第5話 人影
どっちに逃げればいいんだ。
聞こうにも、誰も居ない。電話も通じない。
どうすれば良いんだ。
誰か居ないのか? ここは吉祥寺だぞ。さすがに、誰も居ないということはないだろう。
近藤は、アーケードの中を奥へ奥へと進んだ。
アーケードのほぼ中央、メンチカツ目当てに行列のできる肉屋まで来たが誰も居ない。
静かだ。
いつもは喧騒に包まれた街なのに、今は雨と風の音しかしない。
神経が研ぎ澄まされる。
何か、重いものを引きずっているような音がする。
音の方を見ると、人影のようなものが見えた。
自分以外にも誰かいる。
その人影に向かって走り出したが、その影は深い霧の中へ消えていってしまった...
足元を見ると、路地へと何かを引きずったような黒い跡が路上ににある。
黒い跡は、路地から大通りを横ぎり、反対の路地へと続いている。
油だろうか?
暗くてよく分からないが、近寄ってみると、赤く見えなくもない。
『血!』
人の血だろうか?
暗闇のなか目を凝らすと、黒い跡の先に、ワンピースを着た女性がうつぶせに倒れている。
恐る恐る近づくが、女性は動いているように見えない。
死んでいるのだろうか?
近づいてみて初めて判ったのだが、女性の上半身を中心として、既に血溜まりができている。女性は、どうやら顔に傷を負っているようだ。
路上にこれだけの血溜まりがあるということは、かなりの怪我を負っているのだろう。
しかし、誰が。考えられるのは、先程は、人影の人物だろう。
火事場泥棒ならぬ、殺人鬼。
既に周囲には、人影は居ない。
その時、女性の体が、かすかに動いたような気がした。
「大丈夫ですか」と話しかけると、女性は声に反応して、顔をあげる...
『!!!!!』
悲鳴を上げることも忘れて、その場に座りこむ。
目や鼻だけではない......肉がえぐられ、まはや顔と呼べるようなものがなかった。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
女は口がないため、空気が漏れるようなうめき声をあげる。
女は声のした僕の方に、手を伸ばすが...僕は腰が抜けて立てない動けない。逃げることもしなければ、助けることもしない。ただ、腰を抜かしているだけ。
女は這うようにして、ゆっくり僕に近づいてくる。
怖い。
その一方で、僕の中で別の感情が生まれた。
情けない。
かっこ悪い。
惨めだ。
こんなことだから、振られるんだ。
こんな男だから、振られるんだ。
このまま惨めで良いのか?
僕は意を決した。
逃げるためではない。彼女を助けるために。
僕は、彼女の手を取ると、彼女を励ました。
突然女の動きが止まる。
「に...て」
彼女が声にならない声で何かを訴えている。
背後から、それも靴音ではなく素足で歩くような音がする。
振り向くが暗くて良く見えない。、
音はどんどん近付いてくる。そして、間隔も短くなって行く。いや、数が増えているんだ。
音の主が、姿を現した。
暗闇に見えるその姿は...9割がた人間なのだが、頭という肝心な部分がなかった。
首なし人間。
そして、爪だけが異常に長い。
しかも、1人ではない。判るだけでも、8人。
僕は理解した。これは現実ではない。夢だ。まぎれもくなく、悪夢だ。