後編
子供の頃から親しんでいた信頼する臣下の突然の死は、王子に大きな打撃を与えた。王子の日頃の活発さはすっかり影を潜めてしまい、部屋で塞ぎこんでいがちであった。少女はそんな王子の部屋を足繁く訪ね、影のように寄り添い、献身的な態度で王子を慰めることに尽くした。
少女は筆談によって王子が興味を持ちそうな珍しい物語や、気を紛らわせるような明るい話を語って聞かせた。それは王子にとって何よりの気晴らしと慰みになった。そしていつしか、王子はさらに少女を傍近く置くようになっていった。
その身分故に城を遠く離れる機会の少ない王子は、生来の好奇心の旺盛さで、とりわけ少女の故郷の話を聞きたがった。時に王子は午後じゅうずっと、少女の筆談による描写に夢中になっている事すらあった。王子が何かを尋ねれば、少女は筆談を厭わず熱心に答えるのであった。
「お前のお祖父様は、きっとさぞかし素晴らしい方なんだろうね。国を追われてまで、信仰を貫くとは。お前たちの信仰する神とは、いったいどんなものなんだい」
太古の昔、この星がまだ生まれたての頃からおわす神です。今は都市の地下深くに眠っておられますが、数百年に一度目覚められ、特に選ばれた聡明な者達にのみこの世の真実をお伝えになるのだと言われています。それを伝えられた幸運な者達は、今までどれほど自分が愚かで、世界のことを何一つ知りもせずに分かったような気になっていたかを悟るのだそうです。
王子がその神の名を知りたがったので、少女は考えつつ苦労して、この国の文字でその名を紙の上に記した。王子はそれを口にしてみたが、少女は微笑んで首をふるだけであった。どうやら、王子にはうまく発音できぬ名のようであった。
「お前のふるさとはどんなところなんだい。そこではみんな、どんな暮らしをしているんだい」
とても古い、石造りの、美しい都市です。暗緑色の大きな石が複雑に積み重ねられて造られています。輪郭のぼやけた柔らかい月の光が差し込む夜などは、都市全体が緑色に輝くように見え、うっとりするほどの神々しさです。皆は歌を歌うことを好み、よく集まって一緒に歌います。私の一族には、昔から伝えられている歌がたくさんあるのです。歌うだけでなく、踊ることもございます。
それから、時々、都市の外へ狩りに出かけたりもいたします。その他は静かに暮らしております。
「きっと素敵な所だろうね。いつか、お前と一緒に訪ねてみたいな」
王子は言った。
すると少女はいつになく熱をこめ、じっと、王子を見つめた。王子はなぜか胸が掻き立てられるような気がした。
その深淵の瞳は、まるで、「私を、誰よりも一番可愛いとお思いになる?」と、訪ねているかのようだった。王子は思わず少女を抱き寄せると、「そうとも、一番かわいいとも」と、呟いた。少女の髪からは、潮の香りがしていた。
王子の城に隣国からの使者がやって来たのは、そんな頃であった。使者は王子の父王と、母である女王と、長い時間会談していた。まだ直接政治に携わることのない王子は会談に同席することは無かったが、使者の用向きは分かっていた。
不慮の死を遂げた、かの大臣は、しばらく前から王子と隣国の王女との政略結婚の交渉に力を注いでいた。実現すれば、国力が同程度の2つの国は縁戚関係という名の同盟国となり、周囲の国々を威圧するに足る権威を得る。2つの国の間には平和が約束され、国民は長らく安定した生活を送ることができるであろう。それは、2つの国のどちらにとっても、理想的な縁談であった。
ある夜、王子は父母の私室で夜遅くまで過ごした。部屋に戻ってくると、もう夜更けだというのに、少女は起きて王子を待っていた。王子はいつになく頬を紅潮させ、ひどく機嫌が悪い様子で少女の隣に腰掛けると、興奮を抑えつつ語りかけた。
「しばらく、旅行に出なければいけなくなった。お父様の命令で、隣国へ行くのだ。隣国の王女様に会いに行くんだよ。その王女様と結婚するのが、お父様や、亡き大臣の望みなのだ。分かっている。大臣に敬意を表するつもりで、隣国へ行くことだけは承知したんだ。だけど僕は、結婚のことぐらい自分で決めたい。そう何でもお父様の言いなりになる必要なんてないさ。そうだろう?」
少女は優しく微笑んで、なだめるように王子の顔を覗き込み、柔らかな髪を撫でてやった。王子はふと言った。
「僕はきっと王女様を好きにはなれないだろうね。あの娘にもお前にも、似ているはずがないから。こんな美しい女の子は、他にいるはずがないさ。どうしてもいつか后をもらわねばならないなら、いっそ僕はお前を選ぶよ」
それは、しごく当然の、若者らしい反抗心と憤りから思わず出た言葉であった。だがしかし、その時少女の顔には、王子が初めて見るような笑みが広がった。
少女のその表情に王子は驚いた。こんな何気なく口にした言葉を、この少女は本気にしたのだろうかと。
確かに自分は、彼女をとても可愛いと思っている。だがいくらそうであっても、一国の王子である者が、この口もきけぬ少女、確かに美しくはあるがなんの身分もない、どこの誰とも知れぬ少女を妻にする事が出来るなどと、本気で信じているのだろうか。王子には不思議だった。立場というものを持たない者は、これほど物事を簡単に考えられるものなのだろうか、などと心中密かに呟きつつも、反面、少女のその世間知らずさこそ、子供のような純粋さに思えた。そしてその愚かしさ故に、少女をいっそう可愛らしく思うのだった。
この世界においては、自分の価値観や常識がどうであろうとそれには何の力もなく、ただただ、意志疎通も理解も不可能な、自分とは異質な他者がいて、それらが時には自分に対し予想もし得ぬ力を持つこともあるのだという事実。王子はそれにまだ気づいていなかった。
この日の為に大急ぎで新造された白い美しい大型帆船に乗りこみ、大勢の臣民に見送られ、王子は少女を伴って隣国へ向けて出発した。隣国の港までは一昼夜の船旅であった。昼の間中、王子は少女を船上のあちらこちらに案内し、船のことや海の事をあれこれと嬉しそうに話した。少女はいつものように微笑んでいた。だが、その表情に時折浮かぶ、以前とはどこか違う自信に満ちた様子に、王子が気づく事は無かった。
日が沈むと、それは美しい満月の晩だった。空は澄み渡り、明るい銀色の月光が、昼間と見紛うほどの明るさで甲板の上を照らしている。船員達はほんの数人の者を残して皆寝入ってしまった。船は明日の朝早く、隣国の港に入る予定であった。
船のボーイが、やり残しの仕事を片付けるため、甲板を静かに歩いていた。と、そこへ、少女が甲板のふちに腰掛けて水面を眺めているのが目に入った。口のきけぬ少女は水面に向かって、しきりに頷いたり身ぶり手ぶりをしているように見えた。まるで魚と話でもしているかのようだったので、ボーイは思わず水面に目を凝らした。暗い上に距離があるので良く分からないが、何か白いものが見えた気がした。ボーイが首をかしげつつ少女の方に歩いていくと、少女は、暗い海に向かって笑顔すら見せているようであった。
ボーイの足音が近づくと、パチャリと水音がし、少女は驚いてボーイの方を振り返った。その顔には笑顔など浮かべてはいなかった。
「おっと、驚かせてすみません、お嬢さん」
ボーイは気さくな調子で少女に話しかけた。同時に水面に目をやったがそこには何もなかったので、先ほど見えた白いものは水の泡か渦でもあったのだろうと、それ以上気にすることもなかった。
「気をつけて下さいね。夜の海に落ちないように」と、優しく言うと、ボーイは仕事に戻っていった。
翌朝、船は隣国の人々の盛大な歓迎を受けながら入港した。街の寺院の鐘が一斉に鳴り響き、国賓を迎えた。銃剣をその身に飾った綺羅びやかな衣装の兵隊達が、隊列を作って行進し、王城まで王子の伴をした。隣国も王子の国と同じく、美しい国であった。海岸線はどこまでも真っ直ぐに伸び、遠くには険しい岩山の輪郭が霞んで見える。王子は言葉も文化も多分に共通する所のあるこの国に、初めて訪れたにも関わらず親近感を覚え、道中、沿道の人々に向かって手を振り、にこやかに微笑みかけた。
王城に到着すると、王子は国王一家の待つ豪華な大広間に通された。所々に並べられた、伝説の動物や女神を象った見事な像の数々に王子は圧倒された。高い天井のステンドグラスからは明るい日差しが差し込み、白い大理石の床に優美な色彩を描いている。ふんだんに飾られた季節の花々が香る、趣味の良い佇まいに、王子は思わず感嘆の溜息を漏らした。
広間の中央にいた国王とその后が優美な足取りで王子のところに近づいてくると、歓迎の挨拶を述べた。王子もにこやかにそれに答えつつ、国王の隣に控えていた娘にふと目をやった。
王子は思わず自分の目を疑った。そこに立っていたのは・・・・・。あの、オレンジとレモンの香りの修道院の娘であった。
娘の長い黒いまつげの奥には、暖かさをたたえた、明るい茶色の瞳が輝いている。その目は王子との再会を心から喜んでいる様子であった。いかにも優しく賢く穏やかな人柄、それでいて、女性の芯の強さをも感じさせるような容姿であった。
そして誰よりも美しかった。そう、王子の背後で慎ましやかに控えていた、深淵の瞳の少女よりも。
驚きのあまり口もきけずにいる王子に、国王は自ら一族のものを紹介した。そして王子は、この娘こそが王子の花嫁候補の王女であり、身分を隠してあの修道院で、未来の王妃たる女性にふさわしい教育を受けていたのだと説明された。
感激に震える声を抑えつつ、王子は娘の手を取った。二人は微笑み合った。その様子は早くも可愛らしい恋人同士さながらであったので、周囲の人々はこの縁談がうまく運ぶことを確信し、その場は和やかな雰囲気に包まれた。
そして、人々の背後で、一人の少女の瞳が暗い光を放っているのに気づくものは誰もいなかった。
連日続く宴会や行事の中で、二人はすっかり婚約者同士として扱われるようになった。人々は、若い二人がお互い相手に恋してしまっているのを、容易に見て取ることができた。その微笑ましい光景に、隣国の国民の間でも王子はすっかり人気者となった。
そしてある夕方、国中の寺院の鐘が一斉に高らかな音で鳴り響くと、人々は帽子を空に放り投げて歓声を上げた。それは、二人の結婚が正式に決まったことを人々に告げる鐘であった。
数日後、婚約者同士の二人は手を取り合って一緒に船に乗り込んだ。花嫁を連れて帰国する王子に、多くの人々が別れを惜しんだ。
出港を待つ間、王子はふと思い出つき、久しぶりに少女を傍に呼び寄せた。
「ああ、僕はなんて幸福なんだろう」
王子は言った。
「望んでも無駄だと諦めていた望みが、叶ったんだ。お前も、僕の幸運を一緒に喜んでくれるだろう。今まで僕の事を親身になって考えてくれて、本当にありがとう」
王子はそう言って、少女の両の手をしかと握りしめた。少女は、ただ、顔を伏せたまま何度も頷いていた。
船は飛ぶように海上を走った。夕方になると、船の上では二人の為にささやかな宴会が催された。陽気な船乗り達や王子と王女の付き添いの者達も、身分の隔てなく踊り騒ぎ、心ゆくまで楽しんだ。異国風の珍しい趣向の数々、すばらしい料理、温かい人々。だが何にもまして王子を幸福にしているのは、花嫁となる美しい王女であった。
ふと、少女が皆の踊りの輪に入ってきた。まるでツバメのような身軽さで、ひらりひらりと舞い踊る。それは王子も今までに見たことのない踊りであった。そのあまりの見事さに、人々は目を見張り、大喝采を送った。少女も、日頃のおとなしさからは別人と見まごうほどの明るい笑顔で人々に答えた。
ただ、細やかな心を持つ王女一人だけが、少女の様子に何か尋常でないもの、狂気の影のようなものを感じ取った。暗い不安の雲が、彼女の頭をかすめた。
夜が更けていった。王子と王女はそれぞれに退出した。人々も、一人二人と宴会から抜けていき、いつしか甲板は人気もなく静まり返った。ただ、少女一人だけが、甲板の手すりに乗せた白い腕に頭をもたせかけ、物思いに耽っていた。
王女の寝室から悲鳴が聞こえたのは、深夜を少し回った頃であったか。
護衛兵や王子が慌てふためいて駆けつけたが、部屋のドアには鍵がかけられていて、開けることができない。一度悲鳴が聞こえたきり、部屋の中は静まり返っていた。王子は真っ青な顔で取り乱し、集まった人々に、ドアを蹴破るのに協力するよう促した。
頑丈なドアがようやく破られて人々が部屋に飛び込んだ時、王女は寝台の上に起き上がり、まるで幽霊のような青ざめた顔で震えていた。すっかり錯乱している様子で、王子の姿を見るなり、わけの分からぬ事を訴え始めた。
「ああ、あれがきっとそうなんです。『海からきたもの』ですわ・・・・。海から来たのです。『永遠』を手に入れるために。人間に取り入って、魅惑して、『最海淵の契約』を結ばせようとしたのです。恐ろしい・・・・。虚無の剣です。あれが、持っていたのは・・・。私見たのです。『ルルイエ異本』で。だからすぐに分かったんですわ・・・・。だってとても不思議な形の短剣ですもの。見間違えるはずはありません。あの本は何度も見たのですから」
人々はひとまず飲み物を用意し、声をかけ、王女を落ち着かせた。その間王子はしっかりとその胸に王女を抱きかかえていた。
さすがに一国の王女として教育を受けただけのことはあり、また、生来賢く気丈なたちである王女は、まもなく冷静さを取り戻した。何があったのかと問う人々に、王女は震える声で話し始めた。
「床についてしばらくしてから、ふと目が覚めたのです。何か水音を聞いたような気がしたのですわ。横になったまましばらく耳をすましておりましたら・・・・重たい・・・引きずる音が・・・・」
王女が気を失いかけたのを見て取り、王子はすばやく飲み物を王女の唇にあてがった。王女はそれを飲むと、再び話し始めた。
「あれは、海に面した窓から入ってきましたわ。暑い夜なので、私、開け放しておいたのです。この部屋の窓は水面よりだいぶ高い所にありますから・・・・。ああ、考えただけでぞっとします。あれは、きっと船べりをよじ登ってきたのでしょう・・・。幸いにも私がすぐに気づいて悲鳴をあげたので、あれは逃げて行きました。もしそうでなければ、私も今頃命を奪われていたことでしょう」
王女はその小柄な身体を身震いさせると、訴えかけるように王子を見つめた。
「あの少女ですわ。あの、暗い瞳の少女・・・・。あれはふつうの人間ではありません。おそらく、その昔海からきたものと交わった魔導師の子孫なのです。私、初めて会った時から、どこかで見たような気がしていたのです。やっと思い出しましたわ。城にある「ルルイエ異本」、子供の頃、見てはいけないと言われながらも、私見てしまったのです。そこに、海からきたものと人間とが交わる「最海淵の契約」のことが書かれてありました。その契約によって人間は数百年の長い寿命を得ることができ、引き換えに、海からきたものは、人間の持つ「永遠」を手に入れることができるのだそうです。本には、昔それを行った魔導師のことも書かれていました。そしてその挿絵にあった異形の子に、あの少女の瞳はそっくりなのです。」
王女の常軌を逸した話に、一同の者は顔を見合わせた。だが、王子だけは、真っ青な顔で俯いていた。
思い出されるのは、少女が語った故郷の話だった。そして追放されたという少女の祖父。発音できぬ名の、彼らの神・・・・。あの夜確かに聞いた、不気味な歌・・・・。
何度か感じたことのある、なんともいえない不安。あれは、異質な者に対しての、本能からの警告だったのだろうか。
王子はふと思い出した。少女は、何かを求めてやって来たと言っていた。
「その、海からきたものが望む『人間の持つ永遠』とは、一体・・・・?」
王子は恐る恐る、王女に尋ねた。
「私にもよく分かりません。本にも、それについて詳しく書かれてはありませんでした。ただ、私は・・・それは・・・・魂のようなもののことではないかと思いましたわ」
「魂?」
「ええ。ああいった海のものたち、『深きものども』と、本には書かれていましたが・・・・。そういったものたちは死ぬと、何も残さず完全に消えてしまいます。初めから存在しなかったものと同じように。でも私達人間には魂があります。魂があるからこそ、人は死んだ後天国へ行けるのですわ。そして残された人々にも、お互いを想う心や思い出が・・・・その人が去った後もずっと残ります。それもやはり、魂というようなものがあるからだと、私は思うのです。たぶん、『人間のもつ永遠』とは・・・そういうもののことではないでしょうか」
王女は真剣な顔で王子を正面から見据えると、言った。
「あの少女は、今度はきっと貴方を殺しにやってきます。貴方は私を后に選ばれたので、あの少女にとってはもう『最海淵の契約』を結ぶ望みがないのですから。契約が失敗に終わる場合には、海からきたものは、夜が明ける前に『虚無の剣』をもって相手を刺し殺さねば、自分が泡になって消えてしまうのだそうです。本にはそう書いてありましたわ」
「そんな・・・・」
王子は返す言葉もなく、ただ王女を見つめ返した。
「きっと来るでしょう。そして、貴方だけでなく、私も・・・・」
王女はためらい、そこで言葉を切った。
人々は王子の部屋に集まって夜明けを待つことにした。船には、ごく少数の護衛兵が乗り込んでいるだけであった。いざとなったら自分で、自分自身と王女の身を守らなければならない。王子は覚悟を決めた。剣を携え、長椅子に王女と並んで腰を下ろし、待った。
恐怖にさらされひたすら朝日の訪れを祈る人々の間に、緊張感が漂っていた。
もう一度、必ず来る。船全体を包み込むような禍々しい空気が、皆にそれを感じさせていた。
ただ静かに待っている時間というものは、人にものを考えさせる。王子の胸には、少女と出会ってからの日々のことがまざまざと思い出された。今にして思えば、おかしな事がたくさんあった。それが、王女の話で全て辻褄が合う。
あの海難事故の日。波間に蠢いていた女。あれは・・・。嵐を呼び船を転覆させたのだろうか。
誰かに助けられたと感じていたのは・・・・。夢ではなかったのか。王子に取り入って魅惑し、「最海淵の契約」の相手とするために助けたのだろうか・・・。
二人の関係に好意的でなかった大臣を殺し、無残な水死体にしたのもあの少女なのだろうか。
あの血の滲む足は、異形の姿を隠したためだったのかもしれない。忌むべき、魔道の力によって。そして、海へ向かった先祖とは逆に、自らの長い生命と引き換えに人の「永遠」を手に入れるため、海から上がってきたのだろうか。人ならざる自らの体を傷つけてまで・・・・。深淵から、光に、焦がれて。
王子はふと考えた。
魂、人の持つ永遠とは何だろう。長く生きられないかわり、この世界に永遠の存在として残ることもできる人間。力を持ち、長い時を生きるが、最後には跡形もなく消え、何も残さない異形の者共。どちらが幸福なのだろう。王子には分からなかった。
だがしかし、異形のものの浅ましき執念は今、王子が生まれて初めて味わう名状しがたき恐怖となり、王子を支配していた。
その執念は今や、ただの人間である王子には抵抗しがたい力を持って、王子を取り込もうとしている。あの嵐の海の、黒い波のうねりのように、王子を飲み込んで深遠に引きずり込もうとしているのだ。
何事も起こらないまま、刻一刻と時間は過ぎていった。人々の間に、緊張感のあまりの疲労が漂い始めた。部屋の中の全員が、次第に苛立つそぶりを見せ始める。まるで猫が鼠を弄ぶように、邪悪なる強者が弱者である人間をいたぶっているように人々は感じていた。
やがて船窓から見える夜空が、ほんの少しだけ黒から濃紺色に変わってきたようであった。夜明けまであと少しだ。もうこのまま、異形のものはやって来ないのかもしれない。そうすれば、王子も王女も生き長らえることができる。長い苦痛の反動で、人々の顔に安堵の表情が浮かんだ。
その時であった。
「何だ、あれ・・・」
部屋にいた王女の護衛兵の一人が呟いた。
「どうしたんだ」
「・・・おい、何か聞こえないか?」
幾人かの兵達が互いに顔を見合わせた。部屋の中は一瞬にして静まり返り、その場の全員が耳をそばだてた。
そして次の瞬間、王子の全身は恐怖で凍りついた。
どこからともなく聞こえてくるのは、歌であった。聞き覚えのある、あの不気味な旋律であった。
誰かが遠くで歌っているような、ささやくような歌声。それに、一人、また一人と他の者が加わってゆくにつれて、声は次第に大きくなっていった。そして瞬く間に、大勢の、力強い大合唱となった。それが四方八方から聞こえてくる・・・・。歌うものたちが、船を取り囲んでいるのだ!人々は恐怖に身がすくみ、言葉を発する者は誰一人いない。そして・・・・。
ずぅるり・・・・ダン! ずぅるり・・・・ダン! ずぅるり・・・・ダン!
重たく湿った何かをゆっくりと引きずるような音と、床に叩きつけるような音が船室の外から聞こえてきた。それは、交互に、規則正しく一定の間隔をおいてくりかえされている。そしてその音は、一度ごとにほんの少しづつ、少しづつ、大きくなってゆく。
ずぅるり・・・・ダン! ずぅるり・・・・ダン! ずぅるり・・・・ダン!
人々は戦慄した。
やって来たのだ。あれが。水底から這い上がってきたものが。
長い時間身構えていたにも関わらず、誰も、動くことすらできなかった。歌声はますます大きく、波のようにうねり、響き渡る。そして、引きずる音は部屋の扉の前で止まった。部屋の中の全員が、その扉を凝視した。
扉は音もなく開いた。途端、部屋中に、強い海風と共に生臭い臭気が流れこむ。そしてそこに立っていたものは・・・・。ああ。
遠く見知らぬ世界からの恐怖。およそ人間には到達しえない次元の力と、その一端を身につける、一人の少女の人間としての情念。
それは2つの恐怖の混血であった。人と人ならざるものの、異形の混血。人外の力と、人間の情念との混血。そしてそれにふさわしく、人間とも異形ともつかぬおぞましい姿をしていた。
恐怖。混乱。痛み。不安。悲しみ。苦しみ。怒り。絶望。無力。虚無。嫌悪。狂気。この世界の全てのどす黒いものを、体現しているかのようであった。
少女の美しかった真珠色の肌は今や醜くただれ、その身体全体が、所々に灰色の鱗がぶら下がった肉の塊でしかなかった。そしてその肉はすでに崩れて溶けかかり、ぽとり、ぽとりと小さな肉片を絶えず床に落とし続けている。それにも関わらず、可愛らしかったその顔が、崩れつつもまだ原型を留めていた。だが今そこに浮かぶ表情は、およそ人間のものではない。薄笑いすら浮かべながら、その見開いた瞳は、王子を喰らうかのように見つめていた。
いっそのこと、完全に化け物の姿になっていてくれれば良かったものを、と、王子は思わざるをえなかった。
その恐るべきものの口元は微かに動き続けていて、何かを呟いているのが分かる。その言葉、いや音と呼んだ方が良いであろう。それは、王子にはただゴボゴボと水音のようなものが聞こえるばかりであった。
しかし何よりも王子の心臓を凍りつかせたのは、このおぞましきものが身に白い布を纏っていることであった。それが何を意味するか、王子には分かってしまったのだ。
それは、花嫁が着るはずのウエディングレスであった。王子は、いつか少女に告げた自らの言葉を思い出した。ああ、この名状しがたき生物はやはり・・・・。かつて、人間でもあったのだ・・・・。
それはゆっくりと、ゆらゆらと左右に揺れながら、王子に近づいてきた。動くたびに、据えた生臭い匂いを放つ。その水かきの生えた手には、銀色に輝く不思議な形の短剣が握られていた。王子も、王女も、兵達も、恐怖のあまり身がすくみ、その歩みを止めることができない。ただ、少女のその姿と短剣とに目を見張るばかりであった。
「殺される」王子がそう思った瞬間、心もとない手つきで短剣をひらつかせていた化け物の腕がずるりと、崩れ落ちた。
化け物は、床に落ちた短剣と自分の腐れた腕とをじっと見つめた。王子はすかさず短剣を蹴り飛ばした。短剣は勢いよく床の上を滑っていき、部屋の隅の壁に当たってするどい音を立てた。その音で我に返ったらしい化け物は、短剣を取り返そうとそこに向かった・・・・。
その刹那、その日最初の天からの光が、船室の窓ガラスから差し込んだ。化け物の姿はまばゆく照らされたかと思うと、見る間に、どろどろと崩れ始めた。化け物は天を仰ぎ、呻き声を上げ、残った片方の腕で崩れかけた顔を抑えた・・・。だがその腕もずるりと崩れ、鈍い音とともに床に落ちた。化け物は身を翻すと、ずるりずるりと半ば這うようにして、開け放してあった両開きの窓に寄っていった。その間にも、崩れた肉片を点々と床に残しながら。テラスに出ると、そのまま手すりを越え、朝もやの立ち込める夜明けの虹色の海にその身を投げ打った。およそ人間に発声できるとは思われぬ呻き声を上げながら。
王子は手すり際に駆け寄ると、海面を覗きこんだ。海面には、泡が、真紅の泡が、シュウシュウと音をたて水煙を上げながら沸き立っていた。しばらくすると泡は消え、後には、所々に汚らしい染みのついたウエディングレスが海面に漂っているばかりであった。
いつの間にか歌声は止んでいて、朝凪の海が、太陽の光を受け眩く煌めいていた。
王子と王女の結婚式は、それは盛大なものであった。両国の国民は、この輝かしい日を国を上げて祝った。
それから、時がたった。父王が亡くなり、王子は即位して新王となった。幸福な王と王女は、沢山の王子や王女に囲まれて暮らした。国は安定し、人々は豊かな時代を享受した。
だが・・・・。
今も時々、王子は感じるのだ。どこからか、藍色の瞳がじっと自分を見つめている。何かが、泡のように自分の身体にまとわりついている。いつか、自分の足元で突然深淵が口を開き、中から巨大なものが這い上がってくるような気がする。
そして・・・・何よりも。あの匂いがいつもするのだ。魚の腐ったような、生臭い臭気が。




