アイの代わりに(6)
6、
冬。カレンダーを眺め、今日こそは、と期待を胸に公園に向かいました。最後に会ってから三ヶ月半ほどが経っていて、待つのは最後にしようと思いながら葉の落ちた木々の間を通り抜け、いつものベンチに近道をします。
先生は若草色のスーツ姿でベンチに浅く腰掛け、前のめりになって一冊の文庫本を読んでおり、横合いから表紙のタイトルを覗き込むと、太宰治の『人間失格』でした。
私が隣に座ると、どれほど読み返したのか、目に見えてぼろぼろになった文庫本をぱたんと閉じてから、答え合わせの時間だよ、と微笑を浮かべて呟きました。
秋から冬のあいだ語られた言葉について何度となく思い返しました。時間だけはたっぷりありました。無理に就職しようと思わなければ、自由な時間を作ることは難しいことではありません。必ず一度は私に別れを告げるため、この場所へと戻ってくる確信がありました。先生が先生であるなら必ず現れると。だからこうして北風の冷たく、夜は雪が降ると予報された今日、こうして公園を訪れたのです。とはいえ、大晦日まで一週間を切った今日まで先延ばしされるのはさすがに想定外でした。やきもきしていましたが、どうしても責めるつもりにはなれませんでした。
私は尋ねます。自分とはカメラを構える撮影者ではなく、映される側、画面に居場所を作ろうとする存在ではありませんか。自分をより良く見せるため、他者を引き立て役として利用したり、他者が映り込まないよう押しのけてみたりして。
肩をすくめられました。それが価値と信じるひとは大勢いる。しかしひとたびファインダーを覗き込んだなら、鏡無しで自分を映すことはできない。
愛は、私が孤独ではないと教えてくれると仰いました。その一方で愛情は鈍器だと。愛とは与えるものですか。それとも受け取るものですか。先生は目をつむり、首を横に振りました。どちらでもない。自分と相手のちょうど中間、その輪郭に発生する。
こうも表現されました。愛は虚数と似ている。現実に確固たる形はないし、一つの状態とも言えない。概念のみでは機能しないが、用いたとき初めて意味が生じる。
寂しいとき自分の外側に触れる。寒いとき自分を暖かく包み込む。進めないとき自分の背中を押してくれる。何も分からないとき自分の手を引いてくれる。度が過ぎれば痛みになる。それが愛だ。自分がなければ感じることもできない。言葉かもしれない。現象かもしれない。事実かもしれない。物品かもしれない。形があるとも限らない。目に見えないこともある。そのときは理解できないこともある。それでも愛は存在している。愛は無くならない。ひとたび見失ってしまうことはあるとしても、形を変えてどこかに残り続けている。
他者こそが、愛だ。
そう言い切った先生は、しかし、とゆっくりと話を続けました。
ある生徒がいた。彼は太宰の作品が好きでいつも読んでいた。太宰にのめり込む生徒は多い。これは自分だ。自分の気持ちがそのまま書いてある。よく聞いたし、私も昔同じことを思った。彼もそうだった。文芸部に所属していたのもあって、創作に関わりたいとも話していた。
世間、一般社会、そういったものに馴染めない。なにか疎外感を感じ、当たり前のことを当たり前として流せない、器用に生きられない内気で大人しい子にありがちな傾向があった。よくあることだ。何百万人が読めば、そう感じる子は出てもおかしくない。描かれる主人公に共感し、同じ苦しみも自分で増幅させてしまう。
抑圧された環境で育てられ、疎外感を感じ、空気を読んで道化として振る舞う。常にストレスを感じ、緊張しながら、生きることの不安と苦しさに悶えながら、大丈夫そうな顔をして生活を送る。人間失格の主人公、大庭葉蔵が感じる多くはアダルトチルドレンに見られる傾向とかなりの部分共通している。子供らしくいられなかった子供は振る舞いや物事の受け取り方が似る。原因は様々だ。親がアルコール中毒であったり、幼い頃に受けた性的虐待、母子家庭だったなど。通底するのは家族が健全に機能しなかった点だ。
ドラマや小説、漫画などで創作で親子の軋轢があるとき、こんな言葉を見聞きしたことがあるだろう。産んでくれなんて頼んでない、と。
でも、誰だってそうだ。まだ存在していない者に何かを望むことなど出来ない。意志無きものの意を汲んだ行いは、単なる思い込みか決めつけの結果だ。それでもこの世界に産み出されることに意味がある。最初は一方的であってもいいんだ。愛はたとえ理解されなくともそこに存在している。もちろんここに神が人を作った、あるいは人が神を作ったとする関係性を見いだしてもかまわない。創作者と被創作物も同じ。これも愛だ。
知ることで価値が生ずる。知らなければ存在しないのと変わらない。現実で得られるものと創作によって現出する感覚は等価値で、食事の代わりに栄養を錠剤や点滴で摂取するのと違わない。それは確かに一面の真実かもしれない。だが、やはり物事の一面でしかないんだ。
彼は遺書の代わりに、一篇の小説が遺した。その原稿を受け取って初めて、彼が何を考えたのかを気にした。
内気で大人しい子の印象しかなかった。遺作は読めなかった。出来不出来の問題ではなく、読んでしまえば評価することからは逃れられないからだ。口では何とでも言えるとしても本心は冷静に判断する。万が一面白かったとして、ベストセラーに及ばないかもしれない。思ったより感動しないかもしれない。あるいは既存の傑作を上回ったのかもしれない。それならもっと長く生きてたくさん書けば良かったのにと考えるだろう。つまらなったなら身勝手な気持ちを抱く。この程度で満足して死を選んでしまったのかと。恐ろしくて読めなかった。彼に言葉が届かないことだけ確かだった。そのくせ何かをしなくてはと思った。だからこの人間失格だけ譲り受けた。彼の葬儀に参列した際、家庭環境に問題があったことは察しがついた。それからずっと調べていた。
カウンセリングの、つもりでしたか。
そんなんじゃない。先生は曖昧に苦笑しました。しばらくして教師は辞めたし、専門家になるつもりもなかった。彼のことは心に引っかかっていたから、本を読んだり、本職のカウンセラーに話を聞きに行ったりはしたよ。そして君を見つけた。
彼に重なって見えた。君の方が彼よりずっと年上だがね。苦しんでいるのは一目で分かった。どうすればいいのか考えた。
彼は死を選んだ。同じ苦しみを持った誰かがいることは苦悩を和らげはしても根本的な救いにならない。解決策ではないんだ。どうすれば君が立ち直るのか。それを考えた結果が、ああした暑苦しい熱弁だよ。大きなお世話だったかもしれないがね。自分が変わろうと、あるいは自分のいる環境を変えようとしない限り、根本的な解決にはならない。仏教じゃないが、苦しさは自分の内に生まれる。原因が外にあったとしても、それを生み出すのも、感じるのも、結局は自分自身なんだ。
使える解決策もひとによって違う。押しつけかもしれない、より悲惨な結果が待つかもしれない。不安は常にあった。先生と呼ばれた瞬間、君が、いや、君たちが他者の振るまいに対して敏感であることを思い出した。仕草のひとつ、表情のわずかな変化にすら不安を覚え、苦痛を思い出す。君は見るともなしにすべてを見ている。本心ではない言葉に嘘の匂いを感じとってしまう。君にとって言葉は単なる手段ではない。正しさを指し示す羅針盤だ。世界が言葉によって形成されていると言うように、とても尊いものとして理解されている。私は本心を語るしかなかった。一番届きそうな言葉を心から語り続けた。迂遠さに逃げ込んでみたときもあるがね。
小説にあるような描写や比喩は道具に過ぎない。ストレートで十分なときカーブやフォークを投げる必要もない。大量の道具を上手く使えるか競う必要もない。意志と意図が問題だった。手段と目的が逆転しては意味が無い。その考えは正しかったらしい。
君が苦しみから抜け出す一助になれるように。それだけを願った。
恩着せがましい言葉に、にこりと微笑んで尋ねました。あのとき逃げたのは同一視しそうになったからですか。先生はかいてもいない汗をハンカチで拭いて、冷汗、冷汗と誤魔化しました。
降り積もった言葉が胸の奥底を白く染めると、不意に、三島由紀夫の豊穣の海全四冊のことを思い出しました。芥川も太宰も三島も真剣に読んだのは小学生の頃でした。あの頃は難解な言葉に憧れて、ひたすら読みふけっていた。人間失格も蜘蛛の糸も当時、必死に読みました。あのときは分からなかったことも、今なら分かる。
いえ、今はとにかく豊穣の海です。
最後まで読み終えて、子供ながらに呆然とした覚えがあります。あれは丁寧に築城されていくのを見続けていた、巨大で豪華なお城のようでした。巻が進み、その煌びやかな天守閣がついに完成した瞬間、存在したはずの土台が手品のように消え去ったのです。にも関わらず、目の前には全四巻の長さによって支えられた、巨大で絢爛な、三島の手による凄まじい城が変わらず建ったままなのです。あれが現実であれば、すべては崩れゆくはずでした。支えるための土台はすっかり消失したのですから。なのに、ありもしない土台の上で豪奢で緻密な城が未だに傲然と聳え立っている。瓦解することなく幻のまま、それまでの形を保ち続けている。なにもかも、なにもかも、わけも分からぬ、途方もない、度肝を抜かれた、その一方でまるで釈然としない、あの虚実の鮮明さ。
小学生の頃に読んだものですから、内容を勘違いしているかもしれません。ありもしない記憶を覚えているかのように、あるいは錯覚めいて浮かび上がっているだけやもしれません。それでもいい。二度と読む気もないのですから。もしかしたら何年か、何十年かしたら読み返したくなるのかもしれませんが、事実はどうだって良いのです。
ただ、そういう風に記憶として残っている。先生の言葉によって、その感覚が突然蘇ってきたのです。
先生を見ました。
ベンチに座ったまま、スーツ姿で人間失格の表紙を撫ぜていた先生は、大事な秘密を教えるように、悪戯っぽい笑みを覗かせながら、こう言いました。
創作はその性質上フィクションであるという前提を内包している。人間が生まれた瞬間から逃れ得ぬ結末を含有しているように。現実とは直接見ることが出来ない自分自身の背中だ。しかし虚構であれば、それを見ることは許される。読者に意識されずともその前提が承知されている。残された自由は、どちらを選ぶか。それのみだ。小説を読む行為によって否定すべき選択肢はあらかじめ奪われている。作者にも同じことが言える。まずは書かねばどんな小説も生まれ得ない。そして誰かに読んでもらわなければ、あらゆる小説は意味を成さない。
すべては最初から存在している。気づけるかどうかの問題だ。
自分と相手の中間にあって、その輪郭に発生するもの。
私たちの言葉は内側と外側、その両方に触れるためにあるんだ。




