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クリスタライズ  作者: 三澤いづみ
アイの代わりに

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28/31

アイの代わりに(5)


5、

 夏の終わり頃、先生は私の前から逃げ出しました。気づけば季節は巡り、空気ごと秋へと運ばれていました。公園に植えられた樹木は大半が黄色や赤に色づいており、いくらかは寒々しく葉を落とし、道行く人たちの格好は次第に丸さを増していました。

 私も厚着を心がけます。日が沈むまで消えた先生を待っていつものベンチに座るのですから風邪を引いてしまう薄い格好はいけません。夏まではいつでも当たり前に見かけた先生ですが、あの一件を境に姿を見なくなってしまったのです。私は先生へと繋がる線を他に持っていませんでした。だからもしかしたら先生は、陰鬱として日々に窮する私の妄想の産物だったのやもしれません。

 そんなはずはない。そう思う反面、ずっと感じていたあの非現実的な存在感が、期待に濃い影を落とすのです。先生は私以外と話すことはありませんでした。公園利用者は案外気さくな方が多いために、すれ違えば挨拶くらい互いにします。初対面でも犬を連れていればワンちゃん可愛いわねと声を掛け、天気が良くて花のひとつも咲いていれば隣にいた見知らぬ誰かにあの花綺麗ですねと口にする。会話が苦手な私ですら散歩中の老人に話しかけられることはあるのです。

 しかし先生は一度も話しかけられたことがなかった。

 ベンチに座る先生の隣に、私以外が座ることもありませんでした。

 もちろん単なる偶然で、先生は普通の人間と考えるべきでしょう。

 公園を訪れないのも事情があると理解してはいるのですが、ちょっとした気まずさなのか、あるいはこの公園に足を運ぶ意義を失ったのか、私には知る術がありません。

 二度と来ないとしても、別れの挨拶くらい大した手間ではないでしょうに。それくらいの関係は築けていた。そう思うのは距離感のはかり方がおかしいからでしょうか。未練がましいのかもしれませんが、そんなことは承知の上です。

 怒る筋合いはないのでしょう。約束したわけではありません。

 一度として再会の約束も、時間帯の確認もしたことはありませんでした。

 先生を待つ合間に悔やみました。自分の迂闊さに気がついたのです。最初から、まるでおとぎ話に出てくるようだと感じていた。ならばあのやり取りこそ決してしてはならなかった行為に他ならない。答えを求めてしまった。開けてはならぬ箱、見てはならぬ姿と同じ、してはならぬ問いであったのだと。

 私は愚かでした。あらゆる物語の登場人物は愚者たることを運命づけられている。

 人生が物語であれば、失敗こそが主役の条件なのかもしれません。

 何もしなければよい。口を閉ざし、耳をふさぎ、目をつむり、それまで通りを続ければよい。浦島太郎もパンドラも箱を開けなければ良かった。いざ我が身がその立場に置かれてみれば、彼らの気持ちが分かるのです。失敗せねば話が先に進まぬ。物語であれば作者の都合もあるでしょう。しかし、すべては起こるべくして起こる。

 愚かである限り、人間である限り、それらは必然。誰も完全ではいられない。いつか必ず起こることだった。早いか遅いかの違いだけ。先のことなど分かりはしないのです。何が最善で何が失敗か、単なる人の身で先だって知ることは不可能でした。

 誰も座らないベンチに一人、ぼんやりと空を見上げます。青い空。いくつかの薄い雲が上空の強い風に流され、ゆっくりと遠ざかってゆく。

 見下ろせば蟻たちが誰かのこぼした菓子の欠片をひたむきに巣穴へと運んでいます。

 小さな土塊があり、それに埋もれたお尻の大きな蟻がいました。子供が近くを走った拍子に飛んできたのでしょう。鈍いやつもいるものだとつま先で軽く蹴ると、自由になった蟻は左右に揺れながら、どこかに去っていきました。

 見るともなく前を向けば、薄着をした若者が速いペースでランニングをしているところでした。

 静かでした。人の息づかいがどれほど聞こえようと、誰かの歓声が耳に届こうと、風の音がやかましいほどに甲高く響いていても、公園は静かな感じがしました。実際には無数の音があります。まだ日が高いため人の気配は増えるばかりで、落ち着くような雰囲気とはかけ離れています。しかし、どこかひそやかな感じがしました。公園は静謐さに包まれた世界でした。すべては一時的なものであり、それらが過ぎ去ってしまえば、残るのは寂しいほどの静寂なのだと思えてなりませんでした。

 先生の不在。あるいは非在。

 最近は考える時間が増えました。本を読むでもなく歩くでもなく、ただぼんやりと周囲を見渡し、自分のこれまでを顧みる。思い出すのは先生の言葉。ありふれていて、誰でも口に出せる言葉だったのかもしれません。しかし先生が私に対して言った。この事実こそが何よりも大切だった。

 先生が姿を消したからこそ正しく理解できることもありました。


 桜が満開になる頃でした。愛について先生が言葉を尽くしてくれた日と、愛情は鈍器であると教えてくれた日。その中間にあたる春爛漫の好日でした。

 公園は集まった無数の花見客で溢れ、いつものベンチは陽気な酔客に占有され、私たちは珍しく公園の奥、普段は近寄りもしない一画へと向かいました。

 園内の喧噪と桜花の美しさ、両方から遠ざかった景色でしたが、普段とは異なる趣がありました。

 わずかにでも桜が見える場所を選び、先生は石段に腰掛け、私もすぐ隣に腰を下ろしました。

 先生は楽しげに言いました。人生の責任を他人に求めてはいけないよ。

 花見客で一杯の方角を眺めながら口にしたのです。

 心臓が止まった気がしました。

 先生が言葉にした愛について私はずっと考えていました。私と母との関係に当てはめ、どうすべきだろう。どうしたら良かったのか。その煮え切らない思いを一刀両断された気分でした。先生は事情など知るよしもありませんが、しかし見透かされていた、見抜かれていた、そう感じていた私ですから、先生なりの忠告だったと理解しました。先生はひとしきりうなったあと、こんな言葉を選びました。君は君にしかなれない。他人の正しさに振り回されない、自分なりの正しさを知るべきだ。

 胡乱な目つきで先生を見たことでしょう。

 先生はこうも付け加えました。子供の自信は親がはぐくむものだ。少なくとも最初だけは。聞けば聞くほど混乱しました。子供は何も持たずに生まれてくる。生まれたばかりは空っぽで、どんな役割を果たすために何を中身とするか。正しさは最初、自分以外から与えられる。無論、正しさにも色々ある。何が自分のためか、それを判断するための基準と言い換えても良い。まず自分が存在すること。空の器。他の何者でもない自分。これが正しいと感じられなければ、あらゆる中身について疑い続けなければならなくなる。

 信じるとは正しいと判断することだ。正しいと感じられなければ、自信など持てようはずがない。すべてはきっかけに過ぎない。だから誰かの意に沿わない自分であることを責める必要はないんだ。

 先生の言葉に、不可解な影を感じました。それも一瞬のことで、さらなる言葉が私を待っていました。

 一人の人間であれ。不当な罪悪感に責めさいなまれてはいけない。正しさを人間が善と見做すのは、それが味方だからだ。多数。社会。世間。それが共有されることで自分たちにとって有利に働くから正しさは持て囃される。他人など関係ない。社会のルールがどうであるかも、法律も、モラルも、世間の目も、何もかも脇に置いて考えるんだ。

 正しいものが君の味方ではなく。君の味方が、君にとって正しい。

 順番を間違えてはいけない。

 取捨選択を自分でするだけだ。他人と自分の正しさは全く違う。それだけ分かっていればいい。正しさの奴隷になってはいけない。君の主人は自分自身だ。正しさは君の自由を決して奪わない。君は自由だ。それでも世の中は奴隷として従う自由を、正しさに置き換えて押しつけようとするだろう。正しさの名の下に、自分のものだった自由を恩着せがましく高値で買い取らせようとするだろう。

 愛はそうじゃない。正しさはそんなものじゃない。

 自由はもっと素晴らしいものだ。たとえ正しくても誰も助けてくれないなら何の意味がある。

 正しさの中に君がいるんじゃない。君の中に正しさがあるんだ。

 言葉はそこで途絶えました。横顔から目を逸らしました。澄んだ風が吹き抜け、一拍遅れて桜の木から零れ落ちた淡色の花吹雪が、透明な流れを慌てて追いかけました。

 楽しげな花見客たちの大声が広い園内のそこかしこから聞こえていました。

 私は風の行方を眺めました。

 人々が桜を見るため同じ場所に集まる。桜が舞う青空の下、その途方もなく穏やかな光景に、いつまでもいつまでも視線を送り続けていたのでした。


 先生が姿を消した今、私は思うのです。伝わらない表現に意味はなく、愛が正しく与えるものだとするならば、伝わらない愛とは決して存在しないと。どんな言葉も伝えようとして存在する。受け取って初めて価値が生ずるなら、先生の言葉には愛があった。そうなるのでしょう。

 痛みや苦しみをもたらすもの、未知なるものを、ひとは恐れる。恐れるとは何か。その対象を信じられぬことです。知っているからこそ愛は尊い。信じるとは、それが正しいと私が知っていることなのです。


 出会いを思い出しました。あれこそ先生と呼ぶに至ったその契機。

 最初、先生はカメラを構えていました。季節の上では春となっていましたが、寒さが色濃く残る時節。桜の蕾も小さく、凍えるほど冷たい鋭い風が、日に当たって赤くなった私の頬を白に戻そうとしていました。カメラをいじる先生と、疲れ切った身体を休めるため乱暴に腰を下ろした私。まだ何の繋がりもなく、ただ同じベンチに座っただけの関係に過ぎません。

 私は母と一時間ほど前、公園を一緒に歩いていました。そのときにした会話をどこかで聞かれていたのかもしれません。私と先生は並んで座りました。話すこともなく、冬の名残を見るともなしに見ていました。閑散とした公園の風景を眺めていると、突然、先生が横を向いて語り出しました。しっかりと、私の顔を、強い眼差しで見つめたのです。君は見捨てられなかったのか。そんな問いを向けられました。

 最初、頭がおかしいと思いました。誰だってこんなことをいきなり語りかけられたら逃げたくなるでしょう。意味が分からない。こんなの公園で横に座ったひとからされる世間話とは思えない。

 予想外な言葉で、衝動的に席を立つことすら出来なかった。

 話しかけられたなら、ちゃんと答えなければなりません。それまで幾度となくそうしたように。一度逃げる切っ掛けを失った段階で選択肢は残っていませんでした。ここで違う未来を探せる人間であれば、元より先生と言葉を交わす間柄にはなっていません。これこそが先生の言うところの、選択肢を奪われた人間の有り様。なるほど、見抜かれるわけです。答えより早く在り方は見えていた。問いには正しく答えなければならない。しかし正しい答えが分からない。動きを止めた私は、矛盾する二つの命令に同時に従おうとしてフリーズする回路でした。

 先生は言いました。人生はすべて二つのことから成り立っている。ゲーテの言葉を聞いたことはあるかな。

 最初に思い浮かんだのは母の顔でした。

 店を畳む決断をしてから数ヶ月が経った時期です。後始末が終わり、母の店で働く必要を失った。食べるために職は探さなければならない。母は家に籠り、もう年だから働けないと縮こまっていました。やりたいことをやっていい、といつかと同じことを私に対して言いました。やりたいことがあるなら応援するから。わたしのことは気にしなくていいから。そう口にした母のことが、急に脳裏を過ぎったのです。

 無性に腹が立ちました。ちくしょう。ちくしょう。声は勝手に漏れてきます。涙は自然とこぼれます。悔しくて、情けなくて、たまりませんでした。いくつものはっきりとしない、ひとつとして明るさとは無縁の、自分の手に負えない感情が、私をぐちゃぐちゃにかき回していました。真っ黒の、気持ち。震えるほどの恥ずかしさと、死にたくなるこの空虚さ何だろうかと、わけもわからぬまま嗚咽ばかりが漏れていきました。泣いて、泣いて、泣いているうちにむせて、咳き込んで、苦しさはいや増すばかり。みっともないと我が身を取り繕う暇すらなく、ただひたすらに荒れ狂うこの心。空はあんなに青いのに。公園はこんなに静かなのに。どうしてこんなにもみじめなのか。

 そうだ。みじめだ。私には何も無い。だからこんなにもみじめだった。ちくしょう。誰にもぶつけられないこの怒り。すべては自分のせいなのだと、そう結論づけるこの頭。そうだ。結局、こんな風になってしまったのは、自分が招いた結果に過ぎぬ。悔しい。自分は、ばかだ。大馬鹿者だ。もはや大声で己を罵ろうにも声は出ず、叫ぶことすら躊躇する。奇異の目で見られるのが怖い。迷惑をかけてはいけないと、こんなになっても理性が諫める。嫌なことから逃げるのです。そうしなければ辛くて辛くてたまらないのです。立ち向かうことが出来ない。勇気がない。そうだ。自信がないのだ。私には人間である、ただそれだけの自信が欠けているのだ。だから仕方ないと、言い訳ばかりが目から止めどなく溢れて流れて落ちてゆく。この、こらえきれぬ涙と嗚咽ばかりが、せいぜいの叫び。

 力の限りが、この程度。

 私の身体は正直で、泣き続けることにも、嗚咽をはき出すことにも疲れると、平静の外面の良さを思い出し、だんだんと落ち着いていきました。私が晒した醜態に逃げ出すこともなく、先生はベンチに座って、空を静かに見上げていました。

 視線に気づいた先生は、にこりと笑ってこう言いました。

 自分より大切な他人なんて存在しない。というか出来ない。勘違いと言うよりは、当たり前すぎて忘れてしまうのか。いきなり何を言い出すのだ。このとき先生をその場にいた変人として見ていたので、口を半開きにして顔をまじまじと凝視しました。

 自分はカメラを構えている。そう思って考えると良い。被写体は他人だ。人生で関わる回数や量が多いほど、その相手は画面の中で大きな割合を占めていく。親はその最たるものだ。他にも上司、友人、恋人、まあ色々だ。詳細を知るほど被写体にレンズを寄せていくことになる。相手がどういう状態にあるか。自分は相手をどう映したいか。その兼ね合いで考えることになる。しかし自分は被写体にはなれない。自分がいなければ相手を撮ることはできない。主導権を握るのはどちらだろう。何を映すのか。どれだけの大きさで、どういう風に捉えようとするのか。これらを選ぶのは撮影者。つまり自分だ。一度に画面に入る数は限られている。近すぎればぼやけてしまう。遠すぎればよく分からない。何事にも適切な距離がある。

 選ぶのは君だ。先生はそこまで一気に言い終えると、ふうと息をつきました。一仕事終えたと言いたげな表情でした。分かっている。こんな人生になったのは。こんな人生を選んでしまったのは私なんだ。先生の目を見ず、もう手遅れですと告げました。

 そんなことはない。

 先生はきっぱりと否定しました。そして言ったのです。

 きっと、報われるさ。



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