第五話 密室の取引(ディール)
「……やはり、猫をかぶっていたな」
水野の唇が、わずかに皮肉げな形に歪んだ。しかし、その目にお縫を罪人として捕らえようとする険しさはない。むしろ、砂漠で掘り出し物を探す商人のような、奇妙な熱が宿っていた。
「お武家の割には、とは無礼な。これでも私は、幕府の財政をあずかる勘定方だ。数字の狂いは、城の石垣の歪みと同じ。放っておけば国が傾く」
「だったら、その石垣はもうボロボロですよ、水野様」
お縫は立ち上がり、着物の埃を払うと、不敵に笑って水野の机の前に歩み寄った。大店の娘としての本性を解禁した彼女の佇まいは、最下層の「御末」のそれとは完全に別物だった。
「大黒屋の五十両なんて見積もりは、ただのボッタクリです。西陣の織元が手にするのはせいぜい十両。残りの四十両は、大黒屋と、それを大奥に引き入れた役人たちの間で中抜きされてる。あの滝川って御中臈も、その甘い汁を吸ってる一人でしょうね」
水野は腕を組み、静かに頷いた。
「気づいてはいた。だが、大奥は女人禁制・男子禁制の境界の向こう側。我ら表の役人が帳簿を調べようとすれば、『奥の法度』という見えない防壁に阻まれる。現場の証拠が掴めぬのだ。……お縫、お前は何者だ。ただの町娘が、西陣の原価まで知っているはずがない」
お縫の胸が、一瞬だけズキリと痛んだ。
実家の暖簾を奪われたあの夜の、火事の匂いと悔し涙が脳裏をよぎる。しかし、それを顔には出さない。
「ただの、商いの良し悪しが分かる女ですよ。……それより水野様。あなた、大奥の呉服代を削りたくて頭を悩ませているんでしょう?」
お縫は、水野が開いていた大福帳を指先でトントンと叩いた。
「これ、次の夏に向けた『麻衣』の予算ですね。これも大黒屋がべらぼうな値を吹っかけてきてる。今のままじゃ、いくら表で増税したって、大奥という巨大なザルから金が漏れていくだけだ。……そこで、私から一つ、裏の取引を持ちかけたいんです」
「取引、だと?」
水野が片眉を上げた。一介の下女が、幕府の高級官僚に向かって交渉を仕掛けているのだ。普通なら一喝されるところだが、水野はお縫の言葉の先を促した。
「私をクビにして羊羹の件を罰するか、それとも私を大奥の無駄を削る裏の差配として雇うか。……どっちが幕府の利益になります?」
お縫は水野の顔にぐっと顔を近づけた。薄暗い詰所の中、二人の距離が急激に縮まる。水野の目にお縫の強い瞳が映り込み、部屋の空気がじりじりと熱を帯びた。
「私が大奥の内側から、大黒屋の利権を価格破壊して見せます。表からは見えない『奥』の不具合を、私が中から引っ掻き回して、適正な原価に叩き直して差し上げますよ。足りない布地を別の素材で補った、あの切り嵌めの小袖のようにね」
「……その代わり、お前の取り分は何だ」
水野の声が、少しだけ低くなる。お縫の放つ強烈な知性と野心に、男としての冷静な理性が揺さぶられているようだった。
「削った予算の半分を、私の裏口座に……と言いたいところですが、今はまだ結構です。ただ、私が大奥で自由に動くための後ろ盾になってください。それと、大黒屋が過去に提出した、大伝馬町の呉服問屋に関する古い書類……あれを閲覧させてほしいんです」
水野はしばらくの間、お縫の顔をじっと見つめていた。
沈黙が流れる。部屋の隅で、行灯の芯がパチリとはじけた。
やがて、水野はふっと息を漏らして笑った。
「面白い。一介の下女に、幕府の財政をひっくり返す手伝いをさせろと言われるとはな。……いいだろう、お縫。その取引、勘定吟味役として受けて立つ。お前が夜間も『奥』と『表』を行き来できるよう、これを持っておけ」
水野は懐から、すでにお縫が持っていたものよりさらに格式の高い、漆塗りの特別な真鍮製鑑札――特権通行許可証を差し出した。
お縫がそれを受け取ろうとした瞬間、水野はお縫の手元にあったリメイク小袖を引き寄せ、彼女の手の甲に、自分の大きな手を重ねた。
書類を挟んだ密室の中、触れ合った手のひらから、武士のゴツゴツとした熱が伝わってくる。大人の、そして仕事仲間としての信頼と、ほんの少しの甘酸っぱさが混ざり合う瞬間だった。
「ただし、失敗すれば二人とも打ち首だ。命を張れるな? 商人」
「お安い御用ですよ、お役人様」
お縫は不敵に微笑み、重ねられた水野の手を強く握り返した。
こうして、大奥の組織を内と外から適正化する、最凶のバディが誕生した。ターゲットは、次の大行事――夏の『麻衣』の利権である。
(第六話へ続く)




