無礼講とは、『無礼をしても構わない』という意味ではない
これはエッセイであり、思ったことを書いて行くだけなので学術的に正しいかは置いといて下さい。
あくまでも思っただけのことです。
着眼して欲しいのは、『こう』の字です。
無礼講の『こう』は『講』。
構わないと言う字は『構』。
言か木の違いがありますね。
そもそも、無礼講。分けるとしたら『無‐礼講』です。
『無礼‐講』ではないのです。ましてや『無礼構』ではありません。
礼講。まあ、格式ばった宴会であるお決まりみたいなもの、とでも覚えていればいいのではないでしょうか。つまり、格式ばった宴会ではありませんよ、という意味です。要はみんなで楽しもう!という風に考えましょう。
さてさて、無礼講と言いますが無礼講でもルールはあります。
あくまでも立場や、階級を気にしないで楽しもう、という言葉であります。
つまり、『礼節など不要』という意味ではありません。
勘違いして、『今日は無礼講だから』と言われて上司に肩を叩かれる若手社員という存在はギャグの世界のテンプレですね。
格式ばってないもの。それが無礼講です。
相手と円滑にコミュニケーションをとる為の手段が敬語です。それを取っ払い砕けた口調で話すのも一種のコミュニケーションではありますが、それは相互の了解があってこそ。
一方的な関係はなんであれ嫌われます。
世の中に、無礼が許されることなんてない。
自由をなんでもしていいと勘違いするように。
無礼講も無礼をしてもいいと勘違いしてはいけません。
勘違いが許されるのは、主人公と恋だけです。
それを覚えておきましょう。