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クリスタライズ  作者: 三澤いづみ
綾子のために
8/31

あるいは綾子嬢に捧ぐ最後の花束(1)

 

 

 

 

 

 

 








 白百合が舞い散り、光に溶けてゆく。


 それは白い輝きを跳ね返しながら、キラキラとしていて。

 真っ白で。

 あまりにも、真っ白で……。



 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 


1、

 何もかもが真っ白で、目の痛いほどの眩しさから我に返ると、世界はどこまでも鈍色で描かれていた。川を挟んだ向こう岸こそぼやけて見えないが、臨む地面も、真横にある石榴の樹の葉や果実も、自分の手のひらさえモノクロームと化していた。眼前を流れる長大な川も総じて灰色じみていて、単純な白ではなく黒でもない、つまりは現実味の失せた不気味な色合いなのだが、漫画の一コマに入り込んでしまったような気分にはなったものの、流るる川は川としての機能を備えている風に目に映った。

 ここでは樹木も地面も人間もそういうものなのだ。

 あるべき色の抜け落ちた世界にいることは不思議と恐ろしくはなかった。

 今まさに生まれたばかりの景色を眺めている気分でいるとふわふわとした感覚が自然と沸き上がってきた。詰まりこれは寄る辺の無さだ。土色ではない大地を踏みしめる足下の無感覚もそうだし、自分というのがどこからどこまでを指すのかも不明瞭だった。途方もない寂寥に取り残されていると思うと誰かに迷惑をかけてしまう不安を持った。いっそ目の前にある無色ではあるが透明ではない、この急流に足を踏み入れてみようか。

「贅沢な行水ね。水底に沈むのはお薦めしないよ」

 振り返ると、見覚えのない女性が微笑んでいた。愛想笑いではなく、嘲笑でもなく、当たり前の笑い方。世界から嫌われているかのように、彼女は鮮やかな色を持っていた。墨絵じみて灰色ばかりの景色にひとり、まっとうな色彩を持っている。それを羨ましいとは思わなかった。遠い、と感じた。そんな感想を抱いた自分を見透かす視線を向けられ、妙に恥ずかしくなった。

「かんじんなことは、目に見えないものよ」

 どこかで聞いたフレーズを今告げられたのが不思議な気がした。


 白磁の肌と黒曜石の瞳。目に掛かるくらいの前髪に、肩までかかる後ろ髪は漆黒で、首もとの朱が滲む肌とのコントラストを拡げている。

 リップでも塗っているのか、艶やかな唇と口腔内に覗く赤に、いやに綺麗な歯並びの白が浮かび上がる。同じ生き物であるとは思えないほど身体と容貌の均整は素晴らしく、上から下までの曲線に何ら引っかかる部分が見当たらない。作り物めいているとは一応は誉め言葉になるのだろうか。造形に見惚れる部分もあったが色彩のバランスも完璧で、基本的な人体、あるいは理想的な体型という表現が脳裏を掠めた。

「こっちに来て。向こうで他のお客さんも待ってるわ」

 手招きされて、それから彼女の格好にも意識がいった。

 彼女の全身をまじまじと見た。焦茶色のカーゴパンツを履いて、ゆったりとしたTシャツを着ている。Tシャツの色は白だが、謎の言葉、少なくとも英語ではない記号めいた文字が前面にプリントされており、彼女の若干大きい胸のせいで、そのうねった文字が横にだらしなく引き伸ばされている。

 ずいぶんとラフな格好だ。さらには上から萌黄色のパーカーを羽織り、手の持ったリュックサックは赤茶けた錆色だった。彼女の格好はその人体そのものとは裏腹にあまりセンスのない、もっと言えば趣味の悪い色の組み合わせなのだが、この滑らかな白黒の世界にあってひどく場違いな感じだった。

「ほら、どうしたの。こっちよ」

 彼女は、いつまでも動こうとしないこちらを困ったように見つめ、ああ、と芝居染みてぽんと一回手を叩き、ゆっくりと近づいてきた。

 歩く動きは軽やかで、その代わりにやわらかく重たげな胸が上下に揺れる。脚線も腹部のなだらかな膨らみも痩せすぎず太くなく肉感と繊細さを上手に混在させている。薄い手の甲は張り詰め、開いた手のひらは優しげで、指先は丸く、なのに爪の先は鋭い。今見えない臀部はなで回したくなるような形状に違いない。

 Tシャツの胸元から覗く包容力に満ちた二つの塊はどうにも自分を惹き付けてやまない。汗が触れ合うときの何とも言えない不思議な手触り。するすると滑っていく動きと感触の行く末にまで思いを馳せる。

「自分の状況が分かってないんでしょ。たまにいるのよね、そういう子」

 手のひらを見た。それだけが自分の証明であるかのように。

 あるべき真っ白な手のひらは見当たらず、視線は空白を突き抜けて、ただ灰色の地面へと突き刺さる。

「焦らない焦らない。まず深呼吸よ。ほら」

 焦燥も切迫感もゆるやかに落ち着いていく。静かな声だ。やる気のない声と表現すべきかもしれない。投げやりではないが、熱心さなど微塵も感じ取れない、コンビニのベテラン店員が大量に並んだ客を手際よく捌くのと似た、丁寧そうで簡単で、しかし作業以上の意味のない気楽な声。その声は厳かさとはかけ離れ人間味に溢れている。

 深呼吸をする。呼吸が出来るのなら肺があり、喉があり、口があるということ。そんな当然の事実が思い出されるまで数分以上かかった気がした。

 彼女は静かに続けた。

「落ち着いたら自分の名前を言ってみよっか」

 どうしてか思い出せない。これまで何百何千と呼ばれてきた名前。名前とは己を規定する二つ目の器だ。大切で、とても尊いものだ。それを失ってしまえば自分が何者であるかが分からなくなってしまう。

「じゃあ、これから言うことを聞いても暴れたり逃げ出したりしないように。大事なことだから」

 頷いた。頷いたからには、頭か顔がある。自分は身体と名前で出来ている。その二つを失ってなお残っているものが何なのか知らない。ずっと知らなかった。

「そこにあるのが三途の川ってやつ。此岸と彼岸を隔てるもの。あの世に流れてる川なんだけど、聞いたことくらいあるでしょ」

 あの世なんて存在するはずがない。咄嗟に口をついて出たが、彼女は申し訳なさそうな口調でこう説明してくれた。

「あたしも細かい仕組みや規則を説明できるほど詳しくないの。家電製品にさ、テレビとか電子レンジってあるでしょ。子供でも年寄りでも使うのは簡単だけど、その仕組みまで理解してるのが何人いるかって話。知らなくても利用者には何ら問題はない。理屈が分かってた方が便利に使えるかもしれないけどね」

 彼女は目を細めた。

「あなたは船に乗って、向こう岸に行かなきゃいけない。みんな、もう船に乗ってるの。わがまま言わずに素直についてきてちょうだい」

 顔に出ていたらしい。自分には顔があるのだ。そんな些細なことがうれしかったが、彼女は顔をしかめた。長々としたため息まで付け加えられた。

「長い船旅じゃない。見ての通り、あんまりいい景色じゃないけど、見納めだと思ってゆっくりしていってね」



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