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クリスタライズ  作者: 三澤いづみ
ミダス王たち
3/31

ミダス王たち(3)


3、

 張り切る三田は、外から見れば微笑ましいかもしれないが、僕の目には厄介なものとして映った。

「この時間で、今日はもう百人だぞ。百人。まあ、昨日は全部で百五十人だったけどな。いやあ、ブログ初心者でも百人来るならなかなかのもんだ。そうだろ」

 僕はそっと大皿を彼の前から遠ざけた。妻はさりげなく身体の向きを変えた。

 三田は満面の笑みで咀嚼を続けた。くっちゃくっちゃと音が聞こえる。

「こないだの写真が良かったんだな。俺から見ても良く撮れてたしよ。あれだ。大雨の下の湖。あんな光景滅多にない。頑張りましたね、なんてコメントまで付いてたぜ。やっぱり見る人が見れば苦労は分かるもんだよなあ」

 彼女は黙々と食べている。三田の手が止まっている隙に、味噌茄子炒めをすくい、ご飯に乗せ、黙って箸を動かす。僕も味噌汁を飲みつつ、三田の喋りを聞き流していた。

 ひと区切り付く頃には、食卓から湯気はすっかり消えていた。三田は手を伸ばし、茶碗の底に触れ、そのまま口を開いた。

「おい、冷めてるぞ」

「すぐ食べないからでしょ」

「……そうだ、これを写真に撮るか。冷めたご飯と味噌汁。こう、ちょっと哀愁が漂って良い感じになりそうだ」

「やめて!」

「おっ、温めるのか」

 彼女は立ち上がって台所に向かい、味噌汁を温め直した。ご飯には少し迷ってから電子レンジを使った。その動きを眺めていた三田は不平をこぼした。

「電子レンジで温めると少し味が落ちるんだよなあ」

「お父さん。いい加減にして」

「事実を言っただけだろ。怒るなよ」

 そのやり取りを横目に、無言で食器を流しに持って行った。戻ってきて、ついでに彼女の茶碗に手を伸ばしたとき、まだ残っていることに気がついた。

「これは」

「そうね。持って来ちゃって」

「なんだよ。俺は一人で食うのかよ。寂しいなあ」

 僕と彼女は絶句した。いつまで経っても食べ進めなかったのは三田自身だ。

 さすがに我慢できず声を荒らげようとした瞬間、彼女と目が合い、もの言いたげな視線で咎められた。

 三田本人はこの雰囲気に気づいていなかった。

「しっかし、毎日百人越えかあ。俺もいっぱしのブロガーだな。昨日来たのより人数減ったのは記事がつまらなかったせいか。……いや、週末だったからだな。アクセスの頻度からすると、平日夜の方が大勢来る傾向があるし。おっと、次の写真も用意しないと。何がいいかな。おい、何か案はあるか」

 今のは質問だったらしい。温め終えた味噌汁を出し、すぐに電子レンジの音が鳴り、それも彼の前に差し出して、彼女は立ったまま静かに告げた。

「いいから早く食べちゃって」

「急かすなよ。急かされたら美味しく食べられないだろ。せっかくお前の作った料理はそこそこ旨いんだからさあ」

「お茶、沸かしてくるわ」

「そこはお湯を沸かす、だろ。沸かしたお湯を急須に注いで、お茶をいれる。日本語はちゃんと使えよ」

 ため息を堪えたのが、分かった。三田はやり込めたことを素直に喜ぶ表情で、温められた食事を食べ進めた。最初に少し食べた味噌茄子炒めを一口、旨い旨いと騒ぎながら、ご飯、味噌汁、おかず、と三角食べの、しかし寒々しい光景は続いた。

 彼女は台所とテーブルの中間あたりに立ち尽くし、彼が食べ終えるまで視線を部屋の隅に向け、ぼんやりとしていた。

 見ていられずに、僕は立ち去った。


「昔は、もうちょっとちゃんとしてたのよ」

 三田が近くの公園に出かけたとき、彼女が不意に言った。

「あんなひとじゃなかった」

 彼女は大きく伸びをしてから席を立った。

 買い置きのクッキーを用意し、紅茶も淹れた。数分待ってから蓋にした皿をどけて、ティーバッグを取り出す。クッキーは一枚ずつ交互につまみながら話した。

「気遣いは下手だったけど、それでも優しかったのよ」

 ふと黙り込んだ。ベランダから夕焼けが見えていた。

「いしやーきいもー、いもっ、おいしいおいもだよっ」

 マンション周辺を回っているらしく、うっすらとノイズ混じりの声が聞こえてきた。だんだんと近づいて、少しずつ遠ざかる。

 季節を感じさせる声だった。

「そういえばしばらく食べてないわね」

 耳を澄ませていたが、やがて声は途絶えた。

 突然現れた静寂に耐えかねて、僕はリモコンを探したが見つからず、テレビの電源ボタンを直接押した。三時間近い昭和の歌謡曲特集、その中程の場面だった。

 郷ひろみや山口百恵、美空ひばりに西郷輝彦、誰が選んだものか分からないが、彼女は懐かしげに目を細めた。昔の映像記録を大放出、とテロップが出ている。

 聞いたことのある曲が多かった。リズミカルなメロディに乗って歌われる声はどれも力強く、最近の曲に感じる異様な速さ、言葉が止めどなく流れ去る様はちっとも感じられなかった。

「やっぱり百恵ちゃんは上手いわ。すごい」

 今聞いても色褪せない曲ですね、と司会者が締めくくり、今度はあみんの「待つわ」が続いた。しみじみと聞いているところに三田が帰ってきた。足音を響かせながら居間に入ってくる。

「お父さん。手、洗った?」

「後で洗う。とりあえずテーブルどかせ」

 テーブルを動かそうとした彼女に、三田は怒鳴りつけた。

「違う! テーブルの上のものをどかせって意味だ! 見りゃ分かるだろ」

 無言のまま、彼女は従った。クッキーと紅茶の入ったカップを手に持ったまま、ゆっくりと台所へと向かった。

 空になった卓上に三田は新聞紙の包みを置き、乱暴に拡げた。中から出てきたのは焼きいもだった。

「買ってきてやったぞ」

「あら珍しい。ありがと」

「待て。写真撮ってからな」

 お預けを食らった犬のように、僕たちは三田の顔を見た。彼がいそいそとカメラを取りだし、テーブルの上に並んだ三本の焼きいもを斜めから撮影するあいだ、寂寞とした気配が室内を満たした。

 冷たい空気は、三田がきちんと閉めなかった玄関のドア、その隙間から入り込んだ風だけではなかった。時間にすれば三分程度。しかし、すっかり冷め切った気持ちで手の取った焼きいもの熱さは、頬張った口の中にあってすら、どこか空しかった。

 食べ終えた三田は大急ぎで書斎へと駆けていった。残された新聞紙と根本の固い部分とを丸めて捨てて、彼女はその背中を目で追いかけた。

「美味しかったわね」

 彼女の声は、自分に言い聞かせるような響きだった。


 三田は、ここ何日かずっと深夜遅くまで起きていた。ブログに何をそんなに書く内容があるのかと僕は不思議だった。

 写真を載せる。記事を書いてアップロードする。来たコメントに返信する。アクセス数を確認する。大体この程度だろう。別に難しいことなど何一つ無い。だが、どうしてか不安だった。

 最初を除いて僕は手を出さなかった。教えるべきものは教えてあった。パソコンが壊れる要因になったり、情報漏洩の危険があるからウイルスやスパイウェアなどについては口を酸っぱくして何度も警告したし、そのたび彼は素直に頷いた。

「大丈夫かしら」

 彼女は心配したが、僕は楽観していた。不用意に変な場所には行かないだとか、初めてのことは慎重にするとか、パソコン特有の注意点は確かに存在するが、ネットなんて基本的には社会生活のルールが分かっていれば問題がないことばかりだ。

 礼儀に気をつければ波風は立たない。犯罪行為はしなければいい。三田は定年まで数十年しっかりと勤め上げた社会人である。やって大丈夫なことと駄目なことの区別くらい付くはずだった。


 変化に気がついたのは、笑顔が溢れていたからだった。僕が訝しがるより早く、彼女が尋ねた。

「どうしたの、何か良いことでもあった?」

 天井を仰いだ。餌を与えないでください、という表示板が切実に欲しかった。三田は上機嫌で語り出した。

「実はな、月間二百万アクセスのブロガーと知り合ったんだ。すごいだろ。二百万だぞ二百万。俺のブログがようやく累計二万を越えたくらいで、その百倍が一ヶ月でそいつんとこを見るんだ。とんでもない数だよな」

「へえ」

 気のない返事に、三田は一層感情を込めて語った。

「いや、あいつ、ネットをやってる女性にすごい人気らしい。毎日数万人が読んでるブログだってのに、少しも気取ったところがないんだ。若いくせに礼儀を弁えたちゃんとした男で、俺のブログに残したコメントもきちんとしてた。ユーモアもあったしな」

 どうやら主体はやはり、三田自身のブログの方らしい。それだけの人物が書き込んだ、というのを自慢したかったのだろう。三田は笑みを深めた。

「おかげで俺のブログは半日で千人も来た。ここんとこずっとアクセス数が三百くらいで頭打ちになってたから、これで新規の読者が増えるだろうな。やっぱり有名なヤツは違うな。俺もあんな風になれると良いんだが」

 それからしばらく三田が自力でブログに施した工夫、アクセス数アップについての方法が説明された。

 ブログの外観を決定するデザインを弄ったり、写真の大きさの変更手段、さらには流行の話題に対するアンテナの感度を高めていることについて、長広舌が振るわれた。

 妻は相づちを打っていた。飲み物が無くなったと三田が騒ぎ出し、彼女がお茶をいれなおした。僕は二人の会話を聞くともなしに聞きながら、新聞に目を通していた。

「あいつの名前はばくさん、って言ってな。ばくさんだぞ、ばくさん。ほら、バクっているだろ」

「個性的な顔の?」

「俳優じゃないぞ」

「じゃあ、どんな」

「バクってのはのっぺりとした顔で、夢を食べるって言われる動物だ。で、自分でさん付けまでしてるわけだ。ばくさん。響きはバクダンみたいだが、文章からするとイケメンだな。ああ、ネット上での名前はハンドルネームって呼ぶんだ。知らなかっただろ」

「知りませんでした」

「やっぱりな。良い機会だから覚えておくといいぞ」

 つくづく彼女もつきあいが良い。

 ともあれ、三田にとって増減するアクセス数は、目に映る人気の量であり、すなわち自分に向けられる賞賛の声に等しかった。

 減れば一日中不機嫌になるし、増えれば満足そうに表情が緩む。誰だって不満げな顔をした人物と一緒にいたいとは思わない。彼女なりの亭主の操作法だったのだろう。三田の言葉を上手く受け流し、余計な火種を燃え上がる前に踏み消していた。

 良い傾向でないことは確かだった。

 誰しもそうだが、都合の良い部分しか聞かないし、見ようとはしない。自分の正しさを確信したとき、他の正しさがあるとは決して認めようとはしないものだ。

 先ほどの会話で、彼女が知っていると答えたら、三田は拗ねて黙り込んだだろう。バクについてもそうだ。

 バクは二種類あって、ひとつは夢を食べるのは中国に伝わる想像上の動物、もうひとつは実在の草食動物。伝説上のバクは象や虎、牛にサイに熊を混ぜ合わせた造形で、のっぺりなんて言葉からはほど遠い化け物の顔だ。

 三田の知識では両方が混ざっているが、指摘はしづらかった。彼女は、バクについて詳しく知っていた。僕はそれを知悉していた。三田が楽しげに書斎に戻っていったのを見計らって小声で尋ねた。訂正しなくて良かったのかと。

 彼女は薄く微笑んで視線を逸らした。

「いつものことよ」

 口調こそ軽かったが、重みを感じる声だった。

「お父さん、言われて直したら負けだと思ってるからね。自分で気づいてくれるのが一番良いんだけど。あんまり指摘すると大声出してそこで話を切るから……」

 消え入るような少し澄んだ声だった。

「わたしのこと、頭悪いって思ってるからね。何も知らないし、全部間違ってるって。だから何言っても無駄なのよ。言えば言うほど逆効果なの」


 僕と三田とのあいだに、日常会話はほとんどない。

 たまに何か頼まれることはあるが、そこには一方的な言葉があるばかりで、キャッチボールと呼べない会話でしかなかった。

「お前、ラーメン食べたいよな」

 三田が口にするのはこんな言葉だ。僕は一言も発していない。むしろ、このときはハンバーグやカレーのことを考えていた。僕を見て、三田は続けてこう言った。

「あいつがラーメン食べたそうにしてるぞ」

 三田の妻が振り返った。僕は首を横に振った。このときは最終的にラーメン屋に三人で行くことになったが、今思い返しても釈然としない。他にもある。

「おい、あいつがコーヒー淹れてくれるって」

 三田は言った。あいつと呼ばれ、指し示されたのは遠くにいて洗濯物を畳んでいた彼女だった。彼女は表情を強ばらせた。

 タオルを置いて、しんどそうな表情で立ち上がり、黙って台所側へと歩いて行ってコーヒーメーカーの電源を入れた。

 彼女の様子を見て、僕は慌てて横から手伝うのだが、三田は自分の仕事は終わったと言いたげに、ばさばさと新聞をめくって、その後のことにはまったく頓着しない。

 コーヒーが飲みたいなら自分で動けばいい。そう指摘すると、彼は悪びれず、笑ってこう言うのだ。

「コーヒーが飲みたいなんて俺は言ってない。もちろん淹れるなら飲むぞ」

 こういう言い回しで三田が物事を決定するとき、必ずと言って良いほどお礼の言葉、感謝の気持ちなどは見られなかった。別のパターンもある。

「ゴミを出してくるのか。頑張れよ」

 その素振りも見せていないし、何も言っていない。

「ん、どっか行くのか。じゃあ、俺の代わりにガソリン入れておいていいぞ」

 許可の体裁を取ってはいるが、ほとんど命令だ。しかもこちらから許しを得ようとしたわけでもない。ラーメンについてもコーヒーに関しても根っこは同じ。自分が行為や結果の責任を持たないように、それを押しつける言い回しだ。

 三田がするのは言葉のドッジボールだ。上手く返答するか、聞かなかったことにするかしかない。

 ボールを受け止め損ねたら負けだが、かといって避けていると当たるまで何度も投げつけてくる。しかも審判は三田自身であり、投げられる側に勝利は存在しない。

 会話とはお互いに意思疎通するためにある。

 付けっぱなしのテレビから天気予報が聞こえてきた。

「あすは曇りのち雨でしょう。お出かけの方は雨具の用意をお忘れなく」

 三田が大声を出した。

「おい聞いたか!」

「もう、声が大きい。なんです」

「明日は雨だってよ。行き先を変えるから、何か案があったら早く言えよ。俺はパソコンしてるから」

 返事も待たず、彼は書斎にさっと引っ込んでしまった。

「ちょっと。お父さん」

 反応はない。再び妻が呼ぶも、姿はおろか声さえ戻ってこなかった。彼女はテーブルに目を落とした。三田によって飲み残されたコーヒーが、カップの中で揺らめく。テレビから笑い声が聞こえてくる。

「行かないって選択肢は、無いのかしらね」

 彼女の呟きは、けたたましい爆笑にかき消された。



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