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前編

最近たまたま青空文庫にあったアンデルセンの「人魚姫」を読んだのですが、あまりに感動したので、オマージュ作品を・・・・と思い、書きました。(それがなぜかこんな暗い話に・・・。(^_^;))原作と合わせて読むと、より楽しんで頂けるかと思います。

 誰でも知っている話なだけに大人になってから読むことは少ないと思うのですが、これが本当に素晴らしいです。青空文庫にあるものは翻訳が古いのですが、それがまた雰囲気があってすごく良い。オススメです。

 その日は、若き王子の16歳の誕生日であった。

 その国、長い海岸線を擁する豊かで美しい緑と青の小国の、未来の統治者たる若者は、「若い」と形容するのにさえまだ早すぎるほど、満16歳になる今日でも子供の面影を色濃く残していた。この国の者にしては白すぎるほどの、きめの整った美しい肌。まるで少女のようにバラ色に上気した頬。上流階級特有の、感情の起伏の穏やかさを表すような、品の良い薄い唇。そしてこの国を象徴する広大な海原を映したような、明るい、少し緑がかった青い瞳。生まれながらに高貴な者に与えられた気品と、優雅な物腰。

 この愛らしい少年の彫刻のような若者は、今日は一日中、国中の名だたる人々からの祝いの言葉と贈り物を、過度でない程度の感謝を示しつつ次から次へと受け取るのに多忙であった。誕生日の祝宴が、今日この日の為に特別に設えられた、3本のマストのある白く美しい大型船の甲板上で盛大に行なわれているのだ。白砂輝く海岸を一望する豪奢な城に育ち、海をこよなく愛する王子の誕生日を祝うため、特別な趣向の祝宴が用意されたというわけなのだ。

 船は今、夕凪の中を漂い、仕事のない水夫たちは帆綱や帆桁に腰をおろしては美しい彼らの王子と、彼を取り巻く綺羅びやかな人々を眺めていた。彼らの王子はあどけなさを残しながらも、甲板を行き交う大勢の人々に絶え間なく笑顔を振りまき、握手を交わし、そつなく社交をこなしていた。その態度にはすでに未来の支配者としての風格すら感ぜられた。

 やがて夕闇が迫る時刻になると、船上ではさまざまな色ランプに光が灯された。楽団が演奏を始め、人々は列や輪を作って踊り始めた。色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちがくるり、くるり、と身を翻して踊るさまは、色ランプと同じほどに見るものの目を楽しませ、この華やかな祝宴をさらに明るく彩るのだった。

 すっかり暗くなってからは花火が打ち上げられ、海上は真昼のように明るくなった。それはまるで、一億の星が空から降ってくるかと思わせるような、壮麗な眺めであった。さらにそれが海面に鏡のように映り、その光景を幻想的なものにしていた。花火師たちも今日この日のために、その技術を余すところ無く注ぎ込んだに違いない。


 お祝いの言葉を述べるために列をなす人々の群れが途切れた隙に、王子は、ふと、甲板の端まで近寄ってみた。人いきれから少しだけ離れ、新鮮な海の空気を吸おうと思ったのだ。王子のような人間にとってすら、社交というのは、それなりに気力体力を消耗するものなのだろう。

 王子は軽く溜息をつき、遠く海原を見やった。日はすっかり沈み、赤々と灯をともした船の周りは、今はただ黒いばかりの海が果てしなく取り囲んでいる。銀色の三日月が、その表面をわずかばかり照らしているのみだ。遙か海岸の方角に、自分の住まう城の明かりが小さく、蛍のように見えていた。王子はそれを愛おしいものを見る目で眺めた。

 パシャリ、と、水音が、王子の足元の方から聞こえた。何気なく甲板の上から覗きこんだ王子は眉をひそめ、思わず目を凝らした。

 そこには、何かゆらゆらとした糸状ものが、波間に蠢いていた。

 昼間は王子の王冠に散りばめられたサファイヤのごとく青く輝くこの海も、今はただ漆黒の水をたたえてそこにあるばかりだ。よくよく目を凝らしてみたが、それが何なのか王子には分からなかった。白っぽい色をしているが、海藻のようにも見える・・・・。だが、そうではないらしい。その証拠に、海面は穏やかに凪いでいるというのに、その「もの」はゆらりゆらりと、まるで生命があるかのごとく自ら動いているように見えた。

 船から落ちた、ロープの切れ端か何か。と思った次の瞬間、王子の全身が総毛立った。

 ゆらゆらと蠢く糸の束の間から、白い、丸いものがゆっくりと水面に浮かび上がったのだ。それは女の頭部、ゆらめいていたものは、女の長い金色の髪であった。

 女は喫水線上にあるガラス張りの窓の数々を順繰りに見やり、船の内部を観察しているようであった。

 王子は思わず後ずさった。この夜闇の海を泳いでいるものがいる。人間に見えるが、そうであるはずがない。王子はもう一度船べりに顔を近づけると、それを見ようと身を乗り出した。ところがその間に、それはまるで慌てて身を隠すかのように、水面下に沈んでいってしまったのだ。


 しばらくの間、王子はその場に立ち尽くしていた。脇の下に冷たい汗をかいているのに気づき、王子は我に返った。思わず振り返って甲板上の人々を見回したが、どうやらたった今自分が見たものを目撃した者は他にいないようだった。船上では煌々と明かりが揺らめき、皆明るく楽しげに踊り、歌い、歓談していた。

 王子はもう一度、海原に目をやった。深淵。そこにはただ闇があるばかりだ。それは船上の明るい華やかさと見事なまでの対比をなしていた。そのあからさまな対比は、どこか滑稽ですらあった。2つの世界を隔てる船べりはまるで、作られた人間の世界と、神々の治める自然界との境界線のようでもあった。

 王子は子供の頃に子守から聞いた、この地に伝わる伝承を思い出した。

 その昔王家に仕える祭祀の一人が、王立図書館の封じらた地下書庫から、かの有名な魔導書、狂えるアラブ人アブドゥル・アルハザードによる禁断の「ネクロノミコン」を持ち出した。祭祀は、「終わりなき存在」を希求していた。彼は魔導の書の導きに従って、「最海淵の契約」を結び、あり得べからざる月齢の時に「海からきたもの」と交わった。そして異形の子供が産まれた。それは、上半身は人間そっくりの形をしているものの、下半身は魚のようであったという。ぬらぬらとした鱗を持ち、魚の腐ったような、すえた生臭い匂いを放ち、その目は深海の色に怪しく光って人間を惑わせた。やがて近海に現れては、船が難破して溺れた人間を取って喰らうようになったという。人々が魔道に堕ちた祭祀を追放しようとした時、数百年に一度の機会でかの水没都市ルルイエが浮上し、彼と異形の子はそこから来た「深きものども」に迎えられて去った。そして「ネクロノミコン」も、その時に共に持ち去られたままだという。

 人には超えてはならぬ境界線を踏み越えた魔導師と、その異形の子。そういった魔道に落ちたものは、人間のもつ「永遠」を持たないのだとその子守は幼い日の王子に語った。彼らは「無」に帰する存在だが、その代わり人間より遥かに長命で、数百年の時を生きるのだと。幼い王子には、「人間の持つ永遠」という言葉は理解の及ばぬところであったが、それ故に、この子守の話は王子の心に深い印象を残したのだ。

 「それならば彼らは今もその海底都市に住むのだろうか」王子の頭にふとそんな考えが浮かんだ。

 王子は暗い闇の海を見つめた。「もしこの暗黒の世界に住まうものがあるとしたら」王子は思う。この明るく華やかな船はまるで彼らにとっての「光」に違いない。焦がれるあまり、この深淵のどこからか、じっとこちらを見つめているに違いない・・・。

 王子は軽く頭をふって、自身の夢想を否定した。繊細な感性と想像力などというものは、人の上に立つものの天敵である。王子は幼い頃から現実的な人間であるよう訓練されていた。さきほど見たものは単なる見間違い、きっと海に落ちた浮きか何かを、夜闇の不気味さのせいで見間違ったのだ。

 王子は再び人々の間に、現実の、人間世界の彼に戻っていった。しかし王子の頭の片隅からは、自ら描いた、人と人ならざるものの混血、異形の化け物の姿が消えなかった。その不気味さに王子は身震いし、それを振り払うかのように、必要以上に明るく朗らかに人々の間で振る舞うのだった。

 

 祝宴は夜通し続く予定だった。だが、深夜を過ぎた頃、遙か遠くに稲妻の光が見えたかと思うとそれは見る間に近づいてき、雷鳴の轟きが、船上の楽団の奏でる音楽を破って響いた。月はあっという間に雲に隠れたので、何人かの船員たちが船の明かりの数を増やすために走り回りはじめた。船は右に左に、大きく傾ぎ始めた。 船は港の方向に急旋回し、船員たちは大急ぎで帆を巻き上げた。船は風のように素早く港を目指したが、嵐の到来はそれよりも早かった。大きな黒い山のような不気味な波のうねりが、ゆっくりと船を持ち上げてはまた落とした。船上の人々は本能的に危険を察知し、悲鳴を上げ、逃げ惑い、あるいはお互いにしっかりと抱き合った。

 やがて船はギシギシと音を立て始めたかと思うと、稲妻が轟音と共に閃き、マストの1本を打ち砕いた。そこへすかさず、無常にも黒い水の巨人が襲いかかり、船はあっけなく横倒しになった。明かりは消え、辺りは闇となった。ただ人々の阿鼻叫喚の声がその中を響き渡っていた。


 恐怖。それだけが、今王子を支配する全てだった。必死に泳ぐ王子に波のうねりが襲いかかる。潜っていったんかわすものの、浮かび上がったところに、ちょうど次のうねりが襲いかかった。苦しさに耐えかねて息を思い切り吸い込もうとした王子は、空気の代わりに水を吸い込んだ。それはまるで大自然の使者黒い巨人に、その巨大な手のひらで首を絞められたようであった。

 パニックが王子を襲った。冷たい海水よりさらに冷たく全身の神経が凍りつき、手も足も泳ぐことなど忘れ、王子はただひたすら虫けらのようにもがくだけだった。 そこへさらに大きなうねりが襲いかかった。もがきながら見上げた王子の眼前に、巨大な黒い壁が立ちはだかった。「引きずり込まれる」と感じた瞬間、名状しがたき絶望と虚無感が勝利の鬨の声を上げた。

 それは、死の恐怖とはまた別のものだった。大自然という、太刀打ち出来ようはずも無い大いなる存在によって、尊厳ある人間としての何もかもを取り上げられ、その無慈悲な腕に絡め取られる無念さ。個としての自分の存在が消滅して大いなるものの一部となり、王子という人間など始めからいなかったものと同じになるという悲しみ。

 巨大な黒い壁は王子の眼前で信じがたいほどの速さで崩れ、王子の身体を巻き込んで水中に引きずり込んだ。


 王子は夢を見ていた。

 夢の中で、王子は暖かく柔らかいものに包まれていた。誰かが頬を寄せ、王子の髪をかきあげ、額に幾度となくキスをし、呼びかけて、励まし続けた。王子の命を祈る声を、一度聞いた気がした。それは、王子には聞き取れない神の名の元に、王子の命の救済を訴えていた。

 遠くから鐘の音が聞こえて王子が目覚めた時、目の前には、美しい娘の顔があった。レモンとオレンジの香りがしていた。

 果樹園とシュロの木で囲まれた美しい入江の砂浜に、王子は横たわっていた。空からは日差しが降り注ぎ、それは王子の濡れて冷えきった身体を優しく温めていた。

 「気がつかれましたか」

 美しい娘は、穏やかな笑顔を見せるとそう言った。娘は自分の膝に王子の頭をのせ、守るようにその柔らかな手をそっと当てていた。

「今、人が参りますから、どうぞそのまま動かずに」

 横たわったまま娘の顔を見上げると、太陽がその細い鳶色の髪を透かして輝やいているのが見えた。それは、神々しいまでの眺めであった。二度と見れなくなるかも知れなかった陽の光。それもまた、王子の命を奪おうとした自然の驚異の別な姿であった。神の作りたもうたその偉大なる自然に畏怖の念を懐きつつ、王子の心には、自らの命に対するその慈悲深い采配への感謝があふれた。

「ああ、助かったのだ」王子は心から、そう感じた。

 まもなく、入江の脇に建つ白い建物から大勢の人々が足早にやってきて、まだ思うように動けぬ王子を抱き起こした。人混みの中で王子は先程の美しい娘を見失ったが、その姿は王子の胸に焼き付いていた。優しい白い手の感触も、祈ってくれた声も。娘は、あの恐怖から王子を救い出すために舞い降りてきた神の使いのように思えた。

 人々は王子に肩を貸し、白い建物に連れていった。先ほどの鐘の音は、その修道院からのものだった。

 建物の門に足を踏み入れる直前、ふと、王子は振り返った。誰かに見られている。そんな気がしたのだ。だがそこには嵐の後で鏡のように凪いだ入江に、輝く太陽の光が眩しく反射しているばかりだった。


 王子が住まう、美しい白浜沿いに建てられたクリーム色の外壁の城からは、直接浜辺に降りられる大理石の階段があった。王子は時々、夜もふけてから、明るい月明かりが差し込むその階段の上に立ち、ずっと波の音を聞いていることがあった。 ただあの海難事故の日以来、そういう時にはいつも決まって、誰かに見られているような気がしてならなかった。

 ある夜明け、王子はいつもより早く目が覚めた。どうにも目が冴えて再び寝付く事もできないので、起き上がって身支度を整えると、早朝の散歩に出かけた。足は自然に、浜へ降りる大理石の階段の方に向かう。と、階段の途中に、なにか見慣れないものがあった。人だ。誰かがそこに倒れていた。王子が驚いて駆け寄ると、そこには、一人の美しい少女が、意識を失って倒れていたのだった。

 年の頃は王子と同じくらい。ダークブロンドの、豊かで濃い長い髪。華奢な身体つき。

 王子がただ呆然と少女の顔を見つめているうち、少女は突然、その瞳を開いた。

 深淵。

 最初に王子の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。

 少女の瞳は、深い深い藍色、深海の色をしていた。しかし単にその色だけではない、何か、王子をじっと見つめるその瞳の中の何かが、王子に深淵を感じさせたのだ。それは一瞬王子を不安にさせ、口を開かせた。

「あなたはいったい誰ですか。どうしてここに?」

 少女は、その形の良い赤い唇をゆっくりと動かした。だがその唇からは、何の音も発せられる事はなかった。少女はただ悲しげな表情で王子を見つめたので、王子は、この少女は口がきけないのだと理解した。

 王子は少女の手を取ると、城の中へ導いた。侍女に命じて少女に上等な服を着させてみれば、果たして、大変な美しさであった。宮廷の美しい淑女たちを見慣れている王子ですら、はっと目を凝らしたほどであった。


 その夜。城ではささやかな催しが行なわれていた。旅回りの一団が、踊りと歌を披露するために城にやって来ていたのだ。一座の娘たちは美しい声で歌い、なかでもそのうちの一人は非常に王子の気に召したようで、盛大な喝采を受けて、恥じらいつつも笑顔を見せていた。

 やがて楽団の演奏は一層の盛り上がりをみせ、踊り子達が登場した。城に招かれていた高貴の人々も次々と踊りの輪に参加し始め、今夜の催しはおおいに盛会となった。

 少女も大広間の端の方で控えめに佇んでいたが、つと、立ち上がると、何気なく踊る人々の群れに紛れ込んだ。

 高貴の人々が、一人、また一人と、踊る足を思わず止めて少女に見入った。

 少女の、まるでシャボンのような軽やかで優雅な足取りに、王子をはじめ人々は驚きを隠せなかった。真珠のような白い腕はひらひらと蝶のように舞い、そして踊りながら人々に振りまくその目線は、言葉を語る以上に雄弁だった。人々は誰も彼も、すっかり魅せられてしまった。さらに、並ぶものがないほど美しいだけでなく物を言わないことで、少女はどこか神秘的なところを人々に感じさせた。王子ですら、少女のその風情と気品ある佇まいに、「存外、育ちの良い少女なのかもしれない」などと、見知らぬ者への警戒心を緩めざるを得なかった。

 その夜、催しが終わる頃には、少女はどうやらすっかり人々を虜にしてしまったようであった。王子ですら、少女に「可愛い娘さん」と優しく呼びかけ、行く所がないのであれば、しばらくこの城に滞在していても構わないと伝えた。


 日が経つにつれて少しづつ、王子は少女に好意を抱くようになっていった。兄妹もなく、立場上、同じ年頃のものと親密に交際することが制限される王子にとってはまるで可愛い妹ができたようだった。活発な王子はよく少女を伴って出歩いた。少女を自慢の小型船に乗せ、馬で森の中を歩きまわり、小高い丘に登っては、そこから眺められる範囲全ての、自分が将来治める土地について少女に語った。そんな王子の横で、少女はいつもにこやかに微笑みかけていた。

 実際、少女は美しいだけでなく、聡明で控えめで淑やかで、愛すべき存在であった。時にひどく子供っぽく純粋な表情を見せることがあったが、それが一層、王子の庇護欲を掻き立てた。少女はものを言う代わりにその神秘的で雄弁な瞳で常に王子を見つめ、王子が何を言っても、さも感心したように聞き入った。


 だがこの友情を、快く思わない者もいた。中でもとりわけ、王子が幼い頃から仕えている忠実な大臣の一人は、心中の不安を隠さなかった。未来の王たるものが、身元のはっきりしない者を傍近くに置くべきではない、と彼は人前で発言して憚らなかった。彼は王子が幼い頃に教育係として仕えた経緯で、王子の、あまり思慮深いとは言えない性格をよく知り抜いてもいた。その的確な言動と忠実心で、王子の彼への信頼は絶大なものであった。そのため苦言を呈する事も出来る立場にある彼は、軽率な行動を慎むようにと再三王子に進言していたが、王子はのらりくらりとそれをかわしつつ少女をそばに置き続けていた。

 ある昼下がり、少女が王子の自室のドアをノックしようとした時、中から話し声が聞こえてきた。辺りに誰もいないのを確認すると、少女は、そっとドアに耳を寄せた。

 部屋の中では大臣が、王子に多少きつすぎる程の言い方で、王子の日頃からの軽率な言動をたしなめていた。

 大臣が退出するとすぐ、少女は王子の部屋に入った。さすがに王子は神妙な顔をしていたが、すぐに笑顔を見せた。だが少女の表情から、話を聞かれてしまった事を悟ると、少女をそばに腰掛けさせ、優しくその手を取って、慰めた。

「話を聞いてしまったのだね。でも、気にしなくとも良い。お前は誰よりも僕を大事に思い、仕えてくれている。そのうち彼も分かってくれる」

 少女は穏やかに頷いた。しかし、その神秘の瞳の深淵に宿るものが何かは、誰にも図り知れるところではなかった。

 

 その夜遅く、王子は時たまそうするように、海を一望する自室のテラスで静かに夜の海を眺めていた。城の者は皆寝静まっている時間だ。いつも人に囲まれている王子にとっては一時の孤独を楽しむ時間であったが、やはりあの事故以来、こうして夜の海を眺めていると、その事を思い出してしまう。だが王子は、今も残るあの恐怖の感覚に身震いしつつも、同時に、あの不思議で心地よい夢のことも思い出していた。王子には、まるで誰かが王子を海の中から救い出し、あの浜まで連れて行ってくれたような気がしてならなかった。だが、あの嵐の中でそんな事ができる者がいるはずもない。

 王子は溜息をつくと、あの、修道院の娘を想った。あの日以来、忘れる事が出来なかったのだ。あれはきっと、あの娘の優しい心が自分に見せた夢だったに違いない。王子はそう考えた。

 王子がそんな風に物思いに耽っていると、ふと、どこからともなく人声が聞こえた気がした。思わず耳をそばだてると、それは、どうやら歌らしかった。こんな夜更けに誰が歌っているのだろう。王子は訝しんだ。


小さきものどもの神

暗き海の都市に住まう

かつて混沌を支配した偉大なる方々よ

乾きの水で再び世界を満たせ

呪われし終わりなき幸福に火を灯せ

我ら虚無の剣を携え赤い月のもとに集う

8番目の眷属ヒム・クォヒグを我らのもとに遣わせたまえ

偉大なるクトゥルフ 

海淵より再びい出て我らの供物を受けよ

輝くトラペゾヘドロンを


 それは、王子が今までに聞いたことのあるどのような音楽とも違っていた。意味の理解できない歌詞以上に、その旋律は、人間の本能的な不快感を呼び起こすものであった。いったいどんな音楽家がこのような不気味な曲を作曲するのであろうかと、王子は鳥肌の立った自らの二の腕をさすりながら思った。

 不気味な歌は、海の方から聞こえてくるようだった。王子はテラスの手すりから身を乗り出したが、辺りは闇で、何も見えない。王子は部屋を出て階下に降り、広い城の前庭に出た。と、小さな水音が聞こえた気がした。そして歌はそれきりやんでしまった。ホッとしたような、むしろより不気味なような、複雑な思いで、王子は辺りを見まわした。と、浜へと降りる大理石の階段に誰かがいるのに気づいた。

 城の中から漏れる薄明かりを頼りに目を凝らして見つめると、そこには少女が、こちらに背を向けて立っていた。少女は、その白い足を海の水に浸していた。

 少女の足が時おり痛むらしいことは、城の者はみな気づいていた。その細い足首から、うっすら血が滲んでいることすらあったからだ。

 きっと、足が痛むので冷やしていたのだろう・・・。可哀想に。王子は少女に声をかけた。

「大丈夫かい」

 少女は驚いたように、素早く振り返った。その頬が乾いているにも関わらず、王子にはなぜか、少女が泣いていたかのように見えた。藍色の瞳が、薄闇の中でいつもより一層色濃く見えていたせいであろうか。

 と思うと次の瞬間、王子の背筋に冷たいものが走った。

 少女の表情が、王子に気づいた一瞬のうちに、微笑みに変わったのだ。足首からは血が流れだし海水に溶けてゆくのが薄明かりの中でも見える。ひどく痛むに違いない。それなのに、少女は王子に向かって微笑みかけているのだ。その不自然さ。王子の本能が、不快感をもって、王子に警告していた。

 しかし王子はその不安感を押し隠すように、口を開いた。

「お前はいったい何者で、どこから来たんだい。なぜ僕にそう尽くしてくれるんだい」

 地位あるものとして、王子は、他者から何の理由もなく好意や敬意を与えられることに慣れていた。しかしその王子ですら、少女のここまでの献身には何か異常なものを感じずにはいられなかった。それは臣民としての礼儀や好意といったものを超える何かであることぐらいは、この、物事を深く考えることのない若者にも理解できた。だがそれが何であるかにまでは、考えが及ばなかった。そして、その考えもしないという事実こそが、王子の少女に対しての感情が、単なる妹のような存在に対する親愛の情を超えるものではないことを証明している。

 少女は口を開いたが、まるで自らが口をきけないのをたった今思い出したかのようであった。少女は王子の手を取ると、その手のひらに自分の指で文字を綴った。

 王子はふと思いつき、少女を伴って部屋に戻り椅子に座らせると、紙とペンを与えた。こうして筆談により語られた少女の話は、実に興味深いものであった。


 私は、ここより少し離れた場所から参りました。そこは色々な違う者達がみな一緒に平和に暮らしている、たいへん美しい都市です。私の一族はそこで、偉大なる神を崇めて暮らしています。私はそこで生まれ育ち、このお城に来るまでは他の場所を知りませんでした。しかし、私のお祖父様はもともとこの国からやってきたのだと聞いています。お祖父様はある本によって人智を超える「偉大なるもの」の存在に気づき、その信仰の道を極めようとしたのですが、それを理解できぬ愚かな人々によって国を追われました。そしてその都市に迎えられ、今では一族の長となりました。

 私は事情があって、故郷を出て、この国にやって参りました。あるものを求めているのです。でも今は詳しくお話することはできません。私は貴方に心から尽くして差し上げたいと思っております。それは、貴方がご立派な方だからです。心を込めてお仕えしますので、どうぞいつまでもお側においてください。それだけが私の願いです。


 少女がたった今書き終えた手記を読み終えた王子は、顔を上げた。そこには少女の、藍色の物言う瞳がじっと王子を見つめていた。それは、ただひたすら王子に対しての親愛の情を映すいじらしい瞳であり、つい先ほど王子が本能によって感じた不安の影を思い起こさせるようなものは何もなかった。王子の心の中の何かが、王子に、その影を無視することに決めさせた。このような美しい少女にこれほど慕われることに対しての、自尊心充足の快楽が、それであったかもしれない。それに、育ちが良いぶん非常に優しいところのある王子は、少女の不思議な生い立ちにも慈悲深いところを見せずにはおられなかった。

 王子は少女の手を取ると、言った。

「深い事情があるのだね。いいとも、ずっと一緒にいよう。それに実を言うと、お前は僕の初めて好きになった娘によく似ているのだよ。僕が船で難破して浜に打ち上げられた時、最初に僕を見つけて介抱してくれた娘だ。その娘は修道院に仕える身なので、もう会うことはできないだろう。でもお前を見ていると、その娘を思い出すことができるよ。お前はその娘の代わりにと、神様が僕によこして下さったに違いない」

 その時一瞬、少女の顔に複雑な表情が浮かんだことに、王子は気づかなかった。

 もし王子がこの時、自らの心の声に真摯に耳を傾けるほどの聡明さを持ちあわせていたならば、その後に王子はあの恐怖の一夜を体験することもなかったに違いない。


 かの大臣の水死体が、城近くの浜に打ち上げられているのを発見されたのは、その翌朝のことであった。

後編は、次週木曜朝5時にUP!

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