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夜渡る月

作者: 朝霧露風
掲載日:2026/04/01

夜渡(よわた)る月

 大津に、一献捧げよう。

 魂を運ぶという月の船をしばし西の空の山際にとどめ、飲んでゆけ。

 今しばらくでよいから。


 「草壁、ここか?」

 管弦の、指先の気まぐれにつき合うぽつりぽつりとした響きがあったので、大津は疑いもせずに部屋に入ったのである。

 草壁は確かに琵琶を膝に乗せ、そこにいた。

「お?」

 大津はだがそこで立ち止まったのだった。

 草壁は穏やかに顔を上げた。

「大津、どうした?」

「いや、別に大した用じゃないから……」

 出直すよ、と手を振ったが、かえって草壁は引き留めるのだ。

大名児(おおなこ)、下がりなさい」

 侍女の一人なのだろう。大津が姿をあらわすとさっと下がったが、二人きりでいたときは草壁のすぐ隣に睦まじく座っていたようである。

 きらきらと瞳を揺らす、どこかまだ幼さの残る愛らしい少女だ。

「……はい。失礼いたします」

 大名児(おおなこ)と呼ばれた侍女は染めた頬をうつむかせてその場を辞すと、小鳥が放たれでもしたように回廊を駆けていってしまった。

「なんだ。まるで俺は気が利かない野暮みたいじゃないか」

「いいんだ。彼女は本気じゃない」

 その言いように、大津はすっと眉を寄せた。

 草壁の笑顔は澄んでいる。何もかも承知しながら何もかもを省みることなく。そして軽く背もたれに背を預けた格好で弦をはじいている。

「お前は遊びでも、あの子は純粋にお前を思っていると見えたぞ」

「大津……」

 今度は草壁の方が不思議そうに大津を見上げた。

「大津の宮にも何人だっているだろうに。あの子は自分の夢を見ているだけだよ。自分だけのね。その夢の中には、わたし自身はいない。もしかしたら、彼女自身もいないのかな……」

 と首を傾げてみせる。

「なんだ。皇子の宮に上がることができたからには縁もあろうと期待している、ただの小娘だって言いたいのか」

 確かに、そういう娘は大津の宮にもいるにはいる。だが。

「あの娘は少しばかり活気があったんだ。でも、かわいそうだが、あの子にはわたしたちのようなものの恋人は務まらない」

「じゃああの子をどうするつもりさ」

 大津が問いただした。

 気に入らないではないか。幼い少女のこととはいえ、あの子は本気だ。少なくとも大津には本気に見えた。それを恋人失格だと言い切りながら、こうやってすぐそばに侍らせるのだから。

「どうもしないよ」

 草壁はむずかしい指使いなのか、そこで弦に目を落とした。

「そのうち歌を一つ贈って、少女時代の美しい思い出にしてあげようと思っている。いずれ彼女にふさわしい恋人が現れるだろうから、それまでのことだ」

「それこそかわいそうだろう。何とも思ってないんなら気を持たせるなよ」

 大津はあの子の心を我がことのように思いやって憤っている。

 草壁はふいに弦をもてあそぶのをやめ、じっくりと興味深げに一つ年下の異母弟に見入った。

 草壁の母は鵜野讃良(うののさらら)皇女。(おくりな)して持統天皇という。大津の母は大田皇女。讃良と大田は中大兄皇子、(おくりな)して天智天皇を父とする同母姉妹である。

 そしてふたりの父は天智の同母弟、大海人皇子、明日香清御原宮あすかのきよみはらのみやに天の下知らしめしし天皇(すめらみこと)(おくりな)して天武天皇という。

 草壁皇子と大津皇子。

 互いの母は姉妹で、ふたりは父を同じくする血の濃い異母兄弟だった。

 大津は武勇を尊ぶ父好みのいい体格をしていた。皇子にふさわしくまっすぐなまなざしは力強く、誰もが詩人の心をも持ち合わせる大津のりりしい潔さを愛するだろう。

 思わず草壁は大津の肩にもたれかかる格好で、くすくすと笑いはじめた。

「大津はいいヤツだ。人の心にまっすぐだ。そういう大津がわたしは好きだよ」

「……なんだよ……」

 ほめ言葉とはとてもとれない態度にむっとしたが、結局大津は草壁が笑いを収めるまでそのまま肩を貸してやるのだった。

 同じ父を持ち、幼い頃は一緒に泥まみれになって遊び、一緒に乳母たちに叱られた仲というのは、青年になっても言葉にならない情で結びつくものらしい。

 草壁のそれは楽しげな笑いだったが、どこか乾いていて、疲れを感じる。心からではない笑いを、大津は憮然と受け止めた。

 草壁は少女を憐れんで情けをかけて、それで王族の容赦ない一面を知って染まってしまう少女をこそ憐れむが、なるほど、だからといって今目の前で心を寄せる少女の、その心を遠ざけるのは不憫と大津は思うのだ。

 果たしてどちらが優しいのであろう。

 ──大津だな。と草壁は思う。

 わたしはただ、いろいろと理由をつけて彼女を引き受けまいとしているだけだ。

「悪い。まあ座ってくれ」

 草壁はようやく笑いやんで、大津に椅子を勧めた。

「何か用があって来たんだろう?」

「あ、ああ。お前が令(法令)に関する唐の新しい書を手に入れたと聞いたから」

 大津から令という言葉がでるとは珍しい。

 唐は先進の律令国家だ。翻って我が国にはまだ確固とした律も令もなく、唐のそれを倣おうという段階だった。

「うん。父上にお願いしたら、快く貸してくださったよ。つい先日、やっと写し終わったところだ」

 書物はそれ自体を手渡すか、それとも文字の素養のある人間が写し取ることで、別の人間の所有になる。もちろん、手に入れた書物を草壁自ら写したのではない。人にやらせたのだ。

 琵琶をかたわらに置きながら、草壁は言った。

「でも、今は不比等のところだよ」

「え? お前、もう読み終えたのか?」

「いや、読んではいない。不比等がどうしても読んでみたいというんでね。もともとわたしが読みたくて手に入れたのではないんだ」

「不比等というと……?」

「うん。藤原不比等」

 藤原不比等。

 最近よく草壁の住まう嶋の宮に出入りしている者だった。たいして身分は高くはないが、年が近いせいか草壁と気が合うのだろう。

「藤原。ああ、中臣鎌足の。いいのか、そんな者を近づけて?」

 草壁は身分にこだわらないところがあった。一方明朗で誰とでもうち解けるようでいて、実は身分にこだわるところがあるのは大津の方かもしれない。何度か会ったはずだが、大津は不比等のことを特に気にしたことはなかった。

 そもそも藤原氏とは、天智天皇の忠臣・中臣鎌足が死に臨んで賜った姓。その藤原氏は草壁・大津の父と壬申の(いくさ)を戦って敗れた大友皇子側にいたのだ。かつて敵側にあり、今父の世で不遇をかこつ者など、容易に近づけてよい人物ではないだろう。

 草壁はゆっくりと笑んだ。

「彼はおもしろいよ。今度大津も声をかけてみるといい」

 大津はまだ納得できない顔つきだった。興味が湧かないのならまあいいだろう。草壁は話を戻した。

「それで、書がどうしたんだ?」

「うん。唐の令をきちんと知っておきたかったんだ。人に吹き込まれて動くのは好きじゃないからな」

「吹き込まれて……?」

 草壁は聞きとがめて大津を見やった。

「唐の令では、我が国と違い皇位は父の子が継ぐと聞いた」

「ああ、そうらしいね」

 注意深くうなずく。

「それをちゃんと確かめたかったんだ」

 草壁はほんのりとした笑みをやや陰らせた。

「確かめて、どうするんだ」

「……。草壁が書を持っていないならいいさ」

 大津は帰ろうと立ち上がる。

「大津!」

 草壁が鋭く呼び止めた。

 大津は部屋の敷居をまたいだところで、柱に手をかけて振り返った。

 ふたりの視線が交錯した一瞬、互いのまなざしの奥底にあったのはさっきまでの親しさとは正反対にあるものだったろう。

 穏やかに晴れた日和に、そこだけひやりとした空気が流れた。

「父は偉大な方だ。おまえもそう思うだろう」

 大津が言った。

「……ああ」

 思っている。草壁とて心からそう思っている。

「だが、そんなお方でも臣下の言葉をくみ上げておられる。あちらの声を聞き、また別のものの声にも耳を傾ける。その一つ一つを取り上げて逡巡するのが帝なのか? いったい、父自身の政治がどのくらい出来ていると思う。唐では皇帝の言葉は絶対だと言うではないか。我が国は遅れていると、痛切に感じずにはいられない。草壁、わたしは、──父を越えたい」

 大津の胸には、自分は父を越えられる自負がある。その表情は確信に揺らぎもしない。

 ああ、そうだ。大津、お前ならできるだろう。いつかこの国を唐とも肩を並べられる国にし、お前は偉大な帝王となるだろう。

 ──だが大津。お前はこのわたしにはまったく野心がないと思うのか。

 お前は人がよすぎる。

 そのことが、わたしは不安だ。


 大津は去り、草壁は一人ぽつりと座っていた。

 欄干に腰を下ろしてぼんやりと柱にもたれかかっていると不意に震えが走り、夜風の冷たさに気がついた。涼暮の頃は過ぎ、空の星も冷えびえとまたたいている。だが、動く気力は湧いてこなかった。

「こちらにいらしたのですか」

 近づいてくる足音は聞こえていたので舎人(とねり)(召使い)の一人だろうと思っていたが、あらわれたのは、

「ん、不比等か」

 草壁の住まう宮が「嶋の宮」と呼ばれるゆえんは、庭園に造られた池に中州を配するからだった。

 その庭園を見晴らす青和殿は住居する宮からいささか離れたところにあり、宴の行われない夜などはことにひっそりと寂しい。

 それを言いに来たのであろうに部屋に戻れとは言わずそばに控える不比等に、草壁は力なく言った。

「月は沈んでしまったよ」

 西の空に目をやれば、確かにもう月はゆるやかな山並みに隠れていた。今夜の月はごく細い上弦の月だった。西の空低くあらわれて、沈むのも早かっただろう。

 草壁の手元には杯があった。

 二つの杯が。

 傍らには酒もあり、一人手酌で飲んでいたらしい。

 一方の手をつけずにただそこに置いた杯はなみなみと酒を満たし、風のいたずらか皇子の趣向か、何かの花びらが一枚、浮かんでいた。

 酒を友に、草壁は一人で月の行方を追っていたのだ。

 草壁はまたゆっくりと杯に唇をつけ、しばし夜の気配に沈む庭を見るともなく見やり、

「わたしは、狡いのであろうな」

 不意に気がつくと胸の内を吐露していた。我ながら心が弱くなっているらしい。

「皇子?」

「わたしは大津の野心を知っていた」

 不比等はじっと返事をしなかった。

「だが、わたしは胸に秘めた」

 謹みのあるそぶりで、だが不比等は言葉の意味するところを逃さない。

「皇子さまの、野心ですか」

 すっと草壁をとらえた視線は鋭く、そして密かに何事かを訴えるようであった。さらなる言葉を誘うようであった。

 時は夜。草壁のそばには不比等以外誰もいない。

 ──皇子さまが一言おっしゃってくだされば。

 不比等の父・中臣鎌足と草壁の祖父・天智天皇は、若かりし頃共に蘇我入鹿を伐ち、後々まで生涯を共にしたよき主従だった。そして若い不比等もまた、父と同じように生涯を賭けるにふさわしい自分の主を求めている。

 草壁は口をつぐみ、手を振った。肩を落として目を閉じる。

「わたしは大津が好きだった。だが、大津の野心を直接本人から聞いておきながら、諫めることをしなかったのだ。その結果がどうだ」

 腹立たしげに言って、草壁は自分のまとう喪の服を払ってみせた。

 大津は死を命じられた。

 この国の天皇にして草壁大津の父帝が崩御し、その喪のさなか謀反を企てた罪によって。

 不比等の視線から、さっきの緊張がきれいに消えていた。一瞬訪れた密謀の機会は、次の一瞬でそれを逸したのだ。だが不比等に失望はないようだ。再び都の誰もが浮かべる哀切の感情を登らせている。

「ですが大津皇子様ご自身の振る舞いが、なによりも雄弁に……」

「わかっている。わたしは大津を責めているのではない」

 そして声を落とす。

「母を責めているのでもない」

 言って再び夜の庭に目を放った。

 みな、自分がなすべきと信じたことをなしたのだ。事はいつも巡り合わせ。

 王の死はしばしばこの国に混乱をもたらし、それはたいてい次の王を決める叔父甥兄弟の争いの果てに時には一方の死をもって幕を閉じた。大津はそれを繰り返したのである。彼は王位を望み、だが実際には兵をよく募ることもせぬまま何をなす間もなく事は露見した。

 王の空位、亡き王の后・草壁の母は、自分の同母姉妹の息子・大津に死を賜った。

 それを冷酷な仕打ちと人は言うが、それが王というものだ。母とて大津を悼んでいる。大津に死を賜るのが自分でなければならなかった巡り合わせを恨んでいる。

「惜しむは日和見な連中がわたしと大津をことさらに煽っては競わせたことだ。天皇の息子とは、みなそうであったのであろう。父も皇子の頃にはこのように苦労されたのであろう。幼い頃はあれほど共に仲良う過ごしたというのに、殊にこの数年は兄弟らしい言葉を交わせないままに、大津は逝ってしまった……」

 庭に作った池は、あちら側の建物の庇につり下げた灯楼の明かりを映して後は闇。微風に立つかすかな波が炎をさらに揺らめかせた。

「不比等も飲むか?」

 草壁は自分の杯を差し出した。

「皇子と同じ杯からいただくのは……」

 置かれていたもう一つの杯をちらりとみやり、「こちらでは?」と問う。

「それはだめだよ。それは大津のだ」

 不比等ははっとなり、それからその場に膝をついて草壁から杯を受け取った。

 その杯に、草壁は酒をつぐ。

「いただきます」

 飲み干した杯を不比等が袖で拭って差し戻し、草壁はようやく立ち上がった。

「戻ろう。皆も心配しているだろう」

「はい」

 冷えた体で回廊を歩んだ。ふたりは無言だった。

 庭に降りた夜も、明かりの届かぬ回廊の隅も、足下からはい登って衣にまとわりつく闇も、今宵はことに気配が濃い。

 回廊の先に舎人か侍女の姿が見える辺りまで歩いて、草壁は振り返りもせず後ろに従う不比等に言った。

「そなたは母上をお手伝いするといい」

 不比等の返事を待たずに続ける。

「母上は皇位につくおつもりだから」

「鵜野皇后さまが、ですか?」

「使い古された手だよ。我が祖父(天智天皇)も、そうしたではないか。蘇我入鹿を伐って後に帝位を誰にゆだねられた? ついには母上にゆだねられて、二十歳そこそこで板蓋宮の大極殿で蘇我入鹿を切って伏せたお方が、帝位に登られたのは(よわい)四十を過ぎてからだ。我が父上はどうだった? 先帝(天智天皇)がご自分の御子に譲ろうとされた帝位を兵を募ってかすめ取られたが、それを責める者はこの国にはまだ少ない。今わたしが皇位を狙うなど、大唐帝国ではいざ知らず、ただ帝の息子であるということがこの国で継承権を約束する、どれほどの力になるものでもない。どれほど父上がわたしを皆に皇太子(ひつぎのみこ)と呼ばせようと、父上の定められた令(法律)はまだまだ古い我が国のやり方を改めるに至っていないのだから。より多くの豪族の力を結集し、武力を見せつけて王位を奪る。人々の心は未だそのような古来からのやり方にあるのだ。そして、わたしは皆から見れば、王に据えるには若輩にすぎる」

 草壁は一度口をつぐむ。

「といって、別のどなたかが皇位につかれては、次にわたしがそれを取り戻すのはいかにも至難。だから、母上は決心されたのだ」

 母は自負も自尊もある方だ。きっと、やり遂げられるだろう。

「わたしは、時を待とう」

 あちらから舎人(とねり)の一人が渡ってきて、主に会釈してその場を譲った。

 その舎人が十分に遠くへ去るのを待って、不比等が言った。草壁は見なかったが、おそらく不比等は恭しく礼をしていたことだろう。

「皇子の御意のままに」



 あの後、大津は草壁に言ったものだ。

「俺もお前が好きだよ。草壁は、地上の塵など一顧だにしないんだ。お前は一人、きれいなまま美しい花園で笑っているといい。後は引き受けた」


 「ふふふ」

 草壁は小さく笑う。

 むなしく笑う。

「話に聞く仏の天上世界は、わたしだって行ってみたいさ。でも、地上の塵を拾っては、身を重くして地上につなぎ止められているのは、わたしとて同じだ」


「わたしが無欲だって? とんでもない。わたしにだって野心はあるさ。大津と同じ、大それた野心がね」


「残念だけれど、わたしの野心の妨げは大津じゃないよ。お前はそう思っているようだけれど。それはお前じゃない」


 けれどもそれらの言葉は、大津の去った後に虚しくこぼたれたものだった。聞くものは風ばかり。

 きれいなのはお前だ、大津。

 唐の先進の令を、お前の願望を叶えるところだけを拾い上げて信じた大津。

 “いつか”お前が帝位につく場合を見越してわたしと両天秤にかけていた者たちのしたたかさに気づかず、若さを見限られた大津。

 わたしは大津のその純粋さを愛する。

 だから、待っていよ。権謀術数を知らず、純粋なままで。天上の美しい花園で。

 わたしはこれから、地上の塵にまみれよう。

 大津、待っていよ。



 【了】

 お読みいただき、ありがとうございます。

 この物語は、2000年に書き、個人サイトにアップしていたものを加筆修正し、PCを処分するにあたり個人的な保存も兼ねて、こちらに登録したものです。


 時代設定は、日本古代、藤原京時代。


▽出来事の流れ

 686年9月 天武天皇崩御

 686年10月 大津皇子謀反

 689年4月 草壁皇子崩御

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