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悪魔をもてなしてはいけない  作者: 藍家アオ


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1/1

1 悪魔がやってきた

 山あいを流れる細い川は、夕陽を吸い込んでとろりと橙色に染まっていた。男は川縁の岩に腰を下ろし、もう何時間も同じ姿勢のまま、竿先の小さな揺れだけを見つめていた。水面に映る夕陽は、流れに乗って崩れ、また形を結び、を繰り返している。傍らに置かれた魚籠は、朝に出てきたときと変わらぬ軽さで、ことりとも音を立てなかった。



「釣れないな……」



 低く呟き、男は竿をわずかに持ち上げてみる。針の先には、案の定なにも掛かっていない。ただ流れに揺られた川藻が一筋、頼りなく絡みついているだけだった。


 釣り糸を巻き上げる。リールの軋む音が、しん、と静まった川面に間延びして響いた。先に付けた浮きが、ぽこんと水を割って顔を出し、それきり大人しく男の手元へ引き寄せられてくる。



「もう日が落ちてきた……はあ。帰るか……」



 男はゆっくりと腰を上げ、固まった肩を二度三度回した。竹竿を仕舞い、空の魚籠を肩に担ぐ。山の冷気がすうっと汗の引いた背中に染み込んでくる。


 車で一時間ほど走ると、男の住処は見えてくる。曲がりくねった山道を進み、最後に大きなカーブを抜けると、ふいに視界が開け、闇の中にぽつりと宿の灯りが見えた。山中にしては不釣り合いなほど大きな茅葺き屋根の宿場に、男は着いた。


 ここは、男が父の代から受け継いだ宿だった。エンジンを切ると、ぱたん、と車のドアを閉める音だけが、静まり返った山の空気にやけに大きく響く。玉砂利を踏みながら、男は宿の玄関へと歩を進めた。



「……ん……?」



 宿場のエントランスに、男はなにか大きな物陰を見た。


 格子戸の向こう、土間の闇の中に、二メートルを優に超える影がぬうっと立っている。馬を思わせる輪郭をしているが、二本足で直立しているという、まるで有り得ない姿だった。夕日を背負ってその輪郭だけが濃く黒々と浮かび上がり、目が金色にちらちらと光っていた。



「む、おぬしがここの主人か?」



 低く、しかし不思議と耳に残る声が、土間の奥から響いた。


 そこには異形の者がいた。直立した馬の姿を取るそれは、男を見つけるとにやりを笑みをうかべた。馬の顔のはずなのに、口角だけがやけに人間くさく持ち上げられた。



「一晩を過ごす宿を探しているのだが、ここは宿場で間違いないかね?」


「は、はい」



 圧倒される男。声を出すのにすら一苦労だった。体格も背丈も人間の何倍もある相手が、ぬうっと首を傾げてこちらを覗き込んでいる。立ちすくむ男の足は根を張ったようにその場から動かない。



「主人、名前は?」


「……オウマと申します」



 この宿はオウマが一人で切り盛りしている宿だった。しかし、父親から継いだこの宿は、オウマの代になって全く客が来なくなってしまった。誰もいない座敷、誰も使わない布団、誰も浸からない湯。それでも男は毎朝、誰も来ない玄関を磨き続けていた。そして、どうせ客も来ないだろうと釣りへ出かけるのが日課となっていたのである。


 男の名を聞いた馬は、顔を俯かせると、前触れもなく突然笑いだした。



「オウマか……。ふ、ふふふ、フハハハ!かかったな!」


「な、なにっ」



 ぐわりと馬の顔がオウマのすぐ目の前まで迫る。鼻先からこぼれる息は、焼けた鉄のように熱く、それでいてどこか甘く、得体の知れない匂いを纏っていた。瞳の奥で、金色の光がかっと瞬いた。



「我は悪魔だ!悪魔にそうやすやすと名乗るとは、やはり人間は警戒心に欠ける愚かな生物だ!」


「そ、そんな……」



 それは悪魔だった。



「悪魔に名を教えるとどうなるか、その身をもって味わわせてやる!富の悪魔オロバスの名において、契約はここに成立した!これを受け取るがいい」


「これは……金貨?」



 オロバスが男の手に一枚の金貨を乗せた。手のひらにじんと重く沈むその感触は、本物の金属の重みそのものだった。



「そうだ。おぬしは我に接待し、我はその対価を払う。これが契約だ」


「……」


「恐ろしくて声も出まい!フハハハハ!」



 しばしぽかんとした表情を浮かべた男。掌中の金貨は見たこともない刻印を帯びていたが、その輝きは、宿の通常の宿泊料金よりもよっぽど価値のあるもののように男の目には映った。


 悪魔を門前払いするわけにもいかないだろう。それに、ここで断れば何をされたものかわからない。男は悪魔を招き入れた。



「えっと……じゃあ、お部屋まで案内します」


「うむ」



 客がいなくても宿をきれいに保っていてよかったと、オウマは心の底から思った。畳の目に沿って丁寧に掃いた廊下を、巨大な蹄が踏みしめる音に耳を澄ませながら、男はその後を案内した。



「ご夕食は、釣果が無かったので山菜ばかりとなってしまいますが……」


「構わぬ、構わぬ。野の草を食むは馬の常なれば。むしろ調理されたものは食べたことがない故、好奇心が沸き立つ気分である」



 オロバスの鼻息がオウマにかかる。生ぬるく、馬のそれよりも幾分熱を帯びた風が、男の前髪をふわりと揺らした。



「調理に少々お時間がかかりますので、先に温泉でもいかがですか?」


「出で湯があるのか?では、そちらへ行かせてもらおう」



 オウマは、この悪魔を男湯と女湯のどちらへ案内したものかしばし悩んだが、どうせ他の客もいないことだ、どちらでもいいだろうと適当に男湯を示した。


 オロバスは早速、渡り廊下を抜けた先にある温泉の戸を開けた。ぶわりと熱気が押し寄せる。



「お、おお!これは、素晴らしい」



 この宿の温泉は、他の宿と比べても立派なものだった。


 巨石を幾つも組み合わせて作られた湯口からは、絶えることなく湯が流れ込み、湯船そのものは大人が十人横になってもなお余るほどの広さを誇っている。縁を囲む岩は、どれも一つひとつが見事な造形で、長い年月をかけて湯垢と苔がじんわりと染み込み、深い緑とも茶ともつかない、しっとりとした色合いに変わっていた。


 湯船の奥には、苔むした石灯籠が一基、ぽつりと据えられている。その傍らには、誰が植えたとも知れぬ大きな紅葉が枝を広げ、夜風に葉先を揺らすたび、さらさらという音を静かな湯気の中に落としていた。湯船の縁から見上げれば、空をすっぽりと覆うほどの夜空が広がり、月明かりが湯面に滲んで、白い湯気とともにゆらゆらと揺れている。立派でありながら、どこか侘びた風情を残すその佇まいは、まさに山里の宿にふさわしい、趣のある一角だった。


 その広々とした湯に、オロバスはゆっくりと身を沈めていった。巨体が沈むたびにざぶりと大きな水音が立ち、それでも余裕のあるほど湯船は広く、溢れた湯が縁石を伝って小さな滝のように流れ落ちていく。月影に照らされた湯気が、石灯籠の灯りと混じり合いながらもうもうと立ち上り、紅葉の葉陰を抜けて夜の闇に溶けていった。時折長い尾がぱしゃりと湯面を叩き、その度に小さな波紋が広い湯船いっぱいに幾重にも広がっていった。



「いい湯であった。……む?なにやらいい匂いが……」



 温泉を堪能したオロバスが、湯上りの熱気を冷ますべく廊下を歩いていると、ふと何かに気が付いたかのように鼻をスンと鳴らした。近くの部屋を覗き込むと、そこは宴会場だった。


 宴会場では、男が黙々と料理の支度を進めていた。出汁の香りと、炊きたての米の甘い匂いが、廊下の奥まで静かに漂っている。その匂いに引かれるように現れたオロバスに気づいた男が、慌てて席に案内する。



「お召し上がりになりますか?」


「うむ、頂こう」



 男が器にごはんを盛る。土鍋から立つ湯気とともに、わらびやぜんまい、こごみといった山菜の青い香りが米の甘みに混じり合い、座敷いっぱいに広がった。



「これは……穀物か?」


「はい。米と呼ばれる穀物を山菜と一緒に炊きこんだものになります」



 つやつやと出汁を吸った米粒が、灯りを受けて小さな宝石のように光っていた。



「初めて食すが……うむ。美味い。これならば肉が無くとも満足感があるな」


「おかわりをご所望でしたら言ってくださいね」



 巨体のオロバスには器が小さいようで、すぐに一杯平らげてしまった。



「このスープは?」


「味噌汁と呼ばれるものです。味噌という調味料を使っています。具材は山菜ですね」



 椀からふわりと立つ湯気には、味噌の香ばしい匂いと山菜の土の香りが溶け込んでいた。口に含めば、まず塩気とほのかな甘みが舌に広がり、そのあとを追うように山菜の青さが鼻先を抜けていく。



「ううむ、これはなかなか」



 味噌汁と山菜ごはんをぺろりと平らげるオロバス。おかわりを盛りながら、男は次の料理に取りかかっていた。



「主人。それは何をしておるのだ?」



 男の作業に興味を持ったオロバスが鍋を覗き込む。


 男は長い菜箸で山菜をつまむと、淡い黄色の液にちょんと浸して鍋へ放り込む。


 熱した油の中に、衣をまとった山菜がじゅわりと沈んでいく。細かな泡が一斉に立ち上がり、ぱちぱちという軽い音とともに、衣がみるみる金色に色づいていった。立ち上る匂いに山菜の青さが混じり、座敷中に香ばしさが満ちていく。



「天ぷらですね。具に衣をつけ、油で揚げる料理になります」


「ほう、熱した油か。悪魔もしばしば、人間をこのように甚振る。なかなか悪魔的な発想だな、主人」


「は、はは……」



 悪魔の冗談に揚げ終わる。網の上で軽く油を切られた天ぷらは、表面がさくりと固まり、持ち上げると小さな音を立てて余分な油が滴り落ちた。



「温かいうちに、どうぞ」


「……うむ、美味である!サクサクと食感もよい!このような手法があったとは、人もなかなかやりおる」



 天ぷらを夢中で頬張るオロバスに、男は綺麗な切子細工のグラスを差し出した。



「こちらどうぞ」


「おお!なんと素晴らしいガラス細工!魔界でもなかなか見ないほどの逸品だ……」


「そうですか?確かにいい出来ですが……」



 鼻息を荒くしながらグラスを見つめるオロバス。大きな鼻先がグラスの縁に触れそうなほど近づき、灯りを映す切子の模様を、金色の瞳がなぞるように見つめていた。



「主人。金なら払う。このグラスを譲ってはくれまいか?」


「はい、構いませんよ。それに、主役はこちらですから」


「恩に着るぞ、主人。して、それは?」



 興奮気味に詰め寄ってくるオロバスに、男はわずかに身を引きながらも、グラスへと酒を注いだ。



「こちらヤマモモで作った果実酒となります」



 とくとくと注がれる酒は、夕焼けを溶かしたような深い紅色をしていた。灯りを透かしてゆらゆらと輝き、甘酸っぱい香りがふわりと立ち上る。ひと夏かけて漬け込んだだけの、飾り気のない酒だった。


 オロバスはその紅い液体をしばし見つめ、それからゆっくりと口に運んだ。馬の顔のはずなのに、その仕草には妙な品があった。喉を伝う小さな音とともに、満足そうに目を細めていく。



「……これは。甘さの中に、ほどよい酸味がある。魔界の酒は強さばかりを競うが、これは舌で楽しむための酒だな」



 食事を終えたオロバスは、満ち足りた様子で座敷にゆったりと身を伸ばしていた。先ほどまでぴんと立っていた耳も、今はとろりと垂れている。腹は満たされ、湯と灯りを受けた毛並みはしっとりと艶めき、時折満足げな鼻息だけが静かな座敷に響いていた。



「夜はどうぞご自由になさってください。何かありましたら、私はエントランスにおりますので、お声がけください」



 男はそう言って一礼するとエントランス横のベランダに出て、一人煙草を吸い始めた。月の光が庭石を青白く照らし、虫の声がそこらで聞こえる。そこへ、足音もなくオロバスが現れた。



「煙草か?我にも一本分けてくれはせぬか」


「ああ、はい。もちろん。でも、お吸いになられるんですね」



 男は箱から一本取り、オロバスへと差し出した。



「うむ。この姿では不味いだけだが、ほれ。このようにすれば」



 ぼう、と淡い光がオロバスの輪郭を包み込んだ。馬体がみるみる縮み、輪郭が崩れてはまた結び直されていく。光が収まったそこに立っていたのは、茶色の長い髪をひとつに束ねた、すらりと背の高い女だった。馬であった頃の金色の瞳だけが変わらず、夜の闇の中で妖しく光っている。仕草の端々には、どこか馬を思わせる優美さが、まだ確かに残っていた。



「お……おお……人の姿に。しかも、すごい美人さんで」


「以前……五百年ほど前か。人化の魔術が流行った時期があってな。煙草もそれに合わせて流行した。ほれ、火をつけてくれ……ふう」



 オロバスがすっと顔を近づける。男はその口に咥えられた煙草に、震える手でそっと火をつけた。マッチの小さな火が、すぐ目の前にある女の顔をぼうっと照らし出す。長い睫毛の下の金色の瞳が、思いのほか近くにあった。


 オロバスは煙草をうまそうに吸った。吐き出された紫煙が、ゆっくりと夜空に溶けていき、彼女はそれを目で追うように細く長く息を吐いた。



「そして、人化の魔術は見た目をある程度調整できることが判明してからは、いかに人間の目を引く外見にするか、競い合ったものだ」



 男は、星明かりの下で夜空を見上げるオロバスの横顔を、ちらりと見た。先ほどまでの巨大な馬とはまるで別人のように静かで、儚げだった。



「しかし、ここは良いところだ。主人も、誠実だ。誠実な人間は悪魔に好まれる」


「どうも」



 静かな時間が流れる。煙草の先がちろちろと赤く灯り、二人の間には言葉のない、それでも気まずくはない沈黙が満ちていた。山からの風が時折吹き抜け、紫煙をどこかへ攫っていく。



「吸い終わってしまいましたので、私はこの辺りで。どうぞごゆっくり」


「うむ」



 男はそう言って踵を返し、宿の奥へと戻っていった。その背中をしばらく見つめながら、煙草を吸うオロバスが呟く。



「やはり……悪しき霊が憑りついておる。どれ、祓っておいてやるか」



 オロバスがすっと手を振ると、男に憑りついていた何かが霧散していった。男の肩のあたりに薄く纏わりついていた、煤のような黒い影が、彼女の指先から放たれた淡い光に触れた途端、すうっと薄れ、夜風に溶けるようにかき消えていく。後にはただ、清々しい夜気だけが残った。オロバスは小さく頷くと、何事もなかったように再び夜空へと視線を戻した。


 夜が明ける。男が掃除を終わらせ、朝食の支度に取りかかろうとしていたところへ、オロバスがやってきた。すでに元の馬の姿に戻っていたが、その毛並みは昨夜よりもさらに照りを増しているように見えた。



「主人、世話になった。この通り、失われていた魔力も満ち満ちている。素晴らしい一夜であった」


「お帰りになられるので?」



 オロバスは満足げに、ゆっくりと頷いた。



「うむ。しかし、また近いうちに訪れるやもしれぬ。その時はまた、よろしく頼むぞ。オウマよ」


「はい。どうぞよろしくお願いします。そうだ、こちらをどうぞ」


「おお、あのガラス細工か!うむ、素晴らしい貢物である」



 男は丁寧に梱包したグラスをそっと差し出した。それを嬉しそうに受け取るオロバスの目元が、わずかに緩んだように見えた。


 魔術を使い禍々しい門を呼び出したオロバス。空間そのものが裂けるように、闇よりもさらに黒い渦が音もなく広がり、その縁だけが紫色にちらちらと燃えている。オロバスは前足を軽く上げ、まるで一礼するように頭を下げると、ゆっくりとその門の中へ歩み入っていった。門は彼女の姿を吸い込むようにして波紋を描き、やがて跡形もなく閉じて消え去った。男は、その光景がまるで最初からなかったかのように静まり返った庭先を、しばらく見送っていた。



「……悪魔だろうが何だろうが、お客さんが来てくれるのは嬉しいもんだなぁ……」



 そう呟いた男は、心の中で、あとめっちゃ美人だったし、と付け加える。


 次はもっといい食材を準備しておこうと、男は新たな気合いを胸に灯した。


 しかし、男はまだ知らない。この富の悪魔は、悪魔の中で最も人間に優しい悪魔だったということを。そして、このオロバスが仲間の悪魔たちに、貰ったグラスを見せ宿の自慢をしたことで、これから数多くの悪魔が宿を訪れるようになるということを。


 悪魔は、良い悪魔ばかりではないということを、男はこの先、嫌というほど思い知らされることになる。

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