第一話 大奥の不具合(バグ)と、大店の娘
「――そもそも、大奥という組織は」
お縫は、目の前に山と積まれた埃っぽい書類を睨みつけながら、脳内で静かに、しかし冷徹に語り出していた。
「家康公の時代には質素を旨としたが、三代、四代と経るにつれ、武家社会の縮図というよりは、巨大な消費都市へと変貌している。年間予算は幕府財政の数分の一に達し、そこに群がる江戸の商人群にとっては、一枚の鑑札が数万石の領地に匹敵する利権なのである」
つまり、放っておいても湯水のように金が流れる、管理のズサンな巨大市場。
それが、お縫にとっての「大奥」の正体であった。
「おい、新参! 何を突っ立っているんだい!」
甲高い声が、お縫の思考を現実に引き戻す。
声を張り上げたのは、この御殿を取り仕切る御中臈のお局、滝川であった。吊り上がった目に、いかいたる意地の悪そうな薄い唇。大奥の上級女中特有の、他者を見下すことに慣れきった顔立ちだ。
「は、はいっ! 申し訳ございません!」
お縫は慌てて前髪をかき上げ、おどおどとした「へっぽこで大人しい田舎娘」のフリをして頭を下げた。猫かぶりモード、始動である。
ここ、江戸城大奥の最下層たる「御末」。水汲みや薪割り、雑用を一手に引き受ける、いわば奴婢のような身分にお縫が潜り込んでから、ちょうど三日が経っていた。
本来、御末のごとき下女は、表の役人が詰める役所との境界である『御錠口』を跨ぐことすら許されない。だが、お縫の懐には、一冊の薄い大福帳と共に、真鍮製の奇妙な鑑札が隠されている。
(表の勘定方にいるあの男……水野様から裏で融通されたこの通行許可証がなけりゃ、夜中に帳簿をハッキングすることすら出来やしないからね)
かつて江戸大伝馬町で随一の格式を誇った呉服大店「織江屋」。その跡取り娘であったお縫が、名前を変え、身分を偽ってまでこの女の園に身を投じた理由はただ一つ。
一年前、悪徳役人とライバル呉服店「大黒屋」の陰謀によって謀反の濡れ衣を着せられ、没落した実家の暖簾を奪還するため。そして、その不正の証拠が、この大奥の帳簿の闇に眠っていると確信したからだ。
「これを持っていきな。お前が仕えるお方様の、来週の『観桜会』の御衣装だよ」
滝川がドサリとお縫の前に放り出したのは、お世辞にも美しいとは言えない、くすんだ桜色の小袖だった。
お縫は一瞥しただけで、その着物の「すべて」を見抜いた。
(……ははぁ、なるほどね。地組織の綸子は西陣の極上物。だけど、これ、三年前の流行遅れの柄だ。しか。も、袖口と裾の擦り切れた部分を、素人同然の針仕事で無理やり内側に折り込んで仕立て直してやがる。仕立て直しの回数は少なくとも三回。布地が悲鳴を上げてるよ。……これじゃあ、寸法も一回り小さくなっちまってるじゃないか)
お縫が配属されたのは、権力争いに敗れ、いまや予算を極限まで削られている「おちぶれ側室」お美代の方の御殿だった。
「あの、滝川様……。来週の観桜会といえば、上様をはじめ、そうそうたる大名方のお正室様方もお並びになる大行事と聞き及んでおります。お美代の方様が、このような流行遅れの、その、お直しされた小袖では、いささか表向きが……」
お縫がわざと困り顔で、おずおずと具申すると、滝川はふんと鼻で笑った。
「ふん、身の程を知りな。予算がないのだから仕方なかろう? 知恵を絞って、創意工夫で乗り切るのが、お前たち下女の役目だろう。格好がつかなければ、お美代の方様には当日、風邪でも引いてお部屋に引き籠っていただくしかないねぇ」
あからさまな兵糧攻め。そして、いびりであった。
周囲の先輩女中たちも、「お可哀想に」「これじゃ上様にお目通りすらできないわね」と、諦め顔でヒソヒソと囁き合っている。
だが。
お縫の脳内の商人モードは、泣くどころか、怒りで沸騰していた。激怒していたのはいびりに対してではない。大奥の、その構造的な不具合に対してだ。
(創意工夫で乗り切れ、だって? ……笑わせるんじゃないよ。大奥の呉服予算、一人当たり年間どれだけ割り当てられてると思ってるんだ。あの『大黒屋』が幕府に提出している見積書、私は全部頭に入ってる。直近の西陣の生糸の相場から逆算すりゃ、どんなに予算を削られたって、側室一人に新品の小袖の三着や四着、新調できるはずなんだ。
それを、こんな三年前の古着を回すってことは……あのクソお局、大黒屋と裏で手を組んで、中抜きを丸々自分の裏口座にブチ込んでやがるな?)
お縫の目が、前髪の奥でギラリと据わった。
武士の面目だの、大奥の格付けだの、そんな非合理的な綺麗事じゃお腹は膨らまない。これは、管理のズサンな組織の利益にぶら下がった、ただのドロボウの仕業だ。
(上等だよ、滝川。創意工夫で乗り切れって言ったね? その言葉、そっくりそのまま熨斗を付けて返してやる。現代の江戸の市場のキレ味、大店の娘の仕掛けってやつを、その腐った眼に焼き付けてやりな! 布地が足りないなら足りないなりに、誰も見たことのない最高のハイブリッドを見せてやるよ!)
「……はい。畏まりました。このお縫、微力ながら、お美代の方様の御衣装、精一杯のお手入れをさせていただきます」
深々と頭を下げるお縫の唇は、不敵な笑みの形に歪んでいた。
――大奥を揺るがす価格破壊の第一歩が、いま、最下層の雑用係の手によって踏み出されようとしていた。
(第二話へ続く)




