第三話 桜の下の番狂わせ
江戸城西の丸、観桜の宴。
雲一つない春空の下、咲き誇る桜の淡いピンクを背景に、大奥の女たちが競うようにその身を飾っていた。上様をはじめ、御三家や有力大名の正室が一堂に会するこの場は、女たちにとって年に一度の「格付け」の戦場でもある。
「ほほほ、やはり春は西陣の総金糸に限りますわね」
「まぁ、あちらの御殿のお方様は、随分と重厚な織物をお召しで……」
あちこちで、ため息混じりの比較誇示が繰り広げられている。金糸銀糸、目が眩むような豪華絢爛な着物が並ぶ中、ひときわ異彩を放つ一団が、静かに宴の席へと進み出た。
予算を極限まで削られた「おちぶれ側室」、お美代の方の行列である。
「おや……?」
周囲の女たちの私語が、ピタリと止まった。
行列を先導していた御中臈の滝川は、勝ち誇った笑みを浮かべようとして――そのまま、引きつった顔で硬直した。
お美代の方が纏っていたのは、滝川が嫌がらせで押し付けたはずの、あの流行遅れのくすんだ桜色の古着ではなかった。
いや、ベースは確かにあの着物だ。しかし、ハサミが入って寸法の足りなくなっていたはずの裾と袖口には、江戸の若い町娘たちの間で爆発的な人気を誇る『団十郎茶』の木綿布が、寸分の狂いもなく継ぎ合わされている。
異なる布地をあえてモザイク状に組み合わせる『切り嵌め(きりはめ)』――その渋い茶色の縁取りが、全体をキリリと引き締め、お美代の方の凛とした立ち姿を際立たせていた。
さらに、歩を進めるたびに、その茶色の内側から、鮮烈な『鹿の子絞り』の赤がチラリ、チラリと覗く。
「な……何、あれ。あんな仕立て、見たことがないわ……!」
「派手ではないのに、妙に目を引くわね。なんてお洒落れた着こなしなのかしら」
ざわざわと、周囲の奥方たちが色めき立つ。
古臭かったはずの御所解模様の刺繍は、黒い端切れによって大胆な格子模様へと上書きされ、まるで最先端の絵草紙から飛び出してきたかのような、モダンな輝きを放っていた。
(よし、食いついた……!)
行列の最後尾、雑用係の「御末」として控えていたお縫は、平伏しながら、前髪の隙間からその光景を冷徹に見つめていた。
(ギラギラした金糸の着物なんて、この桜の満開の下じゃかえって野暮なんだよ。渋い茶色で周囲の目を引きつけといて、動くたびに内側の赤を見せる。これぞ江戸の『粋』。大奥の箱入り娘どもに、この引き算の美学が真似できるかい!)
滝川は信じられないというように、お美代の方の着物とお縫の姿を交互に睨みつけ、怒りで肩を震わせている。予算ゼロで恥をかかせるはずが、これでは完全に「お美代の方の創意工夫」が大成功した形になってしまう。
その時、宴の主賓席から、一人の男が立ち上がった。
大奥の最高権力者にして、当代の将軍――上様その人であった。
上様はお美代の方の前にゆっくりと歩み寄ると、その小袖をじっと見つめ、深く頷いた。
「お美代、見事な着こなしであるな」
「……は、はい。上様、恐れ入ります」
「聞けば、お前の御殿は今、財政が急迫しているとか。にもかかわらず、古い小袖をこれほど見事に仕掛けし、贅沢に頼らずともこれほどの『粋』を表現してみせるとは。これぞ、大奥の奢侈を戒める、武家の妻の鏡である。滝川!」
突然名前を呼ばれ、滝川がビクッと飛び上がった。
「は、ははっ!」
「お美代の御殿の者たちは、限られた予算を実によく差配している。他の御殿も、これを見習うが良い。お美代、褒美として、次の節句には西陣の極上生糸を十反、お前の御殿に下賜しよう」
「まぁ……! 勿体なきお言葉にございます!」
お美代の方が歓喜に震える後ろで、滝川の顔は完全に土気色に変わっていた。嫌がらせが裏目に出たばかりか、上様の前で自分の予算管理のズサンさが露呈しかけているのだ。
(ざまぁみろ)
お縫は心の中で盛大に拍手を送った。
これで最初の成果は達成。おちぶれ側室の地位は向上し、嫌がらせをしてきたお局の鼻を完璧に明かした。
しかし。
誰もが「美しい着物」に目を奪われている中、宴の席の少し離れた場所から、お美代の方の着物を、全く異なる「鋭い目」で見つめている男がいた。
男の衣服の家紋は、幕府の財政を司る『勘定方』のもの。
男は、着物の美しさではなく、その原価を計算しているようだった。そして、最後尾で不敵に笑うお縫の横顔と――彼女の腰元からチラリと覗いた真鍮製の通行許可証を見逃さなかった。
(……あいつ、私の不具合に気づいてやがるな?)
お縫の背筋に、冷たい汗が流れた。
最初の勝利の余韻に浸る間もなく、お縫の前に、大奥の帳簿を握る次の敵――あるいは相棒の影が迫っていた。
(第四話へ続く)




