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はなちこま

作者: 野宮

 振り返らないで。走りなさい。走って。生きて。空襲で崩れた家の下敷きになった母が遺した言葉だった。チセは叔母に手を引かれて泣きながら走った。母はまもなく火に吞まれた。

 田舎の叔母の家に引き取られたあと、毎日寂しさと悲しみを抱えて畑の隅で涙を流していた、そんな日だった。よく晴れていたけれど、前日の大雨のせいで足元の草は濡れていた。チセの草履も濡れていた。顔を上げて、チセは悲鳴を上げた。馬がいた。チセは叔母に知らせようと家に走った。馬はチセの悲鳴にも驚くことなく、そこに立っていた。

「おばちゃん、おばちゃん、馬、馬が」それまでずっと俯いて必要最小限のことしか喋らなかったチセの慌てた様子に叔母は驚いて家を飛び出した。

「まあ、ほんとだ。どこの馬かね、あんなにやつれて、かわいそうに」栗毛の馬は薄汚れてところどころ怪我をしたのか血が滲んでいたし、尻尾の毛は焦げてところどころ黒く縮れていた。畑の野菜を漁るでもなく用水路の水を飲むでもなくただぼんやり立っている馬に叔母が「おうい、お前さんや、おいで」と呼びかけると、彼はぼんやりとしたまま二人の方へ歩いてきた。

「お前も空襲から逃げてきたのかい。随分と慣れた馬だね、チセ、井戸にお勝手の下のぼろ布を持ってきな。洗ってやらにゃ、病気になるかもしれん」ほれ、おいで、と馬の頭を撫でて叔母が井戸の方へ歩くと彼は低く頭を垂れてゆっくりと彼女について歩いた。

 その日から馬はチセの友達になった。帰る場所があるかもしれないし偶然見つけただけで自分たちのものにするのは可哀想だから繋いだり閉じ込めたりはしないようにしようというのが叔母とチセの決めた約束だったから、ムギと名付けられた馬は頭絡もつけられず、好きな時に好きなところへ行って、雨風をしのぎたい時は廃墟になっている隣家の納屋に入って二人が敷いてくれた藁の上で寝ることができた。でも馬はどこへ行くでもなくいつも子守りのようにチセのそばにいたし、チセもできる限り多くの時間をムギと過ごした。チセは少しだけ笑うようになった。悲しいときがあっても、寂しいことはなくなった。ムギは馬だから喋らなかったけれど、チセにはその沈黙がどんな言葉よりも重く暖かいものに感じられた。ムギのすらりとした体型はどう見ても農耕には使えず、背が高すぎて幼いチセや小柄な叔母には乗ることができなかったので叔母はよく冗談で「役立たずのおばかさん」と言ったが、放し飼いなのに畑を荒らしたり物を壊すこともなくひたすら穏やかに姪に寄り添うムギの賢さも優しさも彼女は理解していた。

 まもなく戦争が終わった。チセは学校へ通うようになり、いつもまるで競走馬みたいな美しい馬を連れていた小さな女の子はいつしか馬と並んで美しい少女へと成長した。チセは馬の医者を志した。

 「おばちゃん、大学へ行かせてください」働いて自分の小遣いは稼ぐし学費の安い国公立大にしか行かないからというチセの言葉に、叔母は微笑んで頷いた。「お金のことは気にするな。卒業するまで働かなくていい。行きたいなら一生懸命勉強しなさい」翌春、チセは東京の大学で獣医学を学ぶことが決まった。

 「今までありがとうございました。わたし、がんばるね」駅まで見送りに来た叔母とムギに、チセは笑って言った。「ムギ、ちょっとお別れだけど、きっとお前を診れる医者になって帰ってくるからね、待っててね。おばちゃんをよろしくね」チセが駅に吸い込まれて見えなくなると、咽び泣く叔母の肩にムギはそっと鼻面を寄せた。それが最後だった。ムギは数か月後に眠るように死んだ。唐突だった。東京にいたチセのもとへは、短い訃報を知らせる手紙と暗い金色のたてがみだけが届いた。

 チセは数年後獣医になり、たくさんの馬に出会うことになった。凶暴な馬や臆病な馬、優しい馬、賢い馬、彼女は出会うすべての馬を愛したが、ムギは彼女の中で一番の親友であり理解者であり続けた。チセは七〇歳を目前にした最期の日まで馬を診た。棺の中には、彼女が肌身離さず持ち続けた暗い金色のたてがみが入れられた。


      

 彼の栄光を見届けたのはたったの二百人余りだった。戦争の激化により全国の競馬場は次々閉鎖され、東京と京都でのみ軍馬選定の名目で能力検定競争が行われた。前年まで東京優駿競争と呼ばれ、戦後日本ダービーの名を冠されることになるそのレースもこの年だけは東京能力検定競争と名前を変え、馬券発売も一般観覧もなく、観戦を許されたのは馬主と陸軍の軍人たちのみだった。

連日の雨によりぬかるんだ重い馬場で、カイソウは二着馬に五馬身差をつけてゴールを駆け抜けた。圧勝だった。でも、彼を称えたのは、称えることができたのは、厩舎関係者や生産者など、ほんの一部の関係者だけだった。もとからあまり明るい色でないのに泥をかぶってさらに黒くなった栗毛の馬体を、彼らは何度も撫でた。

 そのレースの後のカイソウの道のりは不遇なものだった。一勝したものの、二冠を目指して出走した京都長距離特殊競走では一着入選後に全馬がコースを間違えて走っていたことがわかりレース不成立、彼の二冠は幻になった。ここで勝ち星を重ねられなかったカイソウはその後の種牡馬選定競争で大敗を喫し、母方にサラブレッド以外の血統が入っていたこともあり種牡馬として繁用されることなく軍馬として徴用されることになったのだ。

 「陸軍の司令さまの乗馬になれるなんて名誉なことだぞ、しっかり勤めるんだぞ」それまで彼を世話してきた厩務員や調教師は、そう声をかけることしかできなかった。まだ第一線で戦う騎兵部隊に徴用されないだけましだった。戦闘部隊の馬は戦闘に出るまでにも血の臭いや人を踏みつけることに慣れるよう特殊な調教を受けなければならなかったのだ。人に大切に世話され、人を大好きな馬に育った穏やかな気性のカイソウがそんな過酷な調教やもっと過酷で危険な戦闘に晒されないであろうことだけが、彼の周りにいた人間にとって救いだった。

 「気性の優しい馬でございます、どうか大切にしてください」彼の新しい主人は岡本資第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官である。若者を愛し青年将軍の異名を持った人物だったが、同様に馬も愛していた。岡本は丁重にカイソウの手綱を馬主の手から受け取り、彼を大切に扱うことを誓った。

 実際、カイソウはしばらくの間持ち前の人懐こさから軍の人間によく可愛がられた。「こんなにおとなしいのによくああも速く走ることができるもんだ」と誰もが口を揃えて言った。毎朝馬丁の者たちが我先にと世話をしたがるのでカイソウは馬体も蹄もいつもぴかぴかだった。しかし、この日々は長くは続かなかった。

 一九四五年五月十四日のことである。朝飼いを終えてカイソウは馬丁にたてがみを梳いてもらっているところだった。空襲を知らせるサイレンが鳴り響いた。近いぞ、避難しろ、と誰かの声が響く。異変に気付いた馬たちは互いにいななきあう。馬丁たちは外に飛び出し空を見た。近い。厩舎もいずれ焼かれるだろう。そのことは誰の目にも明白だった。

 「司令から命令だ!カイソウを除いたすべての馬を外に放せ!」これからどうする、と馬丁達が顔を合わせたのと、師団司令部の建物から人が飛び出して来たのがほとんど同時だった。馬丁達は厩舎に駆け戻ろうとして、ふと足を止める。「カイソウは、どうなさるのですか!」

「彼には私が乗る。騎兵団に、馬を放すよう連絡をせねば。連絡が済み次第彼も放すよう指令には言われている」彼はそう言ってカイソウの馬房に駆け寄ると、きょとんとした表情の彼を外に出し手綱もまわさず裸馬に飛び乗った。

「では、馬たちを頼んだぞ」腹を大きく蹴られて、カイソウは一直線に駆けた。馬丁達が彼らの姿を見たのはそれが最後だった。四八〇機のB二九は満載した焼夷弾を名古屋上空で投下し、たくさんの民家が焼けた。厩舎も同様に焼けた。一部の馬は遺体となって発見された。また一部は保護されて軍に戻った。カイソウは他の多くの馬と同じく、消息不明である。



 ひたすらに駆けた。瓦礫を避け、川を飛び越え、畑を突っ切った。「走れ、生きろ」という誰のものかもわからない声に押され、彼は生きるため走った。最初のうちは他の馬もいたが、彼のスピードに追い付けるものはなくいつしか彼はひとりになった。何日も駆けて、駆けて、ついに走れなくなって足を止めた。疲れのあまり草を食む気力も水を飲む気力も失せていた。

「きゃああっ」

そして彼は、彼女と出会う。


面白味のない話です。

ただ、世界一不遇なダービー馬と呼ばれたカイソウに、幸せな余生を作ってあげてみたい、そして、一人でも多くの人に彼のことを知ってもらいたいと、そう思って書きました。


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― 新着の感想 ―
[一言] 野宮さま   読ませて頂きました。 ムギは戦時中の名馬、カイソウなのですね。 驚きました。実在した優駿と、空襲で母を亡くした少女の心温まる物語に胸を熱くさせられた。 しかしながら、もっと物語…
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