ながなきとり(3)
3、
ずっと一本の道を歩いていた。簡単に乗り越えられる高さの柵が道に沿って整然と張り巡らされている。
親切な誰かが言う。道を外れた先には透明なペンキで「転落人生」という文字が書かれていると。そんな文字は見えなかった。一度だって見えたことはなかった。
ふとした拍子につま先の向きが変わると顔のない大人が遠くから駆けてきて、肩を掴んで止めるのだ。
「あそこには落とし穴があるよ」
先に進むと彼らは同じ速度でついてくる。
「こっちには傾斜のきつい坂があるんだ」
取り囲まれて、仕方なくどこに行けばいいのかと問いただすと、あちこちをもっともらしく指さして、怖がらせるように周囲の危険を説明してくれる。
「あの獣道は茨で覆われているからね」
分かれ道に直面する。そのたびに誇らしげな顔で今歩いている道と違う方角へ行くことの困難と苦痛を教えてくれる。せめてゆっくりと景色を楽しもうと思っても彼らはいつの間にか背後に来て口々に急かせてくる。
「後ろから獣が追い掛けてくるよ。飢えた獣に追いつかれてはいけないよ」
振り返る暇など与えられない。獣は、のんびりとした獲物に容易く追いつくことができるから。ひとたび走り出すとゆっくり考えることが出来なくなった。何が余計で何が余計ではないことなのか、これを自ら決めることは許されなかった。
一息に駆け抜けるには長過ぎる距離だった。肩を上下させて速度が落ちてゆく。もう走れないと音を上げる。いつしか見たかった景色は遠ざかり、気がつけば寂寞とした荒野の真ん中に立ちつくした自分を見つける。改めて振り返ってみる。
獣はいなかった。最初から獣なんていやしなかったのだ。
それでも声たちは消えてくれない。
「日が暮れてきた。もうすぐ夜になってしまうよ。立ち止まっていないで早く先に行かなければいけない。前に進み、どこでもいいからたどり着かないと」
声たちはなおも恐怖を煽り、甲高い声で囃し立てる。どうしようもなくて項垂れた。
歩こうと歩くまいと闇は深くなる。ひとりでいるのは恐かったし、ふとした瞬間、引き返せなくなった時になって気づいてしまう。
自分は何も持っていないと。
灯りも、地図も、羅針盤も、目的地すら。
寄り道をしたかった。
主観なんて後からどうにでも捏造できる。事実と可能性だけが、心を見返すためには必要だった。
授業をさぼったのはあの日が初めてになる。
一人で決行した。電車に乗らず、登校の途中で脇道にそれた。学校で放課後まで隠れるのではなく公衆トイレで私服に着替えて駅前を彷徨ってみたかった。
ちょっとした冒険だった。かといって後を考えない遠出はできない。ゲームセンターや駅ビルの書店をハシゴして、最後に向かったのは個人経営の小さなコンビニだ。
友達と何度も寄っていて中年の店主に顔を覚えてもらった。
いつもにこやかに、おじさん店長はこんにちはと大声で挨拶してくれる。その気安さは足を運ぶには十分に足る理由だった。
結構な時間が経っていて、しばらくしたら友達も帰宅するころだった。もしかしたらここに立ち寄るかもしれない期待もあった。
失敗したのは何のせいだったのか、あまり考えたくない。思惑通り店の前にやってきた友達の顔を見つけた。手を振ってそっちに歩こうとする。
店を出る瞬間、後ろから腕を強く掴まれた。男の手だった。万力のようにきつく締め付けてくる。
おぞけのはしる感触に、わずかに悲鳴を上げる。か弱い声しか出なかった。嘆きはぶつけられた声でかき消された。
「逃げる気か。すぐに警察を呼ぶからな」
友達が顔色を変えて来た道を引き返してゆくのが視界の隅に映り、愕然とした。
カウンター脇から取りだした臨時休業の札をドアに掛ける後ろ姿は怒りに満ちている。一挙一動を監視されている。混乱したまま店の奥に連れて行かれる。パイプ椅子に座らされた。ぎしりと鉄のこすれる音がした。そこで荷物を確かめられた。鞄の中には着替えた制服だけしか無いことを必死に説明するが、店主の声は冷たいままだった。
「ここで開けてみろ」
どうしてそんなことをしなくちゃいけないのか。今まで経験したことのない汚物を見る目つきに曝されて小刻みに指が震えた。上手く掴めないままに中に入っているものをテーブルに出して、空っぽになった鞄を再度振って、もう何も落ちて来ないことを確かめさせてから濡れ衣を何度も訴える。恐くて、ぼろぼろと目の端から涙が落ちてくる。
店主は信じてくれない。それどころか更に高圧的に見下ろしてくる。
「お前しかいないときに無くなってるんだ。他の誰がやったっていうんだ。ああ、さっきの女も仲間だろ。隠し慣れてるとこを見るとお前ら初犯じゃないな。あの制服は近くの高校のだよな。認めないんだったら仕方がない。警察に来てもらうから」
再三やっていないと泣きながら言い続けた。声が震えた。喉が詰まった。
一転、店主は優しい声で言う。
「おじさんもね、本当はこんなことを言いたくなんかない。……警察にも学校にも連絡しない代わりに、そうだね、私がやりましたってことを、ちゃんと認めてだね、二度とやらないという内容の念書を書いてくれたら許してあげようじゃないか」
「本当ですか」
「もちろんだとも。ゆっくりお話をしようじゃないか」
店主の頭から安いポテトチップスの臭いが漂ってくる。それに粘性の生臭さが重なると吐き気がこみ上げてくる。
学校に連絡されたら友達もこんな目に合う。これを思うと怖気が走った。確かに学校をさぼったのは悪いことだ。でもこんなのあんまりだと思った。
いつの間にか用意されていた紙に自分の名前から家の電話番号まで全部書かされた。朱肉に親指を押しつけて紙に触れた。取り返しが付かなくなった瞬間、頭が冷えた。店の奥で声を飲み込んで、許しを請うた。言われるがままに従って、ようやく解放されたのは二時間も過ぎた頃だった。それから何事もなかったかのように店の外へ出されて、この瞬間に頬と太ももに冷たさを感じた。寒くなんかないのに震えが止まらなかった。
抗うべきだった。潔白を信じてもらえるまで踏みとどまるべきだった。最後の最後まで戦い抜くべきだった。諦めたことが何よりの失敗だった。
運が悪かった。間が悪かった。店主を信じたことが悪かった。どれでも結果は変わらなかった。
流されなければ、あんなことにはならなかった。思い出さないよう記憶のかごの蓋を強く強く閉じる。極薄の半透明の膜で覆われたように世界は灰色にくすんで見えた。
こみ上げてくるものを押さえながら必死に家路を急いだ。通りすがった誰もが奇異の目で見てくるが、すぐ腫れ物に触るように目をそらす。関わり合いになるのを恐れて逃げた友達はどうなった。ぐるぐると視界が回っていた。もう何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。それでも足は勝手に動いた。立ち止まっていることさえ恐ろしかった。踏みしめるコンクリートの堅さも分からなくて、どこかふわふわと柔らかかった。
家に逃げ込みたかった。布団を被って、寝てしまって、次の日に起きたら全部これが夢だったと思いたかった。家にたどり着いていた。門扉を押し開けて、自分のもらった名字である表札を見て安心した。ここなら気を張っていなくて済む。もう大丈夫。
倒れ込むように玄関先に腰を下ろし、だらしない体勢でスニーカーを脱ぐ。指先が強ばってしまっていて上手く脱げなかった。震えが止まってくれなかった。
大きな影が見下ろしてくるのが分かった。身をすくめて視線を移した。嫌な予感がしたけど顔は安心を求めるように動いてしまう。
もう大丈夫だよと言ってほしかった。ここならゆっくり休んでいいんだよと優しく教えて欲しかった。
目が合ったのは、見たことのないくらい恐い顔。誰だろう。一瞬分からなくて、それから心細くなった。まだ何も終わってなどいなかったのだと悟った。
怒鳴りつけられて息が止まりそうになる。内容はよく分からない。これが父の激昂する声だと判断できたのは、悲しそうな目で見つめる母の顔が目に入ったからだ。
ねえお母さん。どうしてそんな目で見るの。
混乱しながらも咄嗟に聞こうとした。声は出なかった。
どうしてこんな目に遭う。どうしてこんなことになってしまった。
電波の悪い携帯電話を使っているみたいに、父の声は遠かった。何を言っているのかは理解出来るけれど、どうして罵られねばならないのかまるで分からなかった。
母は腕を伸ばしても届かない程度の近さだった。そのくせ向けられた視線はひどく鋭利で気が触れた人間を前にしているような奇妙な距離感があった。
「家には言わないって。なんで」
さっき出てこなかった声が玄関先で大きく響いた。父は反省していないからそんな文句が出てくると言い捨てた。
普段は素行に口を出さない両親。二人の前で、ずっと良い子として生きてきた。でも聞く耳なんてもってはくれなかった。
「やったのか、やったんだな! やっぱり!」
叫んだ父が、鋭くつり上がった目と赤らんだ頬で責め立ててくる。
鞄を抱きしめる。同時に身体の内側が冷えてゆくのを感じた。内臓と心。だんだんと周囲の温度が下がり、あたりが暗くなってゆくのを静かに見つめていた。
父の罵声が飛んでくる。耳を塞ぎたくなる。母が悲嘆に暮れたような素振りで仕草を凝視する。観察されている気分になる。手の負えない獣として扱われている。
反論は許されていない。どうせ、まともに受け止めてもらえない。毎日家族として接しながら、ずっとそんなふうに見られていたのだ。
泣いている自分がばからしくなった。視線は彷徨う。見るべきものを求めて赤い顔と青い顔の二つを通り越して、どこか別の方向へと揺れてゆく。
「よそ見をするんじゃない!」
きちんと閉めなかったせいか玄関のドアにかすかな隙間が空いていた。
これでは外に声が漏れて近所に伝わってしまう。ここにいるのは恥ずかしい。くだらない思いだけは感染し、母がようやく父を止めようと動いた。
乱暴に振り払われながら母が必死になって押し止める。
「隣に聞こえますから。お父さん、お願いですからやめてください」
遠い世界で起きた出来事に思えて、この場から早く離れたかった。次々と喚かれる悪罵を聞き流しながら、この茶番を終わらせる手段をぼんやりと考えた。父は冷静になるだろうか。それとも更に怒り狂うだろうか。
自分でも驚くほど平淡な声が出た。
「鳶は鷹を生みません」
「親に向かってなんて口の利き方を!」
目の前の男は思い切り手を振り上げた。衝撃によろめくが、カエルの子はカエルの方が良かったかな、なんて益体も無い言葉が脳裏を過ぎった。顔面を力一杯殴りつけて大きく息をついた父は、手を挙げたことで落ち着いたのか緩やかに肩を上下させている。
勢いを殺せず玄関のドアに身体をしたたかに打ち付けた。出ていけと聞こえたからドアに寄りかかると、そのまま外に開いた。痛みは遅れてやってきた。
母は一応制止したが口だけだ。さっきから一歩も動いていなかった。
ドアが閉まる直前、中にいた二人に対し何も言わなかった。母と目があった。その怯えの覗く瞳に映ったみにくい人間は、つまらなそうな顔をしていた。
扉は閉まった。衝動に身を任せた。
よろめきながら庭にある納屋に入る。
薄い戸を開け放つと暗闇の中から黄色が目に飛び込んできた。
昔お風呂で使っていた薄汚れたアヒルのおもちゃだった。
隣にはコバルトブルーの花瓶が置かれ、埃が高く舞っては凝った青に降り注ぐ。揺らめく光を纏う姿は、着飾った純白のドレスを自ら脱いでいる場面にも見えた。
吸い込まないようハンカチで口を押さえた。納屋にあった真っ赤なポリタンク。重くて蹴躓きそうになった。あのひとに会わないよう外に出て、それから止めどなく溢れてくるものを拭った。拭っても拭ってもそれは薄く引き伸ばされて、どんどん広がっていくようだった。
ここは居場所じゃない。咳き込みながら急いで家から離れた。
ふらついた車を避けて誰かに引き留められないうちに遠ざかる。
見上げたミラーに映り込んだ顔は、ひどく歪んでいた。自分がそれほど器量がよいとは思っていなかったが、同情を誘える程度には悲惨な顔だった。
視界が滲み、顔がひきつる。殴られた頬の腫れがだんだんとひどくなる。おそるおそる触ってみると怖いくらい熱を帯びていた。
逃避も兼ねて財布を確かめると紙幣が五枚。深く息を吐き出した。続けて探った鞄には落書きだらけの教科書たち、加えて買ったばかりの携帯電話、ついさっき破ってしまったノート、お菓子の箱、小さな箱、制服に、ちょっとだけ悪ぶった名残がいくつか。
どれも捨てるのは簡単で、だからこそ手放すまでに躊躇することもある。




