ミュージアの森
人が入りようもない森の奥に彼はいた。否、住んでいた。彼の名はマバ・ウルといった。マバとは戦の勇神として名高いマバリスからとったものであろう。何故ならウルとは勇猛で知られるウルド族の長の家の出であることを示すからである。
マバ・ウルは実際3年前までウルド族の族長を務めていた。しかし、今はこのミュージアの森の唯一の定住者でしかない。それはマバ・ウル自身が選びとった道であった。
ミュージアの森は豊かであった。<白>の季節以外は果実がたわわに実り、花は絶えることがなく、小鳥のさえずりも途切れることがない。そんなミュージアの森に人が住まないのには訳があった。
ミュージアの森には、その名もミュージアという魔物が棲んでいると、人々に堅く信じられていたのである。ミュージアは美しい音楽を奏で人々を魅了すると言われていた。
現に、マバ・ウルもこのミュージアの森に分け入って行って再び外界に帰還できた者を知らない。
森に来て最初のうちは、ここがあまりにも居心地がよくて帰らないのではないかと思っていた。だが、いくら森の中を歩いても人間どころか人が住んでいた跡ですらマバ・ウルには発見できなかったのである。
3年たった今では、断言できる。
確かにこの森にミュージアはいるのだ。
そして、いつか自分もミュージアに魅了され、魂を奪われて一生を終えるのだ……。
◇
<緑>の季節に入ったばかりの或る朝だった。生い茂る樹木の葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日を浴びながら、マバ・ウルはいつものように狩りに出掛けた。<緑>の季節でも実る木の実はあった。しかし、木の実はやはり<赤>の季節に実るものが多かったし、ウルド族の血が、マバ・ウルを狩りへと急き立てるのだ。
マバ・ウルは分を守って狩りをしていたので、何処の森にでもいるという<森の主>に咎められることもなかった。
喉の渇きを覚えたマバ・ウルは、彼が密かにルナマナと名づけた泉のほとりに立った。
そこでマバ・ウルは対岸に銀の輝きを見た。
<森の主>だ。
マバ・ウルはそう思った。<森の主>は銀の毛皮をまとった動物の姿を借りて人の前に姿を現すという、幼い頃、一族の語り部から聞いた話が思い出された。それは狼であったり、鳥であったり、鹿であったりするという。
マバ・ウルは水も飲まずに再び茂みの中に戻った。茂みの中の獣道を通り泉を迂回して、<森の主>の姿を見ようと考えたのだ。
音を立てないように注意深く茂みの中をかき分けていく。マバ・ウルはついに<森の主>の真後ろに立った。
……マバ・ウルは言葉を失いかけた。
狼ではなかった。鳥でもなく、鹿でもなかった。それは人間だった。
「……あ」
言葉を失いかけたマバ・ウルの口やっと紡ぎ出した言葉に、少女は振り向いた。
美しい目が印象的だ。ルナマナの泉に水晶を投げこんだら、こういう輝きを放つのかもしれない。恐れという曇りも、怯えという濁りもない澄んだ瞳だった。
「おまえは何処から来たんだ」
少女は答えない。静かに微笑むだけだ。マバ・ウルは苛立ちを感じて、詰問しようと少女に歩み寄る。そこで彼は初めて気づいた。
少女は怪我をしていた。正確を記すならば、足の腱を切られていた。これでは一歩たりとも歩けまい。少女は、捨てられたのだ。その美しい銀の髪を持って生まれたばかりに。
この銀の髪の少女は人間という種として異常なのだ。残念ながら少女はそういうことを歓迎しない部族の出なのであろう。
「俺は、マバ・ウルという。おまえ、名は?」
「忘れちゃった」
小鳥のさえずりにも似た美声であった。
族捨て、という言葉が、マバ・ウルの脳裏をかすめる。様々な理由で自分の部族を捨て、一人だけで暮らしていく者のことだ。かくいうマバ・ウルも族捨てなのだが。
族捨てに過去はいらない。名前が過去を呼び起こすというのなら、名前も必要ない。
「俺がおまえの名づけ親になってやろうか」
少女がうなずいた。銀の髪が揺れる。
「この泉はルナマナという……俺が名づけたんだがな。そこでおまえを泉の名からとってルーナと呼ぶ。いいか」
「ルーナ」
返事の代わりに少女、ルーナは名を繰り返した。口調で明らかに名前を気に入ったということが感じとれる。
「ルーナ、俺の所に来い。歩けるようになるまで面倒を見てやる」
こうして、ミュージアの森には二人の人間が住むようになった。
◇
<緑>の季節が過ぎ、実りの<赤>の季節を迎え、やがて雪の舞い降りる<白>の季節にかかろうとしていた。
それでもルーナは歩けなかった。マバ・ウルの診たところでは傷は完治していた。やはり心に問題があるのだろう。こんな年端もゆかぬ幼い子が捨てられたのだ。無理もない。
その年は雪が降るのが遅かった。雪が降らなければ<白>の季節とは言えない。かといって火をたいて暖を取らなければ凍えてしまうような寒さは<赤>の季節のものともいえない。
そんな炎のはぜる夜、ルーナがマバ・ウルに訊いた。
「マーバはどうして自分の一族を捨てたの?」
名を伸ばして呼ぶのは親愛の現れだ。
マバ・ウルは急に黙りこんでしまった。人の心には何人たりとも踏みこんでは行けない場所、タブーがある。ルーナはマバ・ウルのタブーを犯してしまったことに気づいた。
「……ごめんなさい」
「いや、いい」
マバ・ウルは笑顔で言う。しかし、ルーナはその笑顔が無理をして作ったものであることを一瞬で見抜いていた。
「ルーナには話すべきだと思う……ルーナ、俺がウルド族の長だったことは知っているな」
ルーナはうなずいた。瞳の奥に炎が映って揺れている。
「俺には弟がいた。弟は或る日、腕に怪我をして槍や弓を持てなくなってしまった。俺の部族ではそれは死を意味するのだ。狩りができない男は滝壷に投げこまれてしまう。だが、それには例外があった。もし狩りができなくなったのが族長であれば。族長だけがその掟の例外だった」
再びマバ・ウルが沈黙した。ルーナは先をうながそうともせず、ただ、炎がはぜる音や焚き木が崩れる音に耳を傾けていた。
「……弟には好きあった娘がいた。その娘は生まれた時から族長と結ばれる宿命を持って生まれてきた。つまり、俺さえいなければ弟は死ぬこともなく、思いあう娘と暮らすことができる……俺は邪魔者だった。だから族捨てになった」
「弟のために?」
マバ・ウルは答えなかった。答える代わりに自分の首にかかっている首飾りを、ルーナの首にかけた。それは銀でできていた。ウルド族の長であることを示す首飾り。
ルーナの髪と同じ輝きを放つ首飾り。
都に持っていけばかなりの枚数の金貨になるだろう。が、マバ・ウルに金貨は必要なかった。
「ルーナに話して楽になった。ありがとう……夜も更けた。今日はもうおやすみ」
マバ・ウルはのそりと立ち上がり、自分の寝床に身を横たえた。
「ねえ」
ルーナはマバ・ウルの背中に向かって言った。
「あしたはきっと雪がふるよ」
「そうか」
マバ・ウルが答えると、炎がひときわ大きな音を立ててはぜた。
◇
翌朝、目が覚めるとルーナはいなかった。
「また、捨てられたのか」
マバ・ウルはつぶやいた。妙に悲しかった。
ルーナはたぶん、とっくに歩けるようになっていたのだろう。あの首飾りがあれば当分、暮らしていくのには困らない。
「裏切られたのか」
涙があふれてくる。情けないと思った。一族を裏切った人間が、たった一人の少女に裏切られたくらいで涙を流して泣いているのが滑稽だった。哀れだった。
ひとしきり泣いて、マバ・ウルはふと顔を上げた。何か予感がして、慌てて小屋の外に出る。
雪が舞っていた。
昨夜のルーナの言葉が思い出された。
“あしたはきっと雪がふるよ”
雪は降ってきたのだ。それで充分ではないか。雪の白さがマバ・ウルの心をすすいだ。
ふいに、マバ・ウルの耳に何かが聞こえた。
音のする方へ歩みを進める。何かをたたくような音のつらなり。妙に懐かしい調べ。
開けた場所に女がいた。女は指で何かをたたいていた。黒光りする大きな石。その石の端に並ぶ歯のようなもの。音はそこから出ていた。
見たこともないものだが、楽器であろうことは見当がついた。
女の銀色の髪と、首から下げた首飾りにマバ・ウルは見覚えがあった。
もし、ルーナに一晩で5年ほどの時が流れたら、こんなふうになるかもしれない。
「ルーナ?」
女は顔を上げてマバ・ウルを見た。
まちがえようもなかった。その瞳の輝きはルーナのものだった。
「ルーナは、ミュージアなのか?」
音楽で人を魅了する魔物。それが……。
「わたしは雪を呼ぶ精霊。雪は人の上につもり温かさと命を奪う。それがミュージアだというのならば」
「俺もここで死ぬのか」
「いいえ」
ルーナは指を動かすのをやめずに言った。
マバ・ウルはどうしてこの調べに懐かしさを感じるのかが判った。この調べは雪の降る音を音楽にしたものなのだ。
「あなたは弟のために自分の身を犠牲にしました。私はそんな人の命は取りません」
「違うんだ!」
マバ・ウルが叫んだ。ルーナの指が止まる。が、またすぐに動き始めた。
「俺は聖人じゃない。弟に怪我を負わせたのは俺だ。首飾りだって代々族長に受け継がれてきたのを盗んだものだし、一族を捨てたのは、ルナ・マナ……婚約者に拒まれたからだ。ルーナを思っていたのは弟だけじゃなかった……」
「でも、首飾りを持って都に行かず、この森に来たのはあなたの意志です。わたしにこのことを話したのも。犯した罪は償わなければなりません。罪を償うには認めなければなりません。それができない人間のなんと多いことか……」
「俺は……?」
「罪を償うのです。あなたはこの森の主となって、この森とわたしのために、つくすのです」
マバ・ウルの体に雪がまとわりついた。冷たさを感じない。それを不思議に思っていると、体が軽くなったのに気づいた。
マバ・ウルは鳥になっていた。銀の羽を持つ鳥。
ルーナの紡ぐ旋律が雪を呼ぶ。マバ・ウルは雪の降りしきる空に羽ばたいた。
ミュージアの森に、<白>の季節がやってきた。
FIN




