表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの子の給食袋  作者: お寿司
第一幕 接触

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/14

名前が減っていく

瀬川のアパートを訪れてから、ファイルの見え方が変わった。


朝、コーヒーをいれてMacの前に座り、ブラウザを開いてゲームのサイトを表示する。もうルーティンだ。違うのは画面の向こう側の手触りで、あの部屋の煙草の匂いを知ってしまった後では、スキャン画像の折り目の癖やインクの滲み方まで、紙の質感が透けて見えるようになっていた。瀬川が「見つけた」と言ったものが、ピクセルの向こうにある。


取材ノートを開いた。瀬川のノートに書かれていた言葉と、Aさんの証言を並べて見直す。「見つけてしまった。これは作り話にできない」。「見つけた、って言ったんです」。あの遺留品が実在する子供の記録だとしたら、仮説のまま保留にしておくことはもうできなかった。あの部屋の冷えたフローリングの感触が、足の裏に残っている。


連絡帳を最初から読み直した。12ページ、3ヶ月分の記録で、前半と後半で字が違う。


前半にはエピソードがある。なおちゃんと鬼ごっこをして、バケツをこぼして、図書室で本を借りて、靴を買ってもらっている。字の大きさにばらつきがあって、嬉しい日は1文字ずつが広くなる。7ページ目までの連絡帳には、この子の1日が入っていた。


8ページ目から変わる。


「今日はとくにありません。」

「今日も元気です。」

「今日は算数のテストがありました。」


一行で終わる日が増えている。なおちゃんの名前が消え、ゆかちゃんも出てこなくなり、兄の話も書かなくなっている。算数のテストがあったことは書いているが、結果は書かない。前半のこの子は、バケツをこぼしたことも鬼ごっこで捕まえられなかったことも全部書いていた。後半は事実だけだ。


文字数と固有名詞の出現回数をスプレッドシートに入力した。


前半の平均記入量は31文字で、後半は14文字。固有名詞は前半がページあたり2・3回、後半は〇・6回。7ページ目と8ページ目の間に急な落差があって、それ以降は低空飛行のまま戻らない。名前が減っていった。


学年が上がれば記入量は減るし担任が替われば書式も変わるが、この連絡帳は同じ学年の同じ3ヶ月間で、フォーマットの変更がない。


もうひとつ、気になるものがあった。最後のページの欄外——罫線の外側の余白に、子供の字で小さな書き込みがある。


記号が並んでいた。◎、△、□。横にひらがなが1語ずつ書き添えてあって、上に「ぬきだし」と見出しがついている。各行に3列目の文字列もある。子供が自分で作った対応表のようだが、連絡帳の本文と照合しても対応が取れない。


スクリーンショットを保存して、スプレッドシートの備考欄に「連絡帳欄外に記号対応表。未解読」と入力した。


Discordに投稿した。4回目になる。投稿ボタンを押すまでの躊躇が、回を追うごとに短くなっている。


「連絡帳の後半、記入量が前半の半分以下です。固有名詞の出現頻度も1/4に。同1学年・同1担任の期間なので、フォーマット変更は考えにくい。生活環境に変化があった可能性」


送信してからエアコンの音に気がついた。朝からつけっぱなしで部屋が暑くなっている。リモコンで温度を二度下げると、冷たい風が首筋を撫でて、瀬川のアパートの通路の風がよみがえる。


返信はすぐについた。


「写真台紙と符号するよ。page_009の運動会を最後に、page_010以降は全部室内写真。外の写真が1枚もない」

「行動範囲が狭くなってる?」

「友達の名前が消えて、外の写真が消えて、連絡帳が短くなる。全部同じ時期じゃない?」


スプレッドシートの日付を照合した。連絡帳の記入量が減り始めるのが8ページ目で、写真台紙が室内限定になるのがpage_010。別の媒体なのに、変化の開始時期がほぼ一致していた。写真台紙のpage_010を開くと、ダイニングテーブルの前に座る子供の後ろ姿が映っていた。page_011は同じ部屋の別の角度で、テーブルの上にケーキがあるから誕生日かもしれない。顔にぼかしがかかっている。どちらの写真にも、写っているのは大人二人と子供ひとりの3人だけだった。前の写真は4人だったのに。画像を閉じた。


レシートの購入パターンにも同じ時期に変化がないか気になったが、品目の時系列データはまだ整理していない。後で照合する。


アンケートの2枚目、後期のものを開いた。


「こまっていることはありますか?」——「ない」


他の回答は「です」「ます」で終わっているのに、この1文字だけトーンが違う。前回も気になっていたが、今回は画像を最大まで拡大した。


「ない」の筆圧が強い。他の文字と比べてペン先が紙に深く食い込んでいて、「カレー」も「トランプ」も軽い筆圧で書かれているのに、「ない」だけが力を込めている。


筆圧から心理を断定するのは飛躍だ。ただ、アンケートの他の欄を見ると後期の回答は全体的に短くなっていて、前期に「カレーライス」と書いていた好きな給食が後期は「カレー」になり、好きな教科も前期の「たいいく。ドッジボールがすき」が後期は「たいいく」だけになっている。


それだけメモに残す。


 ◇


真奈とのランチは昼前に渋谷で待ち合わせだった。逃げたらパッタイの刑だが逃げるつもりはなかったのに、出かける前にスプレッドシートをもう一周見てしまって、5分遅刻した。


道玄坂の裏のタイ料理屋に向かう途中、11月の日差しが低くて、ビルの影が歩道の半分を覆っている。影に入ると空気が急に冷たくなって、日向に出ると首筋が温まる。久しぶりの外だった。


店の前に真奈がいた。黒いニットにデニムのジャケットで、髪を後ろでひとつに結んで腕組みをしている。こちらに気がつくと腕組みを解いて、片手を軽く上げた。


「5分。遅刻として微妙な長さ」

「ごめん」

「怒るほどでもないし許すほどでもない。とりあえずパクチー増量の刑」


自動ドアが開くと、ナンプラーとレモングラスの匂いが押し寄せた。席についてテーブルの上の調味料セット——ナンプラー、チリ、砂糖、酢——を眺めている間に、真奈がガパオライスを指差して、私はカオマンガイにする。パクチーは増量しなかった。


「仕事どう」と聞くと、真奈は箸袋を折りながら話し始めた。アパレルのLPデザインと不動産のバナーが並行で走っていて、方向性が真逆だという。


「アパレルは余白で勝負。不動産は情報量で殴る。脳の切り替えが大変でさ、昨日うっかり不動産バナーに余白たっぷり入れたら、先方に『お洒落すぎます』って言われた」

「褒め言葉では」

「不動産では悪口」


真奈はストローでアイスティーを飲みながら、箸袋で小さな星を折っている。待ち時間に手を動かす癖は昔からで、コワーキングスペースで隣の席だった頃は消しゴムのかすで山を作っていたのを覚えている。


料理が来た。カオマンガイの鶏肉の上にパクチーが載っていて、タレの甘酸っぱい匂いとパクチーの青い匂いが混ざっている。真奈のガパオは目玉焼きが半熟で、黄身の端がスプーンに触れて崩れた。


「で、ゲームの取材どうなったの。空っぽの部屋がどうとか言ってたやつ」

「進んでる。制作者の知り合いにも話を聞いたし、Discordの分析も続けてる」

「あのゲームの中の子って、結局どういう子なの」


鶏肉を切りながら答える。


「小学生。17年くらい前の記録。レシートと連絡帳と写真が残ってて、生活の断片が見える。友達がいて、うまい棒が好きで、おにいちゃんの風邪を心配してた子」

「過去形?」

「記録が過去のものだから」

「じゃあその子は今どうしてるの」


スプーンを置いた。ファイルの中の17年前の断片を分析しているだけで、この子の「今」を追ったことがなかった。17年前の小学生は、今なら30歳前後になっている。どこかで生活しているのか。それとも。


「分からない。制作者がいなくなってるし、この子が実在するかどうかもまだ確定してない」

「静はもう実在すると思ってるでしょ」


「たぶん」

「知らない人なのに悲しくない?」


スプーンを持つ手が止まった。


「悲しい?」

「だって。その子の連絡帳読んでるんでしょ。友達の名前知ってて、好きなお菓子知ってて。それってもうけっこう近いよ。知らない人じゃない」


真奈はガパオを食べながら、こちらを真っ直ぐ見ていた。心配しているのとは違う。不思議なものを見ている目だ。5年間の付き合いの中でこの目は数えるほどしか見たことがない。


「分析してるときは、そういうのが出てこないんだよ。データを整理してる間は、文字数と出現頻度を追ってる。入ってくる余地がない」

「それ大丈夫?」


真奈の声から笑いが消えていた。テーブルの上に折った星がひとつ、皿の横に置かれている。


「大丈夫って何が」

「普通はさ、小学生の連絡帳読んで友達の名前が減ってったら、胸がきゅってなるでしょ。静はデータの話してる。文字数と頻度。分析としては正しいんだろうけど、人間としてはちょっと変だよ」


反論しなかった。真奈の皿にはガパオの米粒が数粒残っていて、目玉焼きの黄身の跡がオレンジ色に広がっている。


「変かもしれない」

「変だよ。でも静はそういう人だから、別にいい。ただね、どっかで出てくるから。溜めてると1回ででかいの来るから。そのときは呼んで」


真奈は水を飲んで、テーブルに折った箸袋の星を残した。


「バナーの締め切り明後日だから帰って仕事する。静もごはんちゃんと食べなよ。カオマンガイ残してるでしょ」


皿を見ると半分残っていた。話に集中して手が止まっていたらしい。


「食べる」

「ここで食べてから出なよ。持ち帰りにしてデスクで食べるとか言い出しそうだから」

「……食べる」

「分かったって言って守らないの知ってるからね」


真奈は伝票を持って立ち上がった。「今日は私が払う。静は次のランチで返して。つまりまた来るの確定」と言って、財布から1000円札を2枚出してレジに向かった。


店を出ると、昼の渋谷の歩道が人で埋まっている。真奈は駅に向かい、私は反対方向に歩いた。11月の午後の日差しがビルの間を斜めに差していて、真奈のジャケットの背中が人混みに紛れていく。


知らない人なのに悲しくない?


歩きながら考えた。なおちゃんの名前が消えていくスプレッドシートの数字を見たとき、入力する手が一瞬止まったのを覚えている。


缶コーヒーを1本買った。温かい缶を手に持って歩く。瀬川のアパートの帰りと同じ動作で、いつの間にかルーティンになっている。


駅の改札を通るとき、スマホが震えた。真奈からのLINEだ。


<星、テーブルに置いてきちゃった>


<いいよ、箸袋だし>


<次また折る。静のぶんも>


 ◇


夕方、デスクに戻って棚を開けた。マグカップはもうないので奥から湯飲みを引っ張り出して、シンクの状況は見なかったことにする。


湯飲みにコーヒーを注いでDiscordを開くと、投稿が30件ほど増えていた。連絡帳の分析や写真の考察やうまい棒パターンの追加検証が並んでいて、私がランチで外に出ている間にも議論は進んでいる。スクロールしていくと新しいスレッドが目に入った——「016_transfer の記入欄についてもう1回見てほしい」。


ファイル016は他と比べて明らかに解像度が低い。瀬川がスキャンする段階で設定を間違えたか、コピーを重ねた書類をさらにスキャンしたのか——文字がほとんどつぶれていて判読できない箇所が多く、Discordでも早い段階で「これ読めなくない?」と流されていて、私も読める遺留品を優先して後回しにしていた。


改めて開く。


転出届だった。市区町村の様式だというのは、罫線のレイアウトと欄の配置で分かる。手書きの記入欄がいくつも並んでいるが、文字はほとんどつぶれていて読めない。判読できるのは印刷された欄名——届出日、届出人、転出先住所、転出する者の氏名と生年月日——だけで、そこに記入された手書きの文字は大半が黒い塊になっている。


それでも書式の構造から読み取れることはあった。転出する者の欄には4行分の記入スペースがある。一行目にだけ文字が詰まっていた。2行目から4行目は空白だ。


ひとり。転出する者がひとりだけ。


Discordの書き込みが続いている。


「転出する者の欄、一行しか書いてない」

「ひとりだけの転出届ってこと? 家族で引っ越すなら全員書くよね」

「届出人の欄と転出する者の欄、筆跡は同じに見える?」

「解像度がこれじゃ分からん。でも届出人と転出する者は別人だろうね、書式の位置からして」

「誰が出されたんだろう。名前が読めないのがきつい」


誰が。ひとりだけ転出させられた人間が誰なのか。


写真が浮かんだ。4人が3人になっていた。


全部、同じひとりの身に起きたことだとしたら。


この子だ。


4人家族からひとりだけ転出届を出された人間は、この子だ。家族は動いていない。この子だけが、どこかに移されている。


スプレッドシートに戻る。016_transferの行を探して備考欄に追記した。「転出する者=1名のみ。届出人は別人(親か)。4人家族から1人だけの転出。施設入所・親族預け等の可能性」


転出する者の欄を拡大してみたが、解像度が低く文字がつぶれている。判読できるのは文字数だけで、3文字だった。


page_008の欠番と、なおちゃんの名前が減っていく連絡帳と、外の写真が消える写真台紙と、うまい棒だけのレシート——全部、同じ方向を指していた。この子の周りから何かが減っていく。友達が減り、外出が減り、言葉が減る。そして最後に、家族から切り離されている。


窓の外が暗くなり始めている。デスクの上の湯飲みに画面の光が反射して、コーヒーの染みが底に薄く残っている。


Discordに最新の書き込みが1件、追加されていた。


「転出先の住所、読めた人いる? 本当に実在する場所なのかな」


返信はまだない。画面の光だけが暗くなった部屋を照らしていて、空白の4行目がスキャン画像の中で白く浮いていた。

感想や評価をいただけると励みになります。

気に入っていただけたらよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ