ミダス王たち(7)
7、
その日、三田の妻は帰って来なかった。
翌日も、翌々日になっても帰らなかった。ようやく事態を把握した三田だったが、面倒くさそうに自分の食事の心配をしているばかりだった。
「まったく。何日も家を空けて、あいつは何やってるんだ。心配かけやがって。お前もそう思うよな」
同意を求められた。嘆息し、僕は、彼女に連絡を取らないのかと尋ねた。三田は鼻白んだ。
「大丈夫だろ。あいつもいい年だし」
彼は困惑した表情になった。重ねて尋ねた。
彼女の実家に連絡してみたらどうか。アドレス帳に連絡先は乗っているのだし。
「腹減った、昼飯を買ってくる」
僕の提案に答えず、三田は機敏な動きで出て行った。
「美味そうな弁当を買ってきてやったぞ」
白いビニール袋を手に戻ってきた。僕の言葉は聞かなかったことにされた。
僕は弁当を受け取り、目を伏せた。しなびたキャベツと、ぱさぱさとした安いトンカツとを交互に口に運ぶ。
僕は彼女の行方を知っていた。三田自身の言葉で聞かれない限り、自分から教えるつもりはなかった。口止めされていたし、彼が連絡を取ろうと考えれば、それは難しいことではなかった。
「お父さんの番号だけ、着信拒否にしてあるから」
彼女はそれしか言わなかった。僕の携帯電話を使えば、ちゃんと繋がるのだ。親しい友人にも、彼女の実家にも、本人と連絡を取る手段はあった。
三田が直接やり取りが出来ないだけで、連絡を取る手段はどこにでも転がっているはずだった。
もしかしたら、直接電話をかけることすら、一度もしなかったのかもしれない。
彼は決して怠惰ではない。ブログに熱を上げていた時期は、一分一秒を疎かにせずひたすらキーボードを叩き続けていた。
ブログのネタ集めのためにこまめに外出もしたし、代わり映えのしないアクセス数の増加を確かめるため、暇さえあればネットを覗いていた。
その積極性、情熱を、どうして他のものに向けることが出来ないのか。
ふとした瞬間、三田の本心を垣間見た。彼は言った。
「なんだよ。あいつ、何がしたいんだ。何度も旅行に連れて行ってやったのに。いっつも俺を困らせることばっかりしやがって」
黙って席を立った。それ以上同じ場所にいられなかった。
彼は独りだった。彼の世界には、自分しかなかった。彼の家族は、彼にとって一個の人格を持った存在とは認められていなかった。
そんなの分かりきっていた。なのに僕は、こんなにも衝撃を受けて、こんなにも落胆していることに初めて気がついた。
彼女がそんな三田をこれ以上なく知悉していたことに、ようやく理解が及んだ。
彼を変えることは出来ない。彼自身はそれで満ち足りているのだから、どうして今から変化を許容するだろう。今だって不自由を感じていない。
世界がどう見えている。他者をどう捉えている。
どうしたらこんな人間になってしまうんだ。どうしたら、こんな人間でいることに耐えられる。
日々が過ぎてゆく。
三田の妻は家を出たままだ。一度も帰って来ていない。
久しぶりに、荒れ果てた彼のブログを覗いた。謝罪の文面があった最上段には広告が表示されており「上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます」との文言があった。
画面の左下に目を移すと、三田の設置したアクセス数解析はまだ生きていて、来訪者数には「2」とカウントされていた。僕以外にも見に来た誰かがいたのだろう。
もはや火種になることはないと判断し、僕はそのブログの閉鎖手続きをした。
息を潜めて書いている最中、見知らぬ名前での手紙が届いた。
彼女の偽名だった。
まず僕の体調を気遣う内容、それから自分は仕事を見つけ、元気でやっているとの短い文面がある。
最後に優しい字で、あなたもお父さんとそっくりね。
そんな一言が書き添えられていた。
素早く読み終えると、三田に見つからないよう、くしゃくしゃに丸めて灰皿の上に乗せ、ライターで火を付けた。
広くない部屋の中、小さな炎は震える紙を食らいつくし、ぼやけた壁に、立ちすくむ僕の後ろに、紫がかった影を呼び出す。
揺らめく光に触れるたび、灰と煙が生まれては死んでゆく。このとき僕は息することも忘れ、手のひらをじっと見て、見続けた。 (了)