歯形の軌跡
僕の心を彼女が柔らかく齧っていった。
彼女の八重歯には魔法がかかっていたらしく、それからというもの僕は彼女のことで頭がいっぱいだ。劇的な魔力である。
彼女が僕の名を呼んだ。僕は彼女が誰なのか知らない。知らないけれど、僕は返事をした。多分、律儀な性格なのだろう。雲の上でぷかぷか浮かびながら、彼女はもう一度、僕の名を呟いた。
いつだって彼女は僕の目の前から消える。
彼女が小さく笑って連れ去られたので、律儀に連れ戻しに冒険の旅に出る。勝手なんだから、と呆れながら呟くと、彼女は心底楽しそうにありがとうと言う。
目の前に居る彼女は何とも形容し難い表情をしている。小指を見てみたら、赤い糸がこんがらがった果てにぶち切れていた。僕はもう一度彼女を見る。今にも泣きそうな顔で怒っていた。
彼女によると僕らは別に運命で結ばれた仲ではないらしい。結構どうでもよかった。僕は盲目なのかと尋ねると、その逆だよと彼女はまた笑った。彼女が笑っていないところを、僕は見たことが無い。
名前を呼んでと彼女が囁く。僕はとても困って、しばらく声という機能を忘却する。グーパンが左頬を突き抜ける。理不尽だ、と思いながらも、罪悪感が払拭しきれない。彼女が僕の名を呼ぶ。僕は黙っている。
生まれ変わっても一緒にいようとか、出来そうもない口約束をさせられる。それって実際可能なのかなと呟いたら、いつだって私の目の前に現れたくせにと彼女はこれ以上ないくらいに幸福そうに言った。
私のものよ。君は私のものなの。
五、六発殴られ雲の上に伸びていると、僕の胸倉を勢い良く掴み彼女が駄々をこねる子供のように泣いた。自分の左胸にやんわりと残る歯形を目にした僕は、彼女の名前を呼ぶ。




