魔術に失敗して、一時的にぬいぐるみになりました。
なんでもあり。
ぼんっ!
部屋の中で大きい音がして、私から見えている視界が一気に低くなった。
……魔術は成功したのかしら、って、…声が出ない!?
どうなっているの…!?
んーんー言っているつもりなのに、声どころか音もしていない。
それに、体を動かしているつもりなのに、ちっとも動かない。
私から見えているのは自分の部屋と、いつも座っている時に見える高さよりも低い視線の位置。
何がどうなっちゃっているの…?
魔術に失敗したってこと?
私はただ、ちょっと婚約者が苦い思いでもすればいいのにと思っただけなのに…!
最近の婚約者の様子は、マンネリ化しているというか、互いの存在に慣れすぎてだらけている部分があるように感じる。
婚約期間は長いし、多少仕方がないのもあるけれど、私たちの結婚はこれからなのだ。
今後何十年と一緒に過ごすというのに、今からこの状態ではあまりにも締まりがないではないか。
だから、『特定の人物にのみ自分の姿が見えなくなる魔術』をかけて、少し困らせてやろうと思った。
ちゃんと婚約者に設定して、魔術をかけたはずなのだけれど…。
成功…では、なさそう?
だって、相手から透明人間のように扱われるだけで、喋れなくなったり動けなくなったりするわけではないから。
んーんーんーっ、なによもう声が出ないわ…っ!
「ルビー、約束の時間だから来たぞ〜。……って、いない。なんだよ、あいつ」
侍女に案内されて、私の私室にやってきた婚約者は、部屋に入るなりすぐに顔を顰めた。
いつもより上に見える婚約者が、なんだか遠くに感じた。
何よ、すぐにそんな顔をしなくてもいいじゃないの。
「時間は守れってうるさいから来たのに、当の本人がいないのかよ」
いるわよ!大体うるさいって何よ、親しき仲にも礼儀ありでしょ!
……ん? でも、彼からは私が見えていないってことよね?
じゃあ、やっぱり魔術は成功しているんじゃない?
それならそれでいいわ、しばらく私に会えないことに狼狽えたらいいんだわ。
それにしても、声まで出ないのはなんでかしら。
私が遅刻していると思われるのは、癪なのだけれど…。
すると、婚約者の目線がこっちに向いて、不意に目が合った気がした。
「……これ、懐かしい。ルビーのやつ、まだ持ってたのかよこんなもん」
そう言いながら手が伸びてきて、ひょいと持ち上げられてしまった。
……っ!?!?!?
ちょっと、気安く触らないでよっ!
…というか、なんでそんなに軽々持ち上げられるのよっ!
本当にどうなってるの…、あっ、待って待って顔が近いって待ってよ…!
ぐんぐん顔が近づいていく中で、婚約者の彼の潤んだ瞳がよく見えるようになった。
「これって、俺が一番最初の誕生日に渡したひよこのぬいぐるみだよな…? えー、婚約したての頃だから、6歳の時…? 10年以上前ってことか? 物持ちよすぎだろ、あいつ…」
そう言って、呆れながら笑っている婚約者の口こそいつも通り悪いが、その表情はいつも見せるものよりもどこか嬉しげに見えた。
…ひよこのぬいぐるみのことなんて、とっくに忘れていると思ってたわ。
この人、ちゃんと覚えていたのね…。
………………でも、待って。今、ひよこのぬいぐるみって言ったわよね?
つまり、もしかしなくても私、ぬいぐるみの中に入っちゃっている…!?
だから、持ち上げられているの?
だから、こんなに近いの?
だから、声が出ないし、自分では動けないっていうの?
「なあ、ひよこ。知ってるか?お前のご主人、最近やたらと怒っているんだぜ。そりゃあもう、俺の母親かよっていうほどに」
なっ、あなたがしゃっきとしてたら、私だってガミガミ言ったりしないわよっ!
「俺たち、長く一緒にいすぎなんだよな。だからあいつも俺に遠慮がなくなって、それで俺はルビーに甘えているんだよ。あいつなら、許してくれるだろうってどこかで甘えてる…。自分でも自覚してる。本当はこのままじゃダメだってわかっているんだけど、今更どんな態度にしたらいいのかわかんなくなっているのもあるんだよなぁ…」
婚約者の独り言と、それにともなった曇った表情を見て、少しだけ心が揺れた。
何よ、それ。
私の心を許しすぎってこと…?
それで言ったら、私も似たようなものだけれど、…でも、やっぱり私たちこのままなあなあじゃいけないと思うの。
あと何十年もあなたと過ごしていくのだから、締まりのない生活にしたくないわ。
……でもまあ、魔術には失敗しているとわかったけれど、これはある意味成功しているとも言えるわ。
だって、この人からは私の姿は見えなくなっている。
そして、この人が困って私という存在の大きさに気づけばいいとどこか意地悪く思っていたはずなのに、彼は別に私のことを考えてくれていると知ってしまった。
こんな形で知れたのは不満ではあるが、私のことを蔑ろにしているわけではないらしい。
だったら、それも言葉や行動で表してきなさいよね…!
「ルビーに本当はお前が大事なんだって、いつまで言えていたっけな。…そりゃあ、ルビーも呆れるよな」
んーっ、んーっ、んーっ、まったくその通りよ!もう、ばかっ!
そう声に出したくて、ぬいぐるみの中でバタバタと暴れ回ったけど、びくともしなくて。
でも、代わりにどこか狭い場所から、自由になった感触がして──。
ぼんっ!
また大きな音とともに、視線の高さがさらに低くなった。
「……っ、今度はなに? って、手も動く、声も出せる…!あれっ、元に戻っている…!?」
自分の手を握りしめたあと、自分の頬に触って、自分を確かめた。
視線を上げると、ひよこのぬいぐるみを持っている婚約者が口をあんぐり開けて私を見下ろしていた。
どうやら私はぬいぐるみから抜け出して、部屋の真ん中の床に座り込んでいるらしかった。
…えっと。
「…おま、何してんだ?」
「…えー、っと、魔術が解けたらしいわ」
「…何の魔術?」
「…特定の人間から自分の姿が見えなくなる魔術」
「…………………」
「…………………」
そのあと、婚約して以来過去一で気まずい時間を過ごすこととなったのだった。
「……聞いていたのかよ」と言われるまで30分かかったし、「…聞いちゃったんだけど」と言うまでにさらに10分かかった。
とりあえず、私としては今からだらけるのはいただけないと伝えたのと、それに対しての善処してみるという返答をもらうこととなった。
下手したら、婚約当初くらいにお互いに歩み寄って、お互いに気を遣うという事態に今はなってきていた。
当時のまだ6歳の頃の私たちは「何が好きなの?」「何時に会うのがいいー?」と訊けていたのだから、昔の私たちの方がすごかったかもしれないと気持ちを改めている最中だ。
「……昔、ぬいぐるみが好きだって言ってたから、ひよこのぬいぐるみを渡したんだけどさ。今でもぬいぐるみは好きなのか?」
「…ええ、好きよ。いい歳だから、控えるようにしているけれどね」
「そうか。…じゃあ、次の誕生日もぬいぐるみをプレゼントするよ」
「え、別にいいのに」
「…それで、結婚したら好きに買えばいいんじゃねえか?」
「え?」
「少なくとも、…俺は咎めたりしないし」
自信なさげにそう言う彼の歩み寄りに心がくすぐったくなって、フイッと顔を背けてしまった。
彼も、私も、すっかり素直ではなくなってしまったけれど。
「……うん、ありがとう」
「…ああ」
子どもの頃のほうがずっと近くて、今は気まずい空気が流れることがあるけれど、今ならまだやり直せる関係性なんだと前向きに思えている。
だから、まあ、不本意だけれどあの時魔術に失敗してぬいぐるみになって、この人の気持ちが聞けたのはよかったなって。
そのことで相変わらず喧嘩になったのは、多少腹が立ったけれどね。
了
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271日目。




