転させて振り返り、トミに食い下がった。
「いくら先生が聞き上手だからって、カミさんの愚痴なんぞ清滝先生に聞かせるんじゃないよ。ほら、薬はこれだ」
ぐいぐいと部屋へ入ってくると、トミは山川の胸へ薬の袋を押し付けた。
「先生は朝から急患が来て大変だったんだ。あんただって、田植えが近いじゃないか。準備もそっちのけで昼からここにいてさ。油を売るのは今日だけにしときな」
農作業をさぼったことを指摘されると、さすがに気まずく思ったのか、山川はしぶしぶと立ち上がり帰っていった。
「あ、ありがとぅ、っトミさん」
トミはため息をつくと、大儀そうに腰をこぶしで何度か叩いた。
「もっとはっきりと言わないと、ただでさえ一日中忙しいんだから」
清滝は曖昧に微笑みを作りながら、聴診器をはずし机の上を整理した。トミは診察室を抜けて治療室へ回ると、水のはられた金盥の中から使用済みの注射器や注射針を高圧蒸気滅菌器にセットすると電源を入れた。高圧蒸気滅菌器は過疎地にある診療所の唯一の最先端機器と言って差し支えない。
革張りの長椅子、眼科の治療用の椅子、二台の足の高い注射台には止血用の長いゴムがそれぞれかかっている。トミは注射の薬液や脱脂綿の入ったガラス瓶を戸棚にしまい、小さな治療室をきれいに整えていく。
「桜ももう終わりだね」
トミが床を拭くモップの手を休めて窓の外を見た。清滝も作業の手を止めて窓を見やった。診療所の敷地の隅に咲く、ソメイヨシノは花の盛りを過ぎ、わずかな風にも花びらを散らしている。
「こんばんは、おばあちゃんのお迎えに来ました」
カーテンを引いた入口の扉をノックする音がして、清滝とトミの二人は短い花見を終えた。
はいはい、とトミは玄関まで行きカーテンをわずかばかり開けて、おさげ髪に赤い頬の少女を招き入れた。
「蓉子、今日はまた大荷物だね」
トミが蓉子が持ってきたお盆に鼻を寄せると、蓉子は慌ててトミから遠ざけた。
「これは……清滝先生のお夕飯になればと思って」
布巾をかけたお盆を手渡された清滝は、蓉子に頭を下げた。トミが近寄って布巾をひょいとどけた。タラの芽の天ぷら、蕨のおひたし、三角のおにぎりが二個、それぞれ皿にのらせれていた。
「い、いつもありがと。……よ、蓉子ちゃん、料理が、じ、じょうずだ」
おさげを揺らして、蓉子ははにかんで笑った。学校から帰ってすぐに調理をしたのだろうか。蓉子はボックススカートに白いブラウスという看護学校の制服のままだった。
「ああ、今夜は焦げた天ぷらと煮すぎた蕨に決まりだね。出来のいいやつは、そこの盆のうえだ」
脱いだ予防衣をたたみながらトミが天井を向いた。
清滝が首をかしげると、蓉子が真っ赤になってうつむく。蓉子が言いつくろう前にトミは答えた。
「先生に差し入れするために、張り切って料理してきたんだよ。おおかた張り切りすぎて、山ほど失敗させてね」
蓉子が短く悲鳴を上げて背後からトミに抱きついた。
「もう! 言わないで、おばあちゃん!!」
「ざんねん、あたしゃ蓉子のお祖母ちゃんじゃないよ、大伯母だからね」
「いじわる!」
「ついでといっちゃなんだけど、蓉子が看護学校を出たらここで雇ってくれないかね? いや、ちょっと歳は離れているけど、いっそ嫁にしてくれんかね」
さらに赤くなった蓉子は、こんどこそ悲鳴をあげて診療所の外へと飛びだしてしまった。
蓉子の悲鳴に目を丸くした清滝は、それでも二人のやりとりに、思わずふきだした。
「ようやく笑ったね。今夜は早く休みな。『なんでも屋』の診療所は明日だって忙しいよ」
清滝はうなずくと、トミを玄関まで見送った。トミは荷物をまとめた風呂敷包みを胸にかかえて、桜の木の下でふてくされている蓉子の後ろ姿に声をかける。
蓉子は恥ずかし気に少しだけ清滝のほうに頭を下げると、トミと手をつないで帰っていった。
清滝は診療所の入り口を施錠して、お盆をもって診療所の棟続きの住宅側へと移動した。もともと、都市部にある大学病院の分院という名の山間にある診療所だ。赴任した医師が住めるようにと、平屋の住宅が診療所と短い廊下で鍵の手に繋がっている。
炊事場と四畳半が二間、風呂と手洗いは別棟だ。独り者の清滝が住むには十分すぎるほどの広さがある。仕切りのドアを開けて、手前の部屋の箪笥のうえの小さな仏壇に、差し入れの盆をのせて手を合わせる。仏壇に位牌が三柱おさめられている。
それから、白衣を脱いで奥の炊事場で手を洗っていると、診療所のほうで電話のベルが鳴った。
田舎とはいえ病院という仕事柄、大学病院側でまだまだ珍しい電話を診療所に設置したのは、清滝が赴任したのと同じ五年前だ。
清滝は手を拭きつつ、診療所へ取って返した。
受付の窓口のカウンターに電話はある。待合室は夕日がカーテン越しにさしこみ、オレンジ色に染まっている。電話は鳴り続けていた。電話を持っているところは限られている。たぶん、駐在所か少し離れた駅からだ。清滝は受話器を取る前に深呼吸した。落ち着け、ゆっくりとなら大丈夫、と。
「……はい、お、尾国山し、しんりょう、じょです」
束の間、通話が切れたかと思うような沈黙があった。首を傾げた清滝がもう一度話しかけようとしたとき、応答があった。
「往診をお願いしたいのですが」
予想に反して、個人からのものらしい。くぐもってはいるが、若い女性のように思えた。
待合室の柱時計を見上げた。まだ外は明るいとはいえ、時刻は六時を過ぎていた。
返事をしあぐねる清滝に、電話の女性は続けた。
「弟がどうしてもお医者様に看てほしいと」
「どんな、ごようす、で……」
清滝が聞き返したことで安心したのか、女性は続けた。
「もうずいぶん前から床に伏せております……あまり永くないように思えます」
声ははかなく消えてしまいそうに感じられた。清滝の背筋がすっと伸びた。
「う、うかがい、ます」
ほっというため息が受話器を通してかすかに聞こえた。
「先生のことは存じ上げています。失礼とは思いますが、了解いただけたなら一度、不明でしたら二度、受話器を指で叩いてくださいませんか」
込み入ったことでなければ、そのほうが手っ取り早い。清滝はうなずくと、受話器を一度叩いた。
「わたくしの住まいは、分校の隣のお稲荷さんの道をまっすぐに行った先です」
一度、叩く。しかし、ふと疑問がわく。小学校の分校は診療所からも近い。稲荷神社の場所も分かる。けれど、その先に民家などあっただろうか。
「林道をしばらく進むと、石の小さな橋があります。わたくしはそちらでお待ち申し上げます。すぐにわかるよう、灯りをさげておりますので」
こちらへ赴任して五年、集落を完全に把握しているかといえば、自信はない。清滝の知らない場所もまだあるのだろう。
女性の声に、また一度叩く。
「では、わたくしは今から橋へ向かいますゆえ」
そういって、電話は切れた。清滝は再び白衣を取りに住宅へと戻ると、ついでにおにぎりを一つ口に運んだ。
文学フリマ短編賞エントリー作品
好きに書く。
これは大好きな作家さんへ向けての手紙でもある(どうでもいいことです、はい