ミダス王たち(6)
6、
その後の話となる。
平穏が戻った。ブログ炎上の後始末は上手くいった、と思う。
三田の個人情報が大なり小なりばらまかれはしたが、幸いと言うべきか、妻子については最後まで伏せられたままだった。
数十万人が目にしたまとめサイトも、いつしかネットの海の底へと沈んでいく。
あの広大な海では、すでに終わってしまった話題に目が向くことは少ない。
誰かの昔語りのなか、あるいは類似の案件が飛び出してきた頃に引き上げられ、ふと目を通すものもいるだろう。だが、そのとき蘇るのは残骸に過ぎない。終わってしまった祭りに残るのは、美しい思い出とわずかな寂寥ばかりだ。
ゆっくりと、確実に、誰もが忘れていく。
その儚さはアクセス数と似ている。自分の手のひらを、誰かの屍の上を、数え、示し、ただ通り過ぎていく。幸い、三田の友人には知られなかったと思われる。彼の年齢が年齢だ。友人もこの手の話題に疎いことを願うばかりだ。
近所の住民には気づかれたかも知れない。
しかし直接こんな話題をぶつけてくる者はいなかった。
一時の恥。そう信じるしかない。
三田も、妻も、表面上は以前通りの顔を取り戻している。
僕も倣った。何も問題は無い。そう信じ込むことが平穏を取り戻すための一番の近道であると経験として知っている。一方で、彼が成長しなかった事実をも含んでいる。
三田は変わらなかった。
僕は分かっていたし、三田の妻も知っていた。
本人に理解出来るはずもない。ならば、この結末は予期して然るべきものだった。ただそれだけのことである。三つ子の魂とは良く言ったものだ。この場合は羮に懲りて、と続けるべきかもしれない。ネット。アクセス数。ブログ。手段に過ぎないものに拒絶反応を示したが、これだけで彼の本質が変化するわけがなかった。
一度痛い目を見たから近づかないようにする。
それは進歩かもしれない。だが、どうして失敗したか。そこに意識を振り分けることがないから、当然のように同じ失敗を形を変えて繰り返す。彼は最近、また精力的に旅行に行きたいと言い出している。
目的は山とか、滝とか、海といった場所。ネットが人工物の極みであるとすれば、その逆側へと走りだした。彼の信奉が、自然にすり替わった。単に優先する対象物が変わっただけで、これを成長と呼ぶことが出来るだろうか。三田はネットをこき下ろし、ブログに嵌っている連中を愚か者呼ばわりし、電気の通じてすらいないような僻地に居を置く人々を褒め称えた。
「お前、田舎に引っ越したいだろ」
三田が笑いながら言った。僕は聞かなかったことにした。
具体的な案があるわけでもない。いま住んでいる場所を離れる理由だってない。
極端にお金に困っているわけではないが、かといって新しく家を買ってそこに住処を移すほど有り余っているわけでもない。
思いつきで言い出したくせに、勝手に動く可能性を考えると、それを無視し続けるわけにもいかない。
タバコを買いに家を出た隙を見計らい、僕は相談した。
「そう」
彼女は疲れたように笑った。僕の焦燥をよそに、彼女の目は黒く澄んでいた。
三田がさっさと帰ってきてしまったため、話はそれで終わってしまった。
三田の妻は、彼の思いつきで始まり、追い立てられるように支度をしなければならない小旅行に、文句も言わず付き従った。
人の手があまり入っていない、自然目当ての彷徨である。
分かりやすい芸術品の鑑賞は少なく、著名な観光地を目指すわけでもなく、たまに混じる寺社への寄り道だけが楽しみだった。
彼女が不意に漏らす疲れた表情を前にするたび、この二人はどうして夫婦を続けているのだろうと疑問に思った。
あれから半年ほど経ったある日、彼女と歓談しているときのことだった。三田が横から割り込んできて、話題の途中に名前の挙がったミュージシャンをこき下ろした。
「おいおい、そんな曲が好きなのかよ。ああ、若者ぶって、どうせ格好付けて聞いてるだけなんだろ」
紅白出場が決まったばかりで、流しっぱなしのラジオから彼らの曲が流れている。
「薄っぺらいな。声もひどけりゃ音もずさん、ありがたがって聞くヤツの気が知れないな。これが好きとか嘘だろ?」
三田の妻から笑顔が消えた。いつものことだ。僕は聞き流していた。
「お前、もっとセンスを磨けよなぁ」
彼女は不意に立ち上がった。わたし、お前なんて名前じゃない。彼女は一言だけ告げて寝室へと向かい、押し入れを開け、そこから取り出した荷物とバッグを手に、家から出て行ってしまった。
彼女の背中は決意に満ちていた。
三田は古いパソコンのように、凍り付いていた。僕は、外出する際には目的地がどれほど近くても化粧を欠かさない彼女が素顔のまま出て行った意味を考えていた。
ドアが閉まるのと同時に、三田が再起動した。
「あいつどこに行ったんだ。ああ、この時間だと、買い物か。ならビールを買ってきてくれるといいんだが」
独り言だった。なおも、ぶつぶつと文句を言っている。
僕は黙っていた。彼女は近場のスーパーマーケットが閉まる時刻になっても帰宅しなかった。三田が、いかにも不満そうに呟いた。
「まったく。晩飯どうするんだ。おい、腹減ったよな」
インスタントラーメンでも食べてれば、と返した。
「おっ。そうか。どれどれ」
台所の収納部分の扉を開けると、保存食代わりにレトルトカレーや缶詰があり、その一番手前にカップラーメンが五つある。
「いいのがあるな。よっし。俺は醤油味にするか。酒は日本酒でいいや。しっかし、遅いな。あいつは何してるんだ」
そのとき自分がどういう顔をしていたか、分からない。
僕の見る限り、彼は不安を全く感じていなかった。